第10話「Legend」
第10話「Legend」
二〇一五年、夏。
巨大フェス会場の空は、夕焼けで赤く燃えていた。潮風が吹き、遠くでビールの泡と焼けた肉の匂いが混ざり合う。若者たちは汗だくで肩を組み、芝生の上で騒いでいる。
ステージ裏。
若いロックバンドのメンバーたちが、緊張した顔でざわついていた。
「マジで今日、矢沢永吉と同じステージ?」
「ヤバすぎるだろ……」
「生きる伝説じゃん」
その時、通路の奥から革靴の音が響いてきた。
カツ、カツ、カツ——。
全員が振り向く。
白いジャケット。サングラス。鋭い目。
六十代を超えた矢沢永吉が歩いてくる。
若いスタッフが慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます!」
矢沢は軽く手を上げた。
「おう」
若いバンドのボーカルが、思わず呟く。
「……本物だ」
矢沢はそれを聞き、ニヤッと笑った。
「幽霊じゃねぇよ」
周囲が笑う。
だが若者たちの目は、本気だった。
“YAZAWA”。
彼らにとって、それはもう伝説の名前だった。
デビューして何十年も経つのに、いまだにドームを埋める男。
借金も返し、何度転んでも立ち上がった男。
若いボーカルが思い切って声を掛ける。
「あの……俺ら、ずっと聴いてました」
矢沢は煙草に火をつけながら答える。
「そりゃどうも」
「俺ら、矢沢さんのこと神だと思ってます」
その瞬間、矢沢の顔が少し曇った。
「やめろよ」
「え?」
「“神”とか」
若者たちが黙る。
矢沢は煙を吐いた。
「俺はまだ途中なんだよ」
その言葉に、誰も返せなかった。
ステージへ向かう。
夕焼けの光が、矢沢の横顔を赤く染めている。
歓声が聞こえてくる。
若者ばかりのフェスだった。
本来なら、世代が違う。
だが矢沢が登場した瞬間、空気が変わった。
「うおおおおおっ!!」
若者たちが叫ぶ。
スマホを掲げる。
白いタオルが舞う。
若い観客が驚く。
「え、なんでこんな盛り上がってんの!?」
隣の年上の男が笑う。
「永ちゃんだからだよ」
バンドが音を鳴らす。
矢沢はマイクを握った。
その瞬間、年齢なんて消えた。
声が空を裂く。
身体が動く。
花道を走る。
六十代とは思えない。
若いバンドマンたちは舞台袖で呆然としていた。
「……なんだよ、あれ」
「バケモンだろ」
「いや、“本物”だ」
ライブ後。
楽屋。
若手ミュージシャンたちが次々に挨拶へ来る。
「ありがとうございました!」
「マジで感動しました!」
矢沢はタオルで汗を拭きながら笑った。
「お前らも良かったよ」
だがその時、急に咳き込んだ。
激しく。
喉を押さえる。
周囲が慌てる。
「永ちゃん!」
矢沢は手を上げた。
「平気だよ」
だが顔色は悪かった。
数日後。
病院。
白い廊下。
消毒液の匂い。
検査室から出てきた矢沢に、医師が静かに言った。
「少し休まれた方がいいですね」
矢沢は椅子に腰掛けたまま笑う。
「年か」
「声帯もかなり疲労しています」
「ふーん」
医師はカルテを見ながら続けた。
「このまま続ければ、声が戻らなくなる可能性もあります」
窓の外では雨が降っていた。
矢沢は黙っていた。
医師が優しく言う。
「もう無理は……」
その瞬間、矢沢が笑った。
「先生」
「はい」
「ロックに定年なんかあるかよ」
医師は困ったように笑うしかなかった。
病院を出る。
雨上がりの東京。
濡れたアスファルト。
信号待ちの人々。
誰もが疲れた顔で歩いている。
矢沢は空を見上げた。
六十を超えた。
身体は確実に衰えている。
朝起きるだけで身体が重い日もある。
声が出ない日もある。
若い頃みたいにはいかない。
だが、不思議と怖くなかった。
年を取ることが、少し面白かった。
昔は尖っていた。
怒っていた。
負けたくなかった。
でも今は違う。
続けることの意味を知っていた。
数か月後。
東京ドーム。
本番前のリハーサル。
巨大な会場には誰もいない。
無数の空席。
静寂。
照明だけがぼんやり点いている。
矢沢はステージ中央へ歩いた。
革靴の音が、だだっ広い空間へ響く。
マイクを握る。
ピアノのイントロが流れた。
「A DAY」。
若い頃、自分の孤独を歌った曲。
矢沢は静かに歌い始めた。
“暗い闇の果てに……”
誰もいない客席へ向かって。
声は昔より少し低くなっていた。
だがその代わり、人生そのものが滲んでいた。
広島。
横浜。
キャロル。
炎上。
借金。
裏切り。
歓声。
孤独。
全部が声に混ざっていた。
歌いながら、矢沢は空席を見つめた。
何万人もの客が入る場所。
だが今は誰もいない。
静かだった。
その静けさが、妙に胸へ刺さった。
ふと、若い頃の自分を思い出す。
広島駅でギターを抱えていた少年。
「成り上がる」と叫んでいたガキ。
気づけば、ここまで来ていた。
歌が終わる。
静寂。
矢沢はマイクを下ろした。
その時だった。
頬を、一筋の涙が流れた。
本人も驚いたみたいに苦笑する。
「……年取ったな」
だが顔は笑っていた。
空っぽの東京ドームに、一人の男の声だけが静かに残っていた。




