3-5、呪いの解き方⑤
「武田先生! いますかー!?」
理科準備室の前で、声を大きくカスミが問うた。
しかし、中から返事はない。
しん、と静まり返って、廊下の冷気がひやりと気持ち悪い。
秋雨で外には雨が降っており、今日は底冷えする。じめじめしても、寒くても、ひとは自然現象に文句を言う。
「あれ、甲斐田さん。理科準備室に用事?」
クラスメイトの相川さんだった。カスミが「うん」と答えると、相川さんはカスミに耳打ちするように、
「理科準備室は、ひとりで行かないほうがいいよ」
「え、なんで?」
「知らない? ここ、夕方になると幽霊出るらしいよ。『やめて、だめ』って。女の人の」
「……、そうなんだ」
あの伝記に関係なく、この理科準備室はなにか『訳あり』だ。呪いの人魚ではなく『女の人』の幽霊。
「あとね、保健室も」
「保健室も?」
「うん、あそこね、誰もいない時に、なにか気配がするんだって」
へえ、と聞き流す。それにしても、この理科準備室には、伝記に関係なくなにかが存在するらしい。
カスミは、嫌な噂にためらうも、なぜだかそこが気になってしまう。
夕方になると、ひとの声が聞こえる? 女の人? それも、丑三つ時ではなく、夕方。
「なにか、ありそうな、気もする……」
理科準備室の鍵は、いつも開けっぱなしだ。
社会の準備室や音楽準備室は、そうはいかない。
だからこそ、カスミやたちも忍び込むことができた。
理科準備室は、実質物置だ。
その理科準備室に、女の人の幽霊。それは夕方に出る。朝や夜は、出ない?
「あの、武田先生、いますか?」
誰もいないとわかっていたが、一応確かめるために意を決して、理科準備室に足を踏み入れる。
がらら、とドアを開けると、二つの影が動いた。
目の端に、黒い布地が揺れている。
「あ。武田先生?」
あの鏡を背中に隠し、武田先生が「やあ」と右手を上げた。
あの日、血の手形がびっしりついていた鏡は、あの場所にはなかった。
部屋の端っこに、ぽつんとたたずんでいたはずだ。
なのに今は、武田先生の立つ、理科準備室のど真ん中に、ある。鏡には布がかぶせてある。
その後ろが、湿り気を帯びている。なまぬるい、気持ち悪さをはらんでいた。
「カスミ、なんの用だ?」
「あ、はい……今日の夜、この理科準備室の鏡をもう一度見てみたくて」
「……またか? この前は見逃したが、丑三つ時に学校に入れるわけないだろう?」
「……それもそうですね」
鏡にかかった布が揺れている。
その布の奥でふと漏れるのは、風か息遣いか。
「あ……先生、私」
「ああ。放課後なら……下校時刻が七時だろ? だったら、下校ぎりぎりの七時になら、来られるようにしておくけど」
武田先生の唇が、緊張からか真っ赤に染まっている。
鏡の向こうのぬめりが、カスミを威嚇している。
本能が、ここを逃げろと叫んでいる。
「あ、じゃあ、そうしてもらえますか?」
「ああ。それじゃあ、放課後」
あれは幽霊だろうか。
そもそも、だったら武田先生に知らせるべきだった。
それができなかったのは、鏡の向こうに『なにかの気配』を感じとってしまったからだ。
「武田先生、なんで返事してくれなかったんだろ」
中にいたのなら、返事をしてくれたらよかったのに。
けど、あそこには武田先生以外にも誰かがいた?
だったらあれは、誰だったのだろう。あそこでなにをしていたのだろう。
「でも、気のせいかもしれないし」
あそこには、武田先生しかいなかった。そうに違いない。あの気配は、恐怖が作り出した幻。
「あ、カスミ。タケセン、なんだって?」
教室に帰り、佐奈が心配そうにカスミを覗き込んだ。
カスミはにこりと笑って、つとめて明るくふるまった。
うまく笑えている自信がない。きっといびつにゆがんでいるだろう。
「丑三つ時は無理だけど、下校時刻の七時に来なさいだって」
「うへえ、それで、カスミは行く約束したんだ?」
「うん。だって、気になることがあるの」
例えば、あの理科準備室に武田先生以外の人間がいたとか、例えば、あの鏡には呪いの人魚なんて住んでいないとか。
放課後になり、カスミと佐奈、かえでと恵美子は四人で集まり、理科準備室に足を向けた。
「お、来たな、怪奇クラブ」
すでに武田先生の姿があり、四人は安堵の表情を浮かべた。
あの鏡は、昼間とは打って変わって元の壁際に鎮座しており、さてカスミは首を傾げた。
「あの、武田先生」
「なんだ?」
「鏡、移動する必要ありました?」
それに、あの鏡はひとりでの移動は不可能だ。いくら武田先生が男でも、ふたりがかりでようやく動かせる重さのはずだ。
だったら、武田先生は昼間、どうやってこの鏡を移動したのだろうか。――やはり、あの場には第三者が、いた。
「ほら、この鏡だろう? 納得いくまで見ていいぞ」
今日は雨で、野球部もサッカー部も、グラウンドを使わない。ざあざあと秋の雨は梅雨ほどではないが陰鬱で、その音を聞きながらカスミは鏡をまじまじと見た。古いものだから垢にまみれて、輝きは失われている。
しかし、だからこそ雰囲気があった。
カスミが鏡をまじまじと見る間、佐奈と恵美子は目を瞑って鏡から顔をそらしていた。
「あれ、ここ」
「なんだ?」武田先生の声は、上ずっていた。武田先生もやはり、呪いの人魚のことを信じてしまったのだろうか。
カスミが指さしたのは、鏡の上――ふちである。そこに、セロファンテープのあとがあったのだ。
しかも、古びたそれではなく、ごく最近に剥がされたあとだ。
「この鏡、最近誰か使ったんですか?」
「いいや? どれ、俺にもよく見せ――」
「先生! 外になにかいる!」
武田先生が鏡を凝視しようと身を乗り出したタイミングで、かえでがなにかに気づき、窓の外を指さした。
ざあざあと、雨の音がうるさかった。耳の奥が湿り気を帯びて、なのにかえでのアルトの声はよく聞こえた。まるで人魚のように、アルトの悲鳴すら美しい。
「え……顔だけ、浮いてる……!?」
佐奈がその場に尻もちをつき、恵美子は悲鳴を上げて目をふさいだ。
校庭に浮遊するソレは、消えては現れ、また現れては消える。
頭だけの化け物だ。
伸びきった髪の毛が顔を隠している、女の化け物。
「あれは……頭だけの幽霊!? まさか本当に幽霊がいるなんて」
武田先生だけは冷静だった。
「タケセン、怖いから今そういうのナシで!」
大人はこういう時、不可思議を否定するものだと思っていたが、武田先生はソレを目の当たりにして、カスミたち怪奇クラブがなにか『訳あり』だということを察した。
「とにかく。アイツから逃げるぞ!」
武田先生が先導して、カスミたちは職員室へと走るのだった。
職員室に避難して、カスミも佐奈も、かえでも恵美子も、言葉がなかった。
憔悴しきったかえでに、しかし声をかけたのはカスミである。
「あれは……呪いの人魚ではなかった、よね」
「今そういうこと言う!? 呪いの人魚だろうが女の子の幽霊だろうが。私たちが呪われているからこんなことになったんじゃない!」
声を大にして、かえでがカスミをなじった。今回ばかりは佐奈も恵美子も同感らしく、かえでの言葉にうなずいている。
居心地が悪い。
なんでこのタイミングで、幽霊なんてものが現れたのだろうか。
だが、あの幽霊はなにか害を及ぼそうとはしなかった。
ただ、校庭に浮遊して、こちらを脅かすのが目的のような。
「いたっ」
「佐奈?」
「もう、逃げる途中に階段で引っかかったせいで、足のすねが……」
見れば、血が流れている。真っ赤な血だ。
血はルミノール液に反応する物質だ。あの伝記を確かめた際、なぜかえでは驚いていた?
「まだ本田先生、いるかな?」
恵美子がハンカチを出して、佐奈の血をぬぐいながらつぶやいた。
カスミの思考が霧散して、カスミもまた、佐奈の傷に目を向けた。
傷が深い。
「まだいるんじゃない? 下校時刻まであと五分あるし」
「佐奈、歩けないほど痛いの? 本田先生も、もういないと……」
かえで言葉がしりすぼみに小さくなった。そんなことなどお構いなしに、カスミは佐奈を連れて歩き出している。
「ま、待ってよ、カスミ! 今行っても、本田先生いないって!」
「なんでかえでが知っているの? 一応見に行くだけだよ、傷、思ったより深い」
申し訳なくなる。
また、カスミが言い出したわがままのせいで、佐奈が怪我を負った。
だからカスミは、どうしてもこの傷を手当てしたかった。本田先生がいなかったら、勝手に消毒液を借りようとすら、思っていた。
保健室につくと、本田先生が化粧直しをしていた。
服が湿気で湿っている。
寒いのか、体が小刻みに震えている。
「あ、本田先生、いた」
「……! ああ、カスミさんと、佐奈さん? どうしたの?」
保健室の壁際に、濡れた備品の鏡が光っている。
窓は閉まっているのに、なぜ濡れたのだろう。
保健室の鏡は、生徒の体をよく写せるように、そこそこ大きなものがあてがわれている。
人の体が一つ、上から下まで見える大きさだ。だが、理科準備室のもののように、重くはない。
「あの、佐奈が怪我して」
「まあ、また、怪奇クラブで危ないことを?」
「ええ、まあ……」
「あ、本田先生!」かえでの声が、今日一番弾けた。
「本田先生、帰る時間だろうから! 私、消毒液借りますね!」
かえでは本田先生に事情を説明して、手際よく佐奈の傷を手当てした。かえでは、佐奈の怪我を自分のせいだと思っているらしかった。
血をぬぐってから消毒液を垂らして、ガーゼを当てて、テープとネットで固定する。
なぜだか手慣れていて、カスミも感心する。
「気を付けなきゃだめよ、幽霊を見たからって慌てて逃げたんだろうけど」本田先生がたしなめる。
「はい、幽霊が出たんです。女の幽霊。やっぱり、理科準備室には幽霊がいるんです……私もう、あそこには近づきません!」佐奈がこわごわ答えた。
「ふふ、幽霊ね。そうね、もうあそこには近づいちゃだめよ」
本田先生は、赤い口紅がよく似合う。
血のように、真っ赤な。
武田先生よりも年上で、でも、この学校にはいつからいたのだろうか?
「それじゃあ、ありがとうございました」
「ああ、気を付けて帰れよ」
本田先生と武田先生に見送られながら、四人は秋空の元をとぼとぼと歩いた。雨は、やんでいた。




