第4話「A DAY」
第4話「A DAY」
一九七六年、東京。
雨だった。
夜の赤坂は濡れたアスファルトにネオンが滲み、まるで街全体が泣いているようだった。バーのドアが開くたび、酒と煙草の匂いが路地へ流れ出す。酔っ払いの笑い声。タクシーのクラクション。ビルの隙間を抜ける湿った風。
矢沢永吉は、古びたスタジオの窓際で煙草を吸っていた。
キャロル解散から一年。
だが、世間は冷たかった。
「もう終わった人」
「キャロルの残り香」
「ソロじゃ無理だろ」
雑誌を開けば、そんな言葉ばかり目に入る。
レコード会社の会議室でも、スーツ姿の男たちは露骨に顔を曇らせていた。
「矢沢さん、今はフォークの時代なんですよ」
「ロックは売れません」
「もっと歌謡曲寄りにした方が……」
矢沢は椅子に深く腰を沈めたまま、煙を吐いた。
「……嫌だね」
担当ディレクターが困った顔をする。
「いや、でもですね」
「媚びてまで売れたくねぇ」
部屋の空気が止まる。
若い社員が小声で呟いた。
「やっぱ怖ぇな、この人……」
矢沢は聞こえていたが、何も言わなかった。
会議室を出ると、廊下の窓に夜の街が映っている。東京は巨大だった。無数の光が瞬き、人が溢れ、欲望が渦巻いている。
だが矢沢は、その真ん中で一人だった。
キャロル時代の仲間もいない。
歓声も遠い。
あるのは、自分の足音だけだった。
深夜二時。
赤坂のバー。
薄暗いカウンターで、矢沢はバーボンを飲んでいた。氷がグラスの中で乾いた音を立てる。
マスターが静かに尋ねる。
「最近、元気ないですね」
矢沢は苦笑した。
「そう見えるか」
「ええ」
店内には古いジャズが流れている。煙草の煙が琥珀色の照明に漂っていた。
矢沢は窓の外を見た。
雨の都会。
濡れたタクシー。
赤いテールランプ。
どこかへ向かう人間たち。
「なぁ、マスター」
「はい」
「夜ってさ……綺麗だよな」
マスターが少し笑う。
「急にどうしたんです」
矢沢はグラスを回した。
「キャロルん時は、走ることしか考えてなかった。でも今は……夜の匂いとか、孤独とか、そういうもんが妙に刺さる」
「歳ですかね」
「うるせぇよ」
二人は少し笑った。
だが矢沢の目は笑っていなかった。
孤独だった。
キャロルを失い、自分が何者なのかわからなくなっていた。
ロックとは何か。
矢沢永吉とは何か。
派手なシャウトだけでは届かないものがある気がしていた。
数日後。
深夜のスタジオ。
時計は午前三時を回っている。
薄暗いブースにピアノの音が流れた。
静かだった。
キャロル時代の爆音とは真逆の空気。
スタッフたちは戸惑っていた。
「永ちゃん、本当にこれでいくんですか?」
矢沢は譜面を見つめたまま答える。
「ああ」
「ロックっぽくないですよ」
「いいんだよ」
エンジニアが首を傾げる。
「ファン、驚きますよ」
矢沢は煙草を咥えながら笑った。
「驚かせるためにやってんだろ」
ピアノが鳴る。
低く、静かに。
夜の匂いがする旋律だった。
矢沢はマイクの前へ立った。
スタジオの空気が張り詰める。
誰も喋らない。
彼はゆっくり目を閉じた。
広島の夜。
横浜の路地裏。
焦げた野音の匂い。
去っていった仲間。
消えた歓声。
全部が胸の奥に沈んでいた。
そして歌った。
“暗い闇の果てに……”
その瞬間だった。
スタッフたちの顔色が変わった。
怒鳴るような歌い方じゃない。
囁くようなのに、胸の奥へ刺さってくる。
孤独そのものみたいな声。
酒と煙草と夜を知っている男の声だった。
ピアノが静かに流れる。
矢沢は目を閉じたまま歌い続ける。
歌詞の一つ一つが、自分自身を削っているみたいだった。
録音が終わる。
静寂。
誰も喋れない。
エンジニアが小さく息を吐いた。
「……すげぇ」
スタッフの一人が呟く。
「矢沢永吉、終わってなかった」
矢沢は煙草に火をつけた。
だが、その指は少し震えていた。
怖かった。
この歌が受け入れられるのか。
キャロルを求める連中に、この静かな孤独が届くのか。
窓の外では雨が降っていた。
東京の夜は冷たい。
数週間後。
深夜のラジオ局。
若い女性DJがレコードを手に取る。
「今夜は、矢沢永吉さんの新曲です。“A DAY”」
針が落ちる。
静かなピアノ。
そして、あの声。
同じ頃、雨の首都高速を一台のタクシーが走っていた。
運転手は五十過ぎの男だった。
疲れた顔。赤い目。煙草のヤニで黄ばんだ指。
助手席にはコンビニのパンが置かれている。
ラジオから「A DAY」が流れ始めた。
男は最初、無表情でハンドルを握っていた。
だが、歌が進むにつれ、少しずつ表情が変わる。
夜の匂い。
孤独。
もう戻れない時間。
歌が全部、自分の人生みたいだった。
信号待ちでタクシーが止まる。
赤いランプがフロントガラスを濡らす。
運転手は小さく呟いた。
「……なんだよ、この歌」
目の奥が熱くなる。
頬を涙が流れた。
慌てて手で拭う。
後ろの客が不思議そうに見る。
「大丈夫ですか?」
運転手は笑った。
「いや……なんでもない」
だが声は震えていた。
ラジオの向こうで、矢沢永吉が歌っている。
派手なロックじゃない。
夜を生きる人間の孤独を。
傷だらけの人生を。
静かに。
深く。
歌っていた。
その頃、矢沢は一人、マンションの窓から夜明け前の東京を見ていた。
遠くで始発電車の音がする。
彼は煙草を灰皿に押しつけ、小さく笑った。
「……悪くねぇな」
東京の夜が、少しだけ優しく見えた。




