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第12話「やっちゃう人間」

第12話「やっちゃう人間」


二〇二五年、深夜一時。


東京ドーム公演を終えたあとだった。


楽屋の空気には、まだ熱が残っていた。スポットライトの焦げた匂い。汗を吸った白いタオル。開けっぱなしのミネラルウォーター。遠くからは、帰りきらない観客たちのざわめきが微かに聞こえている。


矢沢永吉はソファに深く腰を沈め、ネクタイを緩めた。


七十五歳。


普通なら、もう静かな老後を送っていてもおかしくない。


だが、その男は今さっきまで五万人を熱狂させていた。


ドアがノックされる。


「永ちゃん、お疲れさまです」


入ってきたのは二十代の若いスタッフだった。まだ顔に緊張が残っている。


「どうした」


「……今日、本当に凄かったです」


矢沢は煙草を咥えた。


「毎回凄ぇよ」


若いスタッフが笑う。


「そういう意味じゃなくて……なんていうか、生き方が」


矢沢はライターを鳴らした。


紫煙がゆっくり天井へ上がっていく。


「お前、いくつ?」


「二十七です」


「若ぇな」


スタッフは少し迷ってから言った。


「俺、やりたいことあるんです」


「なんだよ」


「映画撮りたくて」


「撮ればいいじゃん」


即答だった。


スタッフは苦笑する。


「でも現実あるし……失敗したら怖いし……」


矢沢は黙って煙を吐いた。


外ではスタッフたちが撤収作業をしている。金属を運ぶ音。誰かの笑い声。ライブ後独特の、祭りの終わりの空気。


矢沢はゆっくり言った。


「人間さ、二種類しかいねぇんだよ」


スタッフが顔を上げる。


「……え?」


「やりたいこと、やっちゃう人間と、やらねぇ人間」


静かな声だった。


だが妙に重かった。


スタッフは何も言えない。


矢沢は少し笑った。


「俺ぁ、やっちゃう方だった」


その目が、遠くを見る。


広島。


夜汽車。


横浜。


キャロル。


L.A.


借金。


全部が一瞬、瞳の奥を通り過ぎていく。


「おかげで痛い目にもあってきた」


若いスタッフが小さく笑う。


「三十五億とか、普通ないですよね」


矢沢は吹き出した。


「だろ?」


そして急に真顔になる。


「でもな」


煙草の火が赤く光る。


「やんなかった後悔って、一生残るんだよ」


その言葉に、スタッフは黙り込んだ。


矢沢は続ける。


「失敗なんかどうでもいいんだ。笑われてもいい。転んでもいい。でも、自分で決めた道なら、最後は納得できんだよ」


楽屋の空気が静まる。


遠くで誰かが「お疲れしたー!」と叫んでいる。


若いスタッフがぽつりと言った。


「……永ちゃん、怖くなかったんですか」


矢沢は少し考えた。


「怖ぇよ」


意外な答えだった。


「今でも怖ぇ」


「え?」


「ステージ前なんか毎回怖ぇよ。今日だって、“声出なかったらどうしよう”って思う」


スタッフが驚く。


矢沢永吉でも怖がるのか。


矢沢は笑った。


「でもな、怖ぇからやるんだよ」


「……」


「怖くない人生なんか、退屈だろ」


窓の外には東京の夜景が広がっている。無数の灯り。眠らない街。


矢沢はその光を見ながら呟いた。


「広島出る時も、怖かったよ」


スタッフは静かに聞いている。


「誰も信じてなかった。“お前なんか無理”って」


矢沢は苦笑する。


「まぁ、実際無茶だったしな」


「でも行った」


「行った」


「なんでですか」


少し沈黙。


矢沢は煙草を灰皿へ押しつけた。


「戻りたくなかったからだよ」


その声には、少年時代の飢えがまだ残っていた。


貧乏。


孤独。


親のいない家。


誰かに頭を下げながら生きる毎日。


「あんな人生、二度と嫌だった」


若いスタッフは息を呑む。


矢沢はソファから立ち上がった。


白いスーツの裾を整える。


「だから走った」


「止まったら終わる気がした」


楽屋の鏡に、今の自分が映っている。


七十五歳。


皺も増えた。


身体も昔ほど動かない。


だが目だけは、まだギラついていた。


若いスタッフが勇気を出して聞く。


「……後悔、ないんですか」


矢沢は笑った。


「あるよ」


「え?」


「いっぱいある」


意外だった。


「もっと歌えたな、とか。もっと仲間大事にできたな、とか」


少し遠い顔になる。


「でもさ」


「はい」


「それ込みで俺の人生なんだよ」


静かな声だった。


「綺麗事だけの人生なんか、ロックじゃねぇ」


その時、楽屋の外から声がした。


「永ちゃーん!」


ファンだった。


帰りきれずに残っている人間たち。


「ありがとうー!!」


「まだまだやってくれー!!」


矢沢は少し笑った。


若いスタッフが言う。


「みんな、永ちゃんに元気もらってるんですね」


矢沢は肩をすくめた。


「逆だよ」


「え?」


「俺が、あいつらに生かされてんだ」


スタッフは何も言えなかった。


矢沢はドアへ向かう。


そして振り返った。


「お前、映画撮りたいんだろ」


「……はい」


「じゃあやれよ」


「でも……」


矢沢が遮る。


「失敗しても死なねぇよ」


ニヤッと笑う。


「やらない方が、つまんねぇ」


その瞬間だった。


若いスタッフの顔が少し変わった。


何かに火が点いたみたいに。


矢沢は楽屋を出る。


通路を歩く。


スタッフたちが頭を下げる。


「お疲れさまです!」


「最高でした!」


矢沢は軽く手を上げる。


東京ドームの出口へ近づくと、夜風が吹き込んできた。


冷たい風だった。


だが気持ちよかった。


空を見上げる。


都会の空には星は少ない。


それでも、まだ遠くへ行ける気がした。


矢沢永吉は小さく笑う。


「……Do It、だな」


そして七十五歳のロックンローラーは、また次のステージへ向かって歩き出した。



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