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第1話「広島から来た少年」

第1話「広島から来た少年」


東京ドームの天井に、開演前のざわめきが低く渦巻いていた。まだ照明は半分しか落ちていない。五万人の観客が息を潜め、それでも抑え切れない熱気だけが波のように揺れている。ステージ袖で白いタオルを肩に掛けた矢沢永吉は、暗い客席をじっと見つめていた。


革靴の先が、黒い床を静かに叩く。


スタッフが緊張した顔で近づいてくる。


「永ちゃん、五分前です」


矢沢は返事をしなかった。


耳に入ってくるのは、遠い歓声ではない。もっと昔の音だった。夜の広島駅。湿ったホーム。古い列車のブレーキ音。石炭と油の混じった匂い。


十八歳の永吉は、擦り切れたギターケースを抱え、ホームに立っていた。冬の風が薄いジャンパーを容赦なく通り抜ける。ポケットには、皺だらけの数千円しか入っていなかった。


「本当に行くんか、永ちゃん」


背後で幼なじみが言った。


「東京なんか行って、どうするんや」


永吉は煙草に火をつけた。安い煙草の苦い煙が喉に張り付く。


「ビッグになる」


「は?」


「俺ぁ金持ちになるんよ。デカい家住んで、デカい車乗って、女が放っとかん男になる」


友人は呆れたように笑った。


「夢見すぎじゃろ」


永吉は笑わなかった。


「夢じゃねぇよ。決めとるんよ」


列車が滑り込んできた。鈍い鉄の音が夜気を震わせる。永吉は振り返らずに乗り込んだ。


窓の外で友人が叫ぶ。


「帰ってこいよ!」


永吉は窓越しに吐き捨てた。


「帰るかよ。こんな町」


列車がゆっくり動き出す。広島の灯りが遠ざかる。永吉は暗い窓に映る自分の顔を見つめた。


腹が減っていた。


だが、それ以上に渇いていた。


金が欲しかった。自由が欲しかった。誰にも頭を下げずに生きられる力が欲しかった。


幼い頃、父は病気で死んだ。被爆の後遺症だと大人たちは小声で話していた。母は、いつの間にかいなくなった。置いていかれる感覚だけが、胸の奥に冷たく残った。


親戚の家を転々とした。


「永吉、遠慮せぇや」


「飯ばっか食うな」


そんな言葉を浴びるたび、胸の奥で何かが黒く固まっていった。


ある夜、永吉は布団の中で天井を見ながら呟いた。


「金があれば、誰にもバカにされん」


その言葉だけが、彼の骨になった。


横浜に着いた頃には、財布の中身はほとんど消えていた。港町の空気は潮と排気ガスの匂いがした。トラックの音、怒鳴り声、外国人の笑い声。広島とは何もかも違っていた。


米軍キャンプ近くのバーから、低く跳ねるベース音が漏れていた。


永吉は吸い寄せられるように扉を開けた。


薄暗い店内。紫煙。汗。ビールの匂い。ステージの黒人シンガーがシャウトするたび、空気が震えた。


腹の底を殴られるようなリズム。


「……なんだ、これ」


隣の男が笑う。


「ロックンロールさ、兄ちゃん」


永吉は目を離せなかった。


歌っている男は、自由そのものだった。


翌日から永吉はライブハウスに出入りし始めた。皿洗いをして、雑用をして、空いた時間に歌わせてもらった。


だが客は少ない。


酔っ払いが数人。


「なんだそのリーゼント」


「気取ってんなぁ」


笑われることもあった。


ライブが終わると、冷えた路地裏でパンの耳を齧った。乾いていて、ほとんど味がしない。


仲間の一人が缶コーヒーを差し出す。


「永ちゃん、辞めりゃええのに」


永吉はパンを飲み込みながら睨み返した。


「なんで」


「売れねぇよ。こんなの」


「誰が決めた」


「現実見ろって」


永吉は壁に拳を打ちつけた。


「うるせぇ!」


路地に猫が逃げる。


「俺は絶対行くんだよ! 武道館でもドームでも、デカいとこ全部、俺が立つ!」


仲間は黙った。


永吉の目だけが異様に光っていた。


数か月後、小さなライブハウス。客は十人もいない。煙草の煙が白く漂う。


永吉はマイクを握った。


スポットライトが顔を照らす。


胸の奥で何かが燃えていた。


「聞いてくれ」


演奏が始まる。


シャウトした瞬間、空気が変わった。


店の奥で酒を飲んでいた女が、ゆっくり顔を上げる。


永吉は歌い続けた。


怒りも、孤独も、飢えも全部ぶつけるように。


汗が頬を流れる。


声が裂けそうになる。


曲が終わる。


静寂。


その女の頬を、一筋の涙が流れていた。


永吉はそれを見逃さなかった。


女は震える声で言った。


「……なんか、苦しくなった」


永吉は息を切らしながら笑った。


初めてだった。


自分の歌が、誰かの心を動かした。


ステージを降りると、仲間が呆然としている。


「永ちゃん……今の、すげぇな」


永吉は煙草に火をつけた。震える指先を隠すように深く煙を吸い込む。


そして低く呟いた。


「俺は、絶対に成り上がる」


その目は、まだ見ぬ巨大なステージを見ていた。



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