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第8話「裏切り」

第8話「裏切り」


一九九八年、東京。


雨だった。


六本木の交差点を、黒い傘の群れが流れていく。ネオンは濡れた路面に滲み、まるで壊れた万華鏡みたいに揺れていた。


深夜のバー。


カウンターの奥で氷が鳴る。


テレビの音だけが、妙に大きく聞こえていた。


『矢沢永吉、巨額損失か』


『オーストラリア投資トラブル』


『負債三十五億円以上』


画面の中でキャスターが深刻そうな顔をしている。


「芸能界屈指の成功者として知られた矢沢永吉さんですが——」


矢沢は黙ってバーボンを飲んだ。


琥珀色の液体が喉を焼く。


だが酔えない。


マスターが遠慮がちに言う。


「……消しましょうか」


矢沢は首を横に振った。


「いい」


テレビでは週刊誌記者が得意げに喋っている。


『事実上、破産寸前とも言われています』


『YAZAWA帝国崩壊ですね』


店の隅で飲んでいたサラリーマンが小声で囁く。


「終わったな、永ちゃん」


「派手にやりすぎたんだよ」


その声も、全部聞こえていた。


矢沢は煙草に火をつけた。


だが火を点ける指先が、ほんの少し震えていた。


信じていた。


何年も一緒にやってきた側近だった。


「社長、任せてください」


「絶対大丈夫です」


そう言っていた男たちは、気づけば消えていた。


電話は繋がらない。


事務所はもぬけの殻。


海外口座。


不動産。


複雑な契約。


気づいた時には、莫大な借金だけが残っていた。


数日後。


事務所。


机の上には請求書の山。


弁護士が疲れ切った顔で言う。


「……かなり厳しいです」


矢沢はソファに座ったまま煙を吐いた。


「で、いくらだ」


「現時点で三十五億を超えています」


部屋が静まり返る。


若い社員が青ざめた顔で呟く。


「終わった……」


矢沢は黙っていた。


頭の中が真っ白だった。


三十五億。


普通の人間なら、一生かかっても返せない金額だった。


いや、そもそも背負うことすらない金だ。


弁護士が言う。


「自己破産という選択肢も——」


その瞬間、矢沢の目が変わった。


「やらねぇよ」


低い声だった。


弁護士が戸惑う。


「ですが現実的に……」


「逃げねぇ」


空気が張り詰める。


矢沢は立ち上がった。


「矢沢が逃げたら終わりなんだよ」


その夜。


マンションの窓から東京を見下ろしていた。


無数の灯り。


だがどれだけ成功しても、人は一人だった。


電話帳を開く。


昔は鳴りっぱなしだった電話。


だが今は違う。


何人もの人間が離れていった。


「また連絡します」


そう言ったまま消える奴。


急によそよそしくなる奴。


金の匂いが消えた瞬間、人も消えた。


矢沢は笑った。


「わかりやすいな」


だが胸の奥では、黒いものが渦巻いていた。


怒り。


悔しさ。


虚しさ。


信じていた人間に裏切られる痛み。


それは、貧乏よりきつかった。


数週間後。


テレビ局。


ワイドショーでは連日、矢沢叩きが続いていた。


『成り上がりの転落』


『カリスマ崩壊』


コメンテーターが笑う。


「派手な人生にはツケが回るんですねぇ」


スタジオが薄く笑う。


その映像を、矢沢はホテルの部屋で一人見ていた。


テーブルには飲みかけのウイスキー。


灰皿には吸い殻が山になっている。


昔なら怒鳴っていた。


だが今は、ただ静かだった。


ノックの音。


若いスタッフが入ってくる。


顔色が悪い。


「永ちゃん……ライブ、中止にしますか」


矢沢はテレビを見たまま答える。


「なんで」


「世間の空気が……」


「だから?」


スタッフは言葉を失う。


矢沢はゆっくり立ち上がった。


「客、ゼロか?」


「……いえ」


「だったらやるよ」


低い声だった。


「俺を待ってる奴が一人でもいるなら、ステージ立つ」


スタッフの目に涙が浮かぶ。


「永ちゃん……」


矢沢は煙草を咥えた。


「俺はロック屋だ。銀行員じゃねぇ」


その夜。


再びバー。


鏡張りの薄暗い店だった。


ジャズが小さく流れている。


矢沢はカウンターで酒を飲んでいた。


鏡の中には、疲れた男が映っている。


目の下のクマ。


伸びた髭。


老けた顔。


「……ダセぇな」


自分で呟く。


だが次の瞬間、不思議と笑いが込み上げてきた。


クックックッ……


マスターが驚く。


「どうしたんです?」


矢沢は鏡を見たまま笑った。


「いやさ」


「はい?」


「こんな映画みたいな人生、あるか?」


マスターは黙る。


矢沢はグラスを回した。


氷が鳴る。


「広島の貧乏小僧が成り上がって、今度は三十五億の借金だぜ?」


笑う。


「面白ぇじゃねぇか」


マスターがぽつりと言う。


「……普通の人は笑えませんよ」


矢沢は鏡の中の自分を睨んだ。


「普通じゃつまんねぇ」


沈黙。


そして低く呟く。


「まだ終わってねぇ」


その瞬間だった。


何かが戻ってきた。


若い頃、広島駅で感じた飢え。


横浜でパンの耳を齧っていた頃の悔しさ。


あの“負けたくない”という感情。


全部、胸の奥で再び燃え始めていた。


翌朝。


事務所。


スタッフたちが重い空気で座っている。


矢沢が入ってくる。


全員が顔を上げた。


矢沢は言った。


「ツアーやるぞ」


「……え?」


「全部返す」


スタッフたちが息を呑む。


「三十五億?」


矢沢は笑った。


「ロックンロールな額だろ?」


誰も笑えなかった。


だが矢沢だけは笑っていた。


目が、生き返っていた。


「行くぞ」


その声には、また“成り上がる男”の熱が戻っていた。



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