第11話「時間よ止まれ」
第11話「時間よ止まれ」
二〇二五年、東京ドーム。
開演五分前。
巨大な会場は、地鳴りみたいなざわめきに包まれていた。五万人を超える観客の熱気が、ドームの天井へ渦を巻いている。白いタオル。革ジャン。若者。老人。親子連れ。恋人たち。
世代も人生も違う人間たちが、今夜だけは同じ男を待っていた。
ステージ袖。
白いスーツ姿の矢沢永吉は、静かに客席を見つめていた。
七十五歳。
普通なら、とっくに引退していてもおかしくない年齢だった。
だが、その背中にはまだ獣みたいな気配が残っていた。
スタッフが近づく。
「永ちゃん、時間です」
矢沢は小さく頷いた。
タオルで口元を拭く。
遠くから歓声が漏れてくる。
「永ちゃーん!!」
「E.YAZAWA!!」
その声を聞きながら、矢沢はゆっくり目を閉じた。
広島駅。
ギターケース。
横浜の路地裏。
キャロル。
燃えた野音。
借金。
歓声。
孤独。
全部が胸の奥を通り過ぎていく。
「……長ぇな」
苦笑した。
スタッフが笑う。
「まだ終わってませんよ」
矢沢はニヤッとした。
「当たり前だろ」
場内暗転。
歓声が爆発する。
「うおおおおおおっ!!」
レーザーが走る。
ドラムが鳴る。
巨大スクリーンに若き日の矢沢永吉が映し出される。
リーゼント。
革ジャン。
鋭い目。
五十年前のキャロル。
客席から悲鳴みたいな歓声が上がる。
そしてスポットライト。
ステージ中央に、一人の男が立っていた。
白いスーツ。
白いマイクスタンド。
現在の矢沢永吉だった。
五万人総立ち。
地面が揺れる。
「永ちゃーん!!」
矢沢はゆっくりマイクを握った。
その姿は、七十五歳には見えなかった。
ステップを踏む。
肩を揺らす。
若い頃より少しだけ動きは丸くなった。
だが、その代わりに“生きてきた重み”があった。
イントロが流れる。
「A DAY」。
静かなピアノ。
巨大スクリーンに映像が流れ始める。
広島の街。
夜汽車。
横浜のライブハウス。
キャロル。
燃え上がる日比谷野音。
借金地獄の新聞記事。
その全てが、歌と一緒に流れていく。
矢沢は歌った。
“暗い闇の果てに……”
声がドームを包む。
若い頃の尖った声じゃない。
もっと深い。
傷だらけの人生を通り抜けてきた男の声だった。
客席では、年老いた男が泣いていた。
隣の息子が驚く。
「親父……」
男は涙を拭いながら笑う。
「永ちゃんと一緒に歳取っちまったよ」
若い女がスマホを握りながら呟く。
「なんでこんな泣けるの……」
誰も答えられない。
それは歌というより、“人生”だった。
曲が終わる。
静寂。
その静けさすら、美しかった。
そして次のイントロ。
「時間よ止まれ」。
オーケストラが入る。
弦が鳴る。
巨大スクリーンには満月が浮かび上がった。
青白い月。
波打つ海。
夏の夜。
グラスの氷。
観客たちは息を呑む。
矢沢は静かに歌い始めた。
“時間よ止まれ……”
五十年近く歌い続けた曲。
だが今夜は、意味が違っていた。
若い頃は、ただ過ぎていく恋や夏を歌っていた。
今は違う。
人生そのものを歌っていた。
止まってほしい瞬間。
戻れない時間。
消えていった仲間。
若かった自分。
全部が歌に滲んでいた。
客席では、白髪の女が涙を流している。
若い頃、キャロルを追いかけていた女だった。
隣の孫娘が手を握る。
「おばあちゃん、大丈夫?」
女は泣き笑いしながら頷いた。
「永ちゃん、まだ歌ってる……」
歌が終わる。
静寂。
本当に、誰も声を出せなかった。
矢沢はマイクを握ったまま、客席を見渡した。
五万人。
その顔を、一人一人見るみたいに。
やがて低く口を開く。
「“時間よ止まれ”って歌ったけどさ……」
会場が静まり返る。
「でも、止まっちゃダメなんだよ」
その瞬間、歓声が爆発した。
「うおおおおおおっ!!」
白いタオルが一斉に宙を舞う。
雪みたいだった。
矢沢は笑った。
少年みたいな笑顔だった。
そして叫ぶ。
「Do It!!」
ドームが揺れる。
歓声。
涙。
笑顔。
人生の全部が混ざっていた。
矢沢は花道を歩く。
ライトが白いスーツを照らす。
汗が頬を流れる。
だが足取りは軽かった。
広島から出てきた貧乏小僧が、まだここを歩いている。
ライブ終了後。
楽屋。
静かな空間。
遠くでまだ歓声が聞こえている。
矢沢はソファに座り、ゆっくり煙草を咥えた。
火を点ける。
紫煙が漂う。
ふと顔を上げる。
楽屋の隅に、少年が立っていた。
古びたギターケース。
痩せた身体。
鋭い目。
十八歳の永吉だった。
少年は未来の自分を見つめている。
矢沢は少し笑った。
「……どうだ?」
少年は答えない。
だが、その目は言っていた。
“まだ終わってないだろ”
矢沢は煙を吐いた。
そして静かに立ち上がる。
遠くで「A DAY」が流れていた。
ドームの歓声が、まだ微かに響いている。
矢沢永吉は、再びステージへ向かって歩き出した。
暗転。




