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第3話「炎上」

第3話「炎上」


一九七五年四月十三日、東京・日比谷野外音楽堂。


春の夜なのに、空気は妙に熱かった。開演前から会場は異様な熱気に包まれていた。革ジャン姿の若者たちが通路を埋め、女たちは興奮した顔でステージを見つめている。煙草の煙、ビールの匂い、ざわめき。野音全体が巨大なボイラーみたいに膨れ上がっていた。


ステージ袖で矢沢永吉は白いタオルで額の汗を拭った。まだ始まってもいないのに、心臓だけが激しく鳴っている。


スタッフが緊張した顔で近づいてきた。


「永ちゃん、もう時間です」


矢沢は静かに煙草を揉み消した。


「……ああ」


ジョニー大倉が革ジャンを羽織りながら言う。


「とうとう終わりだな」


矢沢は笑わなかった。


「終わりじゃねぇよ」


「じゃあ何だよ」


少し沈黙が流れる。


矢沢はステージの向こうの歓声を聞きながら呟いた。


「始まりだ」


ジョニーは苦笑した。


「相変わらずだな、お前」


場内アナウンスが響く。


「キャロル!」


地鳴りのような歓声が起きた。


「うおおおおおっ!!」


客席が揺れる。


矢沢は目を閉じた。


キャロル。


この数年、全てを賭けた名前だった。


貧乏も、怒りも、孤独も、全部ロックンロールに変えて走ってきた。


だが、もう限界だった。


メンバー同士の溝は深くなり、笑いながら同じ夢を見ていた頃には戻れない。


誰が悪いのでもない。


全員が、自分の道を見始めていた。


「行くぞ」


矢沢が言った。


スポットライトが爆発する。


ステージに飛び出した瞬間、凄まじい歓声が襲いかかってくる。


熱風みたいだった。


「永ちゃーん!!」


「ジョニー!!」


タオルが舞う。


拳が上がる。


ドラムが鳴った。


ギターが唸る。


キャロル最後のライブが始まった。


矢沢はマイクスタンドを握り締め、叫ぶ。


声が空を裂く。


観客が一斉に飛び跳ねる。


汗が革ジャンの中を流れ落ちる。照明が目を焼く。アンプの振動が腹に響く。


ロックンロール。


それだけだった。


曲が進むにつれ、会場の熱気は狂気に変わっていく。


警備員が怒鳴る。


「前に押すな!」


だが誰も止まらない。


若者たちは暴れ、泣き、笑い、キャロルに自分の青春を重ねていた。


演奏の合間、ジョニーが笑いながら言う。


「永ちゃん、すげぇ景色だな!」


矢沢は客席を見渡した。


数え切れない顔。


涙を流している女。


肩を組んで叫ぶ不良少年。


「……ああ」


その時だけ、少し胸が締めつけられた。


終わる。


本当に終わるのだ。


ライブ終盤。


スタッフが慌ただしく動き始める。


演出用の火柱。


ラストを派手に飾るための仕掛けだった。


「準備オーケーです!」


矢沢は頷いた。


最後の曲が始まる。


観客の熱狂は頂点に達していた。


ジョニーがギターを掻き鳴らす。


ドラムが暴れる。


矢沢は叫んだ。


「行くぞーっ!!」


次の瞬間だった。


ボォンッ!!


突然、異様な爆発音が響いた。


ステージ脇の火柱が制御を失い、巨大な炎が吹き上がる。


「うわあっ!!」


スタッフの悲鳴。


客席がざわめく。


熱風が顔を殴った。


火がセットに燃え移る。


黒煙が上がる。


誰かが叫ぶ。


「火事だ!!」


パニックが広がる。


スタッフたちが消火器を持って走る。観客が出口へ押し寄せる。焦げた匂いが一気に広がった。


だが矢沢は、ステージの中央で立ち尽くしていた。


燃えていた。


ステージが。


キャロルが。


自分の青春そのものが。


ジョニーが怒鳴る。


「永ちゃん! 危ねぇ!」


だが矢沢は笑った。


炎がリーゼントを赤く照らしている。


「……上等じゃねぇか」


そして再びマイクを握った。


「最後までやるぞ!!」


観客がどよめく。


矢沢は炎の中で歌い続けた。


声を張り上げる。


煙で喉が焼ける。


熱で目が痛む。


それでも止まらない。


まるで、この瞬間を身体に焼き付けるみたいに。


ジョニーも笑った。


「クソッ……やっぱお前、狂ってるわ!」


ギターが鳴る。


ドラムが響く。


炎の中でキャロルは最後まで走り切った。


ライブ終了後。


消防車の赤色灯が夜を染めていた。


焼け焦げたステージから、まだ煙が立っている。


スタッフたちは呆然としていた。


「伝説になるぞ、これ……」


誰かが呟く。


矢沢は黙ったまま煙草を咥えた。


指が少し震えている。


ジョニーが隣に来る。


「終わっちまったな」


矢沢は煙を吐いた。


「……ああ」


「後悔してるか?」


少し沈黙が流れる。


遠くでファンたちの泣き声が聞こえる。


矢沢は首を横に振った。


「してねぇよ」


ジョニーが笑う。


「そっか」


その夜を境に、キャロルは消えた。


メンバーは別々の道を歩き始める。


雑誌は騒ぎ立てた。


『キャロル伝説の終幕』


『矢沢永吉は終わった』


業界人たちは酒場で囁く。


「ソロじゃ無理だろ」


「キャロルだから売れたんだ」


矢沢の耳にも入っていた。


ある夜、一人きりのアパート。


窓の外では雨が降っていた。


テーブルの上には吸い殻だらけの灰皿。


静かだった。


あまりにも静かすぎた。


これまで毎日のように鳴っていた電話も減った。


仲間もいない。


歓声もない。


あるのは、自分だけだった。


矢沢は暗い部屋でぼんやり天井を見上げた。


「……終わりか」


そう呟いた瞬間、胸の奥で何かが燃えた。


違う。


終わっていない。


まだだ。


翌朝、矢沢は古びたスタジオの扉を開けた。


誰もいない。


埃っぽい空気。


古いアンプの匂い。


マイクを握る。


静寂の中、自分の呼吸だけが聞こえる。


矢沢はゆっくり目を閉じた。


そして低く呟く。


「ここからが、本当の矢沢だ」


その声は、小さかった。


だが確かに、新しい時代の始まりの音だった。



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