第6話「時間よ止まれ」
第6話「時間よ止まれ」
一九七八年、夏。
東京の街は、矢沢永吉の声で満ちていた。
喫茶店。タクシー。海辺のラジオ。駅前のレコード屋。どこへ行っても、あのイントロが流れている。
“時間よ止まれ——”
街を歩く若者たちが口ずさみ、女たちは少し背伸びした目で「YAZAWA」を語った。
資生堂のCMが流れるたび、空気が変わる。
白いシャツ。夏の海。グラスの氷。汗ばんだ肌。大人の恋。
それまでの日本にはなかった匂いだった。
ただの流行歌じゃない。
“生き方”だった。
赤坂のバーで、若い女が煙草を挟みながら言う。
「ねぇ、矢沢永吉ってさ、なんか危ないよね」
隣の男が笑う。
「でも女、みんな好きだろ」
「だって、あの声反則だもん」
店の奥のジュークボックスから、「時間よ止まれ」が流れている。
氷がグラスの中で静かに鳴った。
同じ頃、矢沢永吉本人は、レコード会社の会議室にいた。
スーツ姿の大人たちが興奮した顔で話している。
「矢沢さん! ミリオン見えてきました!」
「CM効果が凄い!」
「全国ツアー追加です!」
「武道館も押さえました!」
部屋中が浮かれていた。
だが矢沢だけは、煙草を吸いながら黙っていた。
担当ディレクターが笑う。
「永ちゃん、やりましたねぇ!」
矢沢は低く答える。
「……まだだよ」
「いやいや、十分凄いですよ!」
「こんなもんじゃねぇ」
その声に、部屋が少し静まった。
矢沢の目は、もっと遠くを見ていた。
人気者になりたかったわけじゃない。
本物になりたかった。
会議が終わると、矢沢は一人で夜の街へ出た。
蒸し暑い風が頬を撫でる。
信号待ちの車列。
ネオン。
雑踏。
巨大なポスターには、自分の顔が貼られている。
『YAZAWA』
その文字を見ても、不思議と実感はなかった。
路地裏の小さなバーへ入る。
マスターが驚いた顔をする。
「おっ……永ちゃん」
「ウイスキー」
「今日は機嫌良さそうですね」
矢沢は苦笑した。
「そう見えるか」
「だって今、日本中が永ちゃんですよ」
グラスが置かれる。
琥珀色の液体が揺れる。
矢沢は一口飲んだ。
喉が焼ける。
だが、その熱さだけが妙に落ち着いた。
店内には「時間よ止まれ」が小さく流れている。
若いカップルが曲に耳を傾けていた。
女が男に言う。
「この歌、なんか切ないね」
男が笑う。
「でもオシャレじゃん」
矢沢は横目でそれを見ながら煙を吐いた。
“切ない”
そうかもしれなかった。
本当は、この歌は孤独の歌だった。
楽しい夏の歌なんかじゃない。
戻れない時間。
過ぎていく青春。
止まってほしい瞬間。
それを歌っていた。
だから、大人たちは酔った。
笑いながら、心のどこかで泣いていた。
数日後。
武道館公演のリハーサル。
広い会場には誰もいない。
椅子だけが無数に並んでいる。
矢沢はステージ中央に立った。
「……広ぇな」
スタッフが笑う。
「埋まりますよ、全部」
「当たり前だろ」
そう言いながらも、少しだけ目を細めた。
広島から出てきた頃には想像もできなかった景色だった。
貧乏。
空腹。
パンの耳。
あの頃の自分が見たら、何と言うだろう。
だが、満たされなかった。
もっと先がある気がしていた。
リハーサル後、ジョニー大倉と久しぶりに顔を合わせた。
楽屋の廊下。
少し気まずい空気。
ジョニーが煙草を咥えながら言う。
「売れたな、永ちゃん」
矢沢は笑った。
「お前も元気そうじゃねぇか」
「“時間よ止まれ”、街中で流れてるぞ」
「うるせぇよ」
ジョニーは壁にもたれながら言った。
「でもさ、お前、全然満足してない顔してるな」
矢沢は黙った。
ジョニーは苦笑する。
「昔からそうだよな。手に入れても、また次見てる」
少し沈黙。
そして矢沢が低く呟く。
「アメリカ行く」
ジョニーが顔を上げた。
「……本気か?」
「ああ」
「なんでまた」
矢沢は遠くを見るような目で答えた。
「日本で売れたくらいで終わりたくねぇ」
ジョニーはしばらく黙っていた。
やがて笑う。
「相変わらず化け物だな」
武道館当日。
会場の外には、開演前から長蛇の列ができていた。
革ジャン姿の男たち。
着飾った女たち。
若者たちの熱気で、九段下の空気が震えている。
「永ちゃーん!!」
歓声。
タオル。
興奮。
ステージ袖で矢沢は白いスーツの袖を整えていた。
スタッフが言う。
「五万人です」
矢沢は軽く頷いた。
「そうか」
「緊張してます?」
「まさか」
だが心臓は高鳴っていた。
ステージへ出る。
照明が爆発する。
歓声が襲いかかる。
武道館が揺れた。
「うおおおおおっ!!」
矢沢はマイクを握る。
汗。
熱。
絶叫。
その全てが身体を貫く。
「時間よ止まれ」が始まった瞬間、観客たちは陶酔した。
女たちは涙を流し、男たちは拳を上げる。
矢沢は歌いながら客席を見た。
五万人。
その全員が、自分を見ている。
普通なら、そこで満足するのかもしれない。
だが違った。
彼の視線は、そのもっと先にあった。
アメリカ。
ロサンゼルス。
誰も自分を知らない場所。
本物たちがいる世界。
曲が終わる。
地鳴りのような歓声。
矢沢は息を切らしながら笑った。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
「……まだ小せぇな」
武道館の天井の向こう。
彼は、もう海の向こうを見ていた。




