十五、鉄鍋
暗闇の中、鍋を見つめる男がいた。
火が鍋底を熱する様子を、恍惚とした目で見ている。
「あと少し……あともう少しでこれが完成する……」
にやり、と怪しげな笑みを浮かべた。
✤✤✤✤
「暑い……」
晶凛は布で汗を拭い、宮廷の中へ入る。
暑い季節になり、少し動いただけでも皮膚に汗が滲む。
整体の部屋へ行こうとしたが、通路を歩いていると焼けたような匂いが鼻腔にまとわりついた。
「もしかして、火事?」
調理場の扉が開いており、灰色の煙が広がっている。
嫌な汗が頬を伝う。
最悪な想像を振り切るように、駆け出して調理場の前に立った。
「雷帝? こんなところで何をなさっているんですか!?」
調理場の中は暗かったが、後ろ姿で雷帝だとわかった。
「あぁ、晶凛」
顔だけ振り返った雷帝からは、のんびりとした返事が返ってきた。
晶凛は心配は何だったのかと疑うように拍子抜けした。
鉄鍋を火にかけているだけだったのだ。
「これは男の浪漫だ。晶凛。油が跳ねるから、ちょっと離れて」
晶凛が半信半疑ながら後ろに一歩下がったのを見て、雷帝は丸くて大きな鍋にたっぷりの油を注いだ。
ジュッと油が焼ける音がして、さらに香ばしい香りが広がる。
「浪漫って……」
雷帝が真剣な顔をしているのを見て、言葉を失った。
皇帝自ら料理をしていた。厳しい目は料理人そのものだった。
油をひいたので、そのまま野菜を炒めると思いきや、布で油を拭き取った。
「油がもらったいない……」
「いや。毎回鉄鍋を使う前に、空やきしてから油を馴染ませることが大切なんだ」
油が馴染んだ鉄鍋は黒い光を放っている。
「準備完了。せっかくだから何か作ろうか」
「え、いいえ、皇帝に作らせる訳には……」
「暑い季節には辛いものが食べたくなるな。よし、すぐできるから待ってろ」
晶凛の言葉を無視するように、作るものをさっさと決めてしまう。
「薪、追加で」と使用人に言うと、薪がくべられて火力が強くなる。
油をひいて、唐辛子、ニンニクと生姜のみじん切りしたものを鉄鍋に入れる。ニンニクの香ばしさが広がると挽肉を取り出して入れた。
軽快に手を動かすと、挽肉に油がまわりパラパラになった。
「最初に油を馴染ませておくと、材料がくっつかないだろう?」
雷帝は自慢げに言った。
晶凛は育て親の叔父の家に、放置された錆び付いた鍋があったことを思い出した。日々の手入れが大切だったことを実感した。
香辛料を多めに振りかけて、別の香辛料を取り出した。
「花椒を入れると香りがより引き立つ」
花椒独特の香辛料の香りがすると、食欲を刺激した。晶凛はごくんと唾を飲む。
味が決まると、水気を抜いた豆腐を手でちぎりながら鍋の中へ入れた。
挽肉と混ざり、豆腐が油を適度に吸っていく。
最後に手際よくネギを投入し、水とき片栗粉を入れると麻婆豆腐が完成した。
麻婆豆腐そのものが輝いていた。
「美味しそうですね!」
「俺の特製だからな」
美味しそうな匂いを振り撒きながら別の部屋に移動すると、机の上に麻婆豆腐と取り皿を置く。
晶凛が取り皿に手を伸ばすと、その前に素早く取り皿を奪われた。
「俺がやるよ」
「そんな……全部やらせてしまって申し訳ないです」
「好きでやっていることなんだから気にするな……さぁどうぞ」
そつなく取り皿に盛ると、レンゲと共に差し出してきた。
晶凛は食欲を抑えるのが限界に達した。
「お言葉に甘えて……いただきます!」
待ちきれないとばかりに、一気に口の中にかきこんだ。
唐辛子や香辛料を入れていたのに、豆腐でまろやかになっている。
暑かったことを一口噛むたびに忘れていく。
「……美味しい! 暑い季節にちょうどいいですね」
雷帝は満足そうに微笑むと、麻婆豆腐を食べ始めた。
「でも、雷帝。……どうして鉄鍋に油を塗るとくっつきにくくなるのですかね」
晶凛はレンゲを置いて、鉄鍋のことを思い浮かべながら言った。
油を塗ってすべりが良くなるということより別の理由があるような気がしていた。
「鉄の表面には微量の水分が含まれている。それを空やきして飛ばしてから油を塗ることで、油が鉄に浸透していくんだ。使えば使う程、鉄鍋はより油が浸透して使いやすくなる」
どうやら鉄鍋を愛着を持って育てることが男の浪漫だったらしい。
「そうなんですね! 奥が深いのですね」
「そうだ。先人の知恵とは素晴らしいものよ」
この食に対する探求心。
一瞬、皇帝より料理人の方が天職なのではないかと感じた晶凛だった。




