4-3、本当の呪い③
走って、一時間ほどで寺につく。
寺に入るなり、カスミは絶句した。
本尊の畳に経文が描かれ、その真ん中にかえでたちの姿。住職が経文を読んでいるから本田先生は手を出せないが、かえでは床に這うように、倒れている。足がもう、ミイラ化して立たないのだ。
経文が流れるように紡がれる。本田先生が立ち往生して、勝機を伺っている。
かえでが一歩でも経文の描かれた畳から出たら、おしまいだ。
一刻の猶予も許されない。
「かえで! 今から言うフレーズを歌にして!」
「カスミ! 危ない!」
佐奈が叫んだときには遅かった。
本田先生が牙をむき出しにして、カスミの肩にかみついたのである。
そのまま、カスミの生気を吸うように、本田先生の姿がまがまがしい人魚のそれに代わった。
尾が出来、鱗が生え、鰓ができる。しかし、その顔はおぞましく、口が耳まで避けている。その口から生える尖った歯で、カスミに噛みつき、かえでを誘っている。そこから出てこい、と。
「カスミ! 私はいいから、逃げて!」
「かえで! 『あいしていたの』『もう人間なんて信じられない』『ほっといてくれ』『はあい、遊びましょう』『なんでも申せ、叶えて見せよう』」
叫び、カスミはその場に膝をついた。読経で人魚が苦しんでいる。しかし、噛み付いたカスミのことは意地でも離さない。
住職にもらった御札が、ポケットの中で爆ぜた。
かえでは、動かない体で歌を紡ぐ。かえでの歌は、やはりアルトで美しかった。
「あ……あいしていたの、わたしはきっと。アナタとともに、すごしたじかん」
かえでが歌を歌う。人魚の動きが鈍っていく。
人魚の身体の動きが鈍る。ミイラに戻ったり、人魚に戻ったり、狭間にいるようだった。
人魚が対抗するように、歌をかぶせた。
「人間、人間、私のその体を明け渡すのよ。あなたはどうせ、ひとりぼっち、あなたたちは、犬猿の仲」
しかし、かえでは耳をふさぎ、つづけた。
「もう人間なんて、信じられない。そう思っていたの、私もアナタも」
「人間なんてやめてしまえ。私がオマエに成り代わるのだから」
「でも私は、知ってしまった。アナタのそのやさしさに」
人魚とかえでの歌がまじりあって、カスミの目の前が真っ暗になる。
噛み付かれた肩からは、不思議と血は出なかった。ただ、身体の真ん中から、血ではないなにかが、吸い取られていく。
「だれも気付いてくれなかったけど。でも、ほっといてくれって何度突き放しても、アナタだけは、私に気づいてくれた」
「憎め、憎め、オマエはひとりだ、オマエなんか誰も必要としないのだから」
人魚は決して美しいとはいいがたく、化け物のように醜かった。ミイラ化した半分と、人魚に戻った半分。
かえでの体が、だんだんと人間に戻ってく。
「だから私は、答えたの。はあい、遊びましょう」
「嘘だ嘘だ嘘だ! 人間なんて、見捨ててしまえ!」
かえでの歌は、残すところワンフレーズだった。かえでは人魚の歌に惑わされぬように、今一度耳をふさぐ。あわせるように、カスミも耳を塞いだ。
かえでと人魚のせめぎ合い。かえでは歌を最後まで歌うことだけしか考えていない。
それでよかった。はずだった。
見落としていたのは、カスミだ。
「私はアナタの手を取った。だから神は私に言った。なんでも申せ、叶えて見せよう!」
そのとき、人魚の口元が、いやらしく、笑った。
人魚の歌に惑わされぬためには、耳栓をすればいい。
しかし、人魚の沈黙もまた、人間を惑わせるのだ。
セイレーンの伝説には、確かにそう、書いてあった。人間が耳栓をするのなら、セイレーンは歌を辞め、沈黙する。しかし人間は、セイレーンが沈黙してるとは知らずに、歌っていると思い込んだ。
だから人間は、セイレーンの沈黙に惑わされ、そうしてまた、セイレーンに命を奪われた。
カスミが、人魚の手を、取った。人魚の沈黙が、カスミを惑わした。
人魚が自らの鱗を、カスミの口に入れた。カスミはそれを、素直に飲み込んだ。
人魚を取り込んだ人間は呪われ、人魚に生気を吸われて人魚となる。次なるミイラとなるのだ。
「カスミ!?」
住職は相変わらず読経を続けている。
汗だくになりながら、人魚を鎮める読経を繰り返す。
畳に描かれた経文の中にいるのは、かえでと恵美子と佐奈と理沙。カスミだけ、ここにいない。
だから人魚は、かえでを、あきらめた。
「う……あっ……!」
かえでの体のミイラ化が解けていく。その代わりに、カスミの体が、みるみるミイラと化していくのだ。
人魚がじかに、カスミの生気を吸い上げている。
武田先生は、すでに生気を吸い上げられて捨てられたのか――
「カスミ!」
かえでが立ち上がり、畳の経文の中から出ようとする。しかし、恵美子も佐奈も理沙も、住職でさえ、それを止めた。
このままでは、カスミが人魚になってしまう。
かえでの歌は、確かに人魚を封じる一手となった。だが、最後の最後、人魚はかえでではなくカスミに沈黙という誘惑を投じた。
カスミはその沈黙に惑わされ、人魚を自ら『口に含んだ』。
人魚が復活するためには、誰かが人魚の肉を食べればいい。ならばと人魚は、カスミを惑わし、そうしてどんどん、どんどんとカスミの体が干からびていく。
「カスミ!」
かえでが手を伸ばす。しかし、みながかえでを止める。もう間に合わない。
「あは。ねえ、かえでちゃん。この子のこと嫌っていたじゃない。だから私が、処分してあげるのに」
「そんなの……今は友達だって思ってる!」
「はは、人間って醜いわよね。そうね、今、カスミちゃんに触れたら、あなたも同じ――私の呪いで、ミイラになるわよ? それでもアナタ、カスミちゃんを助けるなんて言い張れるの?」
人魚はもう、すべてを取り戻した。残るは右目だけだった。
かえでの手が、迷いを見せる。カスミはもう、助からない。呪いを解く歌も、人魚の沈黙によって破られた。
もしも、もっと早くカスミを信用して、人魚の呪いのことを話していたら。
かえでが一歩、足を踏み出す。
「かえで! だめ!」
みなの静止も聞かずに、かえではカスミの、その干からびた手を、握った。
カスミに残された右目から、涙がこぼれる。
「ごめん、カスミ。カスミは私の友達だから。放っておくことなんて、できないよ」
カスミの体が、完全に人魚のそれとなり、固くなった。
手を絡ませて、かえでもまた、人魚となる。
二人分の生気を吸って、人魚はいよいよ万全となった。
「本当に、めでたい子。ご住職も、また大変な呪いを手にしたものね」
人魚はそそくさと寺を降りて、波にのまれて海に帰っていった。
寺には二つの人魚のミイラが、残されていた。そのミイラは、手を取り合って、仲睦まじく、たたずんでいる。




