第13話「シナリオのない人生を、どうやって生きていくんだ?」
第13話「シナリオのない人生を、どうやって生きていくんだ?」
二〇二六年、冬。
東京は冷たい雨だった。
深夜一時を過ぎた首都高速を、一台の黒い車が静かに走っている。フロントガラスに細かい雨粒が叩きつけられ、街のネオンが滲んで流れていく。
助手席には、読みかけの台本が置かれていた。
『矢沢永吉ヒストリー』
赤い文字でそう書かれている。
運転席の矢沢永吉は、煙草を咥えたまま窓の外を見ていた。
七十六歳。
ライブを終えた身体は重い。肩も痛む。喉も乾いている。
だが、不思議と眠くなかった。
信号待ちで車が止まる。
赤信号の光が、フロントガラスを赤く染める。
矢沢は隣の台本をちらりと見た。
今日、若い脚本家から渡されたものだった。
「永ちゃんの人生、ドラマにしたいんです」
熱っぽい目をしていた。
矢沢は笑った。
「面白ぇじゃん」
だがホテルへ戻り、一人でページをめくるうちに、妙な気持ちになった。
広島。
キャロル。
炎上。
借金。
復活。
綺麗に並べられた“人生”。
まるで最初から決まっていた物語みたいだった。
矢沢は煙を吐く。
「違ぇんだよな……」
雨音だけが車内に響いていた。
ホテルへ戻る。
高層階のスイートルーム。
静かな部屋だった。
革張りのソファ。大きな窓。遠くに見える東京タワー。
昔、金がなくてパンの耳を齧っていた男とは思えない景色。
だが矢沢は、豪華な部屋ほど孤独を感じることがあった。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲む。
喉が鳴る。
テーブルには台本。
矢沢は再びページをめくった。
そこには、自分の“名言”が並んでいた。
『成り上がり』
『Do It』
『ロックだからだよ』
矢沢は苦笑した。
「カッコつけすぎだろ、俺」
その時、スマホが鳴った。
若い脚本家からだった。
「もしもし」
『永ちゃん! すいません、夜中に!』
興奮した声。
『どうでした!? 台本!』
矢沢は窓の外を見た。
雨の東京。
無数の灯り。
そして低く言った。
「お前さ」
『はい?』
「人生って、そんな綺麗に繋がってねぇよ」
電話の向こうが黙る。
矢沢はソファへ腰を下ろした。
「後から見りゃ、“ああだった”って言える。でも、その時は必死なんだよ」
『……』
「毎日、わかんねぇんだ。“これでいいのか”って」
若い脚本家が小さく聞く。
『でも永ちゃんは、ずっと自信あったじゃないですか』
矢沢は吹き出した。
「バカ言え」
煙草に火をつける。
紫煙がゆっくり漂う。
「怖ぇに決まってんだろ」
『え……』
「広島出る時も怖かった。キャロル解散も怖かった。アメリカ行く時も、借金も、全部怖かった」
窓ガラスに、自分の顔が映っている。
少し疲れた老人の顔。
だが目だけは、まだ少年みたいだった。
矢沢は続ける。
「でもな」
『はい』
「シナリオなんか無ぇんだよ」
静かな声だった。
「誰も次のページなんか知らねぇ」
若い脚本家は息を呑んでいた。
矢沢は笑う。
「だから面白ぇんじゃねぇか」
電話を切ったあと、矢沢は一人で夜景を見ていた。
人生は不思議だった。
あんなに欲しかった金も、名声も、手に入れてみれば、それだけじゃ満たされなかった。
人は消える。
仲間は去る。
身体は老いる。
明日の保証なんか、どこにもない。
それでも生きていく。
それでもステージへ立つ。
それがロックだった。
翌日。
都内の小さなライブハウス。
若いインディーズバンドのライブを、矢沢は帽子を深く被って見に来ていた。
狭い箱。
汗の匂い。
ビール。
若者たちの熱気。
昔の横浜みたいだった。
ステージの若いボーカルが叫ぶ。
「売れたいんだよ!!」
観客が笑う。
だが、その目は本気だった。
ライブ後。
矢沢は楽屋へ顔を出した。
若いボーカルが固まる。
「えっ……」
「永ちゃん……!?」
矢沢は笑った。
「良かったよ」
ボーカルは震えていた。
「俺、永ちゃんみたいになりたくて……」
矢沢は煙草を咥える。
「やめとけ」
「え?」
「痛ぇぞ、この人生」
周囲が笑う。
だが矢沢の目は優しかった。
若いボーカルが聞く。
「どうしたら、そんな風に生きられるんですか」
少し沈黙。
ライブハウスの奥では、まだ機材を片付ける音がしている。
矢沢は天井を見上げた。
昔の自分を思い出していた。
広島駅。
夜汽車。
腹を空かせていた少年。
何も持っていなかった。
だから走れた。
矢沢は若いボーカルを見る。
「お前さ」
「はい」
「シナリオのある人生なんか、面白いか?」
若いボーカルは黙る。
矢沢は続ける。
「転ぶかもしれねぇ。失敗するかもしれねぇ。でも、自分で選んだ道なら、ちゃんと自分の人生になる」
若いボーカルの目が少し潤む。
矢沢は笑った。
「だから行けよ」
「……はい」
「怖ぇなら、そのまま行け」
ライブハウスを出る。
冷たい夜風。
ネオン。
東京の雑踏。
七十六歳のロックンローラーは、ポケットに手を入れて歩き出す。
未来なんか、まだわからない。
でも、それでよかった。
シナリオのない人生だから、人は夢を見るのだ。




