第7話「L.A.」
第7話「L.A.」
一九八〇年、ロサンゼルス。
乾いた風だった。
空港を出た瞬間、熱を含んだ西海岸の空気が矢沢永吉の頬を撫でた。ヤシの木。巨大なハイウェイ。どこまでも青い空。ラジオから流れる英語のDJ。見上げるようなリムジン。
日本とは何もかも違っていた。
助手席で現地コーディネーターの男が笑う。
「Welcome to L.A., Eikichi」
矢沢は窓の外を見たまま答える。
「……派手だな」
男が笑う。
「ここじゃ、夢もデカくなきゃ埋もれるよ」
矢沢は煙草を咥えた。
「上等じゃねぇか」
だが、その夜。
現実は容赦なかった。
ハリウッドの外れにある小さなライブハウス。ネオンは半分切れている。店内にはビールと汗の臭いが染みつき、床はベタついていた。
客は十数人。
カウンターで酔いつぶれている男。
キスしているカップル。
誰もステージを見ていない。
日本では武道館を埋める男が、ここでは無名だった。
店のオーナーが言う。
「日本のスターなんだって?」
矢沢は頷く。
「まぁな」
男は肩をすくめた。
「知らねぇな」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
だが矢沢は笑った。
「そうだろうな」
ステージへ上がる。
照明は暗い。
歓声もない。
ドラムが鳴る。
ギターが入る。
矢沢はマイクを握った。
英語詞。
慣れない発音。
客席の反応は薄い。
途中、一人の酔っ払いが野次を飛ばした。
「What the hell is he singing?」
笑い声。
矢沢の目が細くなる。
ライブ後、楽屋。
現地ミュージシャンが缶ビールを投げて寄越した。
「Hey, Japanese star」
ニヤつきながら言う。
「お前、日本じゃ有名なのか?」
矢沢は受け取ったビールを開けた。
「そうらしいな」
「でもここじゃゼロだ」
「知ってるよ」
男は笑う。
「帰れば? 日本の王様」
矢沢は静かに煙草へ火をつけた。
「嫌だね」
「なんでだ?」
紫煙を吐きながら答える。
「本物になりてぇからだよ」
男は少し黙った。
その後、小さく笑った。
「Crazy Japanese…」
屈辱の日々だった。
英語は通じない。
現地スタッフは平気で遅刻する。
演奏も雑。
日本みたいに誰も丁寧に扱ってくれない。
スタジオでも衝突ばかりだった。
ある日のレコーディング。
ギタリストが適当に弾いた瞬間、矢沢が怒鳴る。
「違う!」
通訳が慌てる。
「He says…違う」
ギタリストが眉をひそめる。
「What?」
矢沢はギターを掴み、自分で弾いてみせた。
「こうだよ! Grooveだ!」
ギタリストがムッとする。
「You talk too much」
矢沢も睨み返す。
「テメェが適当なんだよ」
スタジオの空気が凍る。
だが奥で見ていた黒人ドラマーが笑った。
「He’s serious」
矢沢を見る。
「I like that」
その日から少しずつ、現地ミュージシャンたちの目が変わり始めた。
矢沢は誰よりも早くスタジオへ来た。
誰よりも遅くまで残った。
発音も必死で覚えた。
夜中、モーテルの部屋。
英語の歌詞カードに赤ペンでカタカナを書き込む。
冷えたピザ。
安いコーヒー。
窓の外ではパトカーのサイレン。
ふと鏡を見る。
目の下にはクマ。
疲れ切った顔。
矢沢は苦笑した。
「何やってんだろうな、俺」
だが胸は熱かった。
日本でスターになっても、ここでは新人以下。
だからこそ面白かった。
ある夜、ライブ後に黒人ミュージシャンが声を掛けてきた。
「Eikichi」
「ん?」
「お前、なんでそこまで必死なんだ?」
矢沢はビールを飲みながら答える。
「負けたくねぇんだよ」
「誰に?」
少し沈黙。
矢沢は笑った。
「自分にかな」
男はしばらく黙っていた。
やがて頷く。
「Rock’n’rollだな」
ロサンゼルスの夜風が吹く。
ネオンが滲む。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。
その頃、日本では“YAZAWA帝国”が膨らみ始めていた。
事務所。
不動産。
会社。
豪邸。
高級車。
信頼する側近たちが事業を拡大していた。
「社長、今これが儲かります」
「オーストラリア、不動産が熱いです」
「絶対に損はありません」
矢沢はアメリカにいた。
だから任せていた。
信じていた。
「お前らが見るならいいよ」
側近たちは笑った。
「任せてください、社長」
ロサンゼルスのホテル。
深夜。
窓の外には無数の街灯が広がっている。
矢沢はソファに座り、ウイスキーを飲んでいた。
今日のライブは悪くなかった。
少しずつ、現地の客も反応するようになってきた。
手応えはあった。
その時、電話が鳴る。
日本からの国際電話だった。
矢沢は受話器を取る。
「もしもし」
だが相手はすぐに話さなかった。
荒い呼吸だけが聞こえる。
「……どうした」
低い声で聞く。
すると震える声が返ってきた。
「社長……」
嫌な予感がした。
窓の外で、ロサンゼルスのネオンが滲んでいる。
「大変です……」
矢沢の目がゆっくり細くなる。
受話器を握る手に力が入った。
そして、その夜。
ロサンゼルスの空気が急に冷たく感じられた。




