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第2話「CAROL」

第2話「CAROL」


一九七二年、横浜。


雨上がりの伊勢佐木町は、濡れたアスファルトがネオンを鈍く映していた。排気ガスと煙草の煙、バーから漏れる油の匂いが混ざり合い、夜の街に重く沈んでいる。


ライブハウス「リトル・ダーリン」の楽屋で、矢沢永吉は革ジャンの襟を立てながら鏡を見ていた。リーゼントを撫でつけるポマードの甘ったるい匂いが鼻につく。


「永ちゃん、次いけるぞ」


店員が顔を出す。


「ああ」


低く答えた矢沢は、煙草を灰皿に押しつけた。


ステージへ向かう途中、壁にもたれてギターを抱えている男がいた。鋭い目をした細身の男。ジョニー大倉だった。


「お前、いつも怒ったみたいな顔してんな」


ジョニーが笑う。


矢沢は立ち止まり、睨むように相手を見た。


「ロックやる奴がヘラヘラしてどうすんだよ」


ジョニーは吹き出した。


「面白ぇな、お前」


その夜、二人は初めて一緒に演奏した。


エルヴィス。チャック・ベリー。ビートルズ。


乾いたドラム。跳ねるベース。唸るギター。


狭い店の空気が変わった。


客席にいた不良少年たちが椅子を蹴飛ばしながら立ち上がる。


「なんだこいつら!」


女たちが悲鳴を上げる。


汗と酒と熱気。


ロックンロールの匂いがした。


演奏後、ジョニーが笑いながらビール瓶を差し出す。


「組まねぇか」


矢沢は瓶を受け取り、一気に煽った。


「デカいことやれるならな」


「バンド名、どうする?」


矢沢は煙草に火をつけながら答えた。


「CAROL」


「なんでだよ」


「響きがカッコいい」


ジョニーは笑った。


「適当だな」


だが、その名前は後に日本中を震わせることになる。


キャロルは爆発的に人気を集め始めた。


革ジャン。リーゼント。鋭いシャウト。


それまでの日本の歌謡界にはなかった“危険な匂い”。


テレビ局のディレクターは露骨に顔をしかめた。


「こんなの不良だろ」


「子供に悪影響だ」


だが若者たちは熱狂した。


ライブ会場には不良少年と女子高生が溢れた。


「永ちゃーん!」


「ジョニー!」


悲鳴が飛び交う。


キャロルがステージに立つだけで、空気が変わった。


あるテレビ出演の日。


楽屋でスタッフが怒鳴っていた。


「革ジャンはダメだ! もっとちゃんとした格好しろ!」


ジョニーが舌打ちする。


「なんだよ、ロックに“ちゃんと”なんかあるかよ」


スタッフは顔を赤くした。


「いいか、テレビってのはな!」


その時、矢沢が口を挟んだ。


「だったら出ねぇよ」


空気が凍る。


スタッフが絶句する。


「……は?」


「俺たちはロックやりに来たんだ。サラリーマンやりに来たんじゃねぇ」


ジョニーが吹き出した。


「永ちゃん、最高だな」


しかし、人気が出るにつれ、矢沢の中で別の感情が膨らみ始めていた。


金だった。


ライブのギャラ。レコードの売上。グッズ。


大人たちは平然と金を抜いていく。


「お前ら若いんだから、勉強代だよ」


そう笑う業界人を見て、矢沢は奥歯を噛み締めた。


ある夜、事務所で帳簿を見ていた矢沢が言う。


「ジョニー、これおかしいぞ」


「何が?」


「俺たち、こんだけ客入れてんのに、全然残らねぇ」


ジョニーはソファに寝転びながら答える。


「そんなもんだろ」


「そんなもんで終わりたくねぇんだよ」


矢沢の目は真剣だった。


「人気だけじゃダメだ。金握らなきゃ、最後は全部持ってかれる」


ジョニーは煙草を咥えたまま苦笑する。


「お前さ、ミュージシャンってより社長だな」


「貧乏は嫌なんだよ、俺は」


その言葉に、一瞬だけ空気が重くなる。


ジョニーは冗談っぽく笑った。


「金金うるせぇなぁ」


矢沢は低く返す。


「お前、腹減って眠れねぇ夜、知らねぇだろ」


ジョニーは黙った。


その頃からだった。


少しずつ歯車が狂い始めたのは。


ライブ後の楽屋。


メンバー同士の会話は減った。


疲労と嫉妬、人気格差。


雑誌の表紙は矢沢ばかりだった。


「永ちゃんだけ目立ちすぎなんだよ」


誰かが呟く。


ジョニーも次第に苛立ちを隠さなくなっていく。


ある日のリハーサル。


演奏が止まる。


「違う!」


矢沢が怒鳴る。


ジョニーも怒鳴り返した。


「細けぇんだよ、お前!」


「ロックはノリだろ!」


矢沢はマイクスタンドを蹴飛ばした。


「ノリだけで天下取れるか!」


静まり返るスタジオ。


ジョニーが睨み返す。


「変わったな、永ちゃん」


矢沢は何も言わなかった。


変わったのではない。


最初から、こうだった。


誰よりも高い場所へ行きたかっただけだ。


ライブ当日。


開演前のホールには、観客の熱気が渦巻いていた。


革ジャンの若者たち。興奮した女たち。煙草の煙。汗。


「キャロル! キャロル!」


怒号のようなコール。


ステージ袖でジョニーが言う。


「今日も満員だな」


矢沢は客席を見つめたまま答える。


「ああ」


「嬉しくねぇの?」


少し間が空く。


「……もっと上がある」


ジョニーは呆れたように笑った。


「化け物だな、お前」


ステージが始まる。


爆音。


歓声。


白熱灯が照りつけ、汗が革ジャンの中を流れる。


矢沢はマイクを握り、叫ぶ。


観客が狂ったように飛び跳ねる。


その瞬間だけは、全てを忘れられた。


だがライブ終了後、楽屋へ戻ると、急に静寂が押し寄せる。


壁の向こうではファンの絶叫が続いている。


「永ちゃーん!」


「キャロルー!」


しかし矢沢は、一人ソファに座り煙草を吸っていた。


紫煙が薄暗い楽屋に漂う。


ジョニーたちは別室で笑っている。


矢沢だけが、黙っていた。


灰がぽとりと落ちる。


耳の奥ではまだ歓声が鳴っている。


だが、その歓声が大きくなるほど、なぜか孤独も大きくなっていく。


矢沢は煙を吐きながら、低く呟いた。


「……まだだ」


その横顔に、もう少年の笑顔はなかった。



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