第9話「Do It」
第9話「Do It」
一九九九年、冬。
北海道の地方ホールの楽屋は、古い暖房の匂いがしていた。壁の塗装は剥がれ、蛍光灯は白く冷たい。窓の外では雪が降っている。
矢沢永吉はソファに座り、静かに目を閉じていた。
喉が焼けるように痛い。
胸も苦しい。
連日のライブで身体は限界に近かった。
テーブルの上には薬。加湿器。吸い殻だらけの灰皿。
スタッフが心配そうに言う。
「永ちゃん、今日、本当に大丈夫ですか」
矢沢は目を開けた。
「何回聞くんだよ、それ」
「いや……昨日、途中で息上がってたじゃないですか」
矢沢はタオルで汗を拭きながら笑った。
「死んでねぇだろ」
「でも年間九十本ですよ?」
「だから?」
スタッフは黙る。
矢沢は立ち上がった。
革靴が床を鳴らす。
「借金、いくらあると思ってんだ」
低い声だった。
「止まったら終わりなんだよ」
ドアの向こうから歓声が聞こえてくる。
「永ちゃーん!!」
「E.YAZAWA!!」
その声を聞いた瞬間、矢沢の目が変わる。
疲れも痛みも、一瞬だけ消える。
「……行くぞ」
ステージへ向かう通路。
暗闇。
スタッフたちが道を開ける。
ライトが漏れている。
歓声が地鳴りみたいに響いていた。
数年前まで、マスコミは「終わった」と笑っていた。
破産寸前。
転落。
裏切り。
だがライブ会場だけは違った。
客は減らなかった。
いや、むしろ増えていた。
みんな、自分の人生を重ねていた。
失敗しても。
転んでも。
立ち上がる男を見に来ていた。
ステージに出る。
爆発みたいな歓声。
「うおおおおおっ!!」
白いタオルが一斉に宙を舞う。
矢沢はマイクスタンドを握った。
熱い。
ライトが肌を焼く。
汗が一気に噴き出す。
だが、それが気持ちよかった。
バンドが音を出す。
重低音が腹に響く。
矢沢は叫んだ。
「行くぜぇぇ!!」
客席が揺れる。
ライブが始まると、彼は別人だった。
五十歳を超えているとは思えない動き。
花道を走る。
ステップを踏む。
シャウトする。
若いスタッフが舞台袖で呟く。
「……化け物だ」
隣のベテラン照明スタッフが笑う。
「昔からだよ」
ライブ中盤。
矢沢は水を一気に飲み干した。
息が荒い。
胸が上下している。
ギタリストが小声で言う。
「永ちゃん、少し抑えましょう」
矢沢は笑った。
「無理」
「倒れますよ」
「倒れてから言え」
その言葉に、バンドメンバーたちが苦笑する。
だが全員わかっていた。
矢沢は、自分を削って歌っている。
借金だけじゃない。
失った信頼。
裏切り。
孤独。
全部をステージで燃やしていた。
ライブ終盤。
客席の熱気は頂点に達していた。
「永ちゃーん!!」
「最高ー!!」
白いタオルが波みたいに揺れる。
矢沢は肩で息をしていた。
酸素が足りない。
肺が焼ける。
それでもマイクを握る。
イントロが流れた。
「止まらないHa〜Ha」。
客席が爆発する。
「うわああああっ!!」
スタッフたちの顔が変わる。
ここからが本番だった。
矢沢は歌い始める。
声が掠れる。
だが止まらない。
汗が顔を流れ落ちる。
白いシャツが身体に張り付いていた。
花道を走る。
客席へ拳を突き上げる。
「Ha〜Ha!!」
観客が叫び返す。
「Ha〜Ha!!」
酸欠で視界が揺れる。
それでも足を止めない。
ステージ袖で女性スタッフが涙ぐんでいた。
「なんであそこまで……」
隣のマネージャーが小さく答える。
「永ちゃんだからだよ」
矢沢は歌いながら思っていた。
広島の貧乏小僧。
パンの耳。
横浜の路地裏。
燃えた野音。
裏切った人間たち。
全部、ここまで繋がっている。
だから止まれない。
止まった瞬間、全部終わる気がした。
曲が終わる。
大歓声。
矢沢はマイクスタンドにもたれた。
呼吸が荒い。
汗が床へ落ちる。
だが顔は笑っていた。
「……最高だな」
客席から怒号みたいな声が飛ぶ。
「永ちゃーん!!」
「ありがとう!!」
その声を聞きながら、矢沢は静かに目を閉じた。
まだ行ける。
まだ終わっていない。
数年後。
東京。
ホテルの記者会見場。
無数のフラッシュが光る。
記者たちがざわめいている。
壇上へ矢沢永吉が現れた。
黒いスーツ。
白いシャツ。
少し痩せた顔。
だが目だけは鋭かった。
司会が言う。
「本日、矢沢永吉さんは、長年に渡る巨額負債を完済されたことをご報告されます」
どよめき。
記者が次々に手を挙げる。
「本当に全額返済されたんですか?」
「何年かかったんですか?」
「苦しくなかったですか?」
矢沢は水を飲み、静かに笑った。
ある記者が聞く。
「なぜ返せたんですか?」
会場が静まる。
矢沢は少し考えた。
そして口の端を上げる。
「……ロックだからだよ」
一瞬、記者たちが黙る。
やがて会場に笑いが広がる。
だが矢沢は真顔だった。
本気だった。
ロックとは、生き方だった。
転んでも立ち上がること。
逃げないこと。
カッコ悪くても前へ進むこと。
フラッシュがまた光る。
その光の中で、矢沢永吉はゆっくり煙草を咥えた。
まるで、また次のステージへ向かう男みたいに。




