3本の爪 討伐隊
簿記の授業は週に2回、午前中に開かれる。本当はもう少し回数を増やしたかったが、人事異動や新しい帳簿の導入で他の官庁と同様、財務も忙しかった。
ここでは黒板やチョークなど何度も書いたり消したりできる便利なものがないので、壁に大きな紙を貼り、そこに字を書いて講義を行っている。授業の後さあやがたくさんの計算式をかいた紙をはがしていると、入り口のドアから中を覗いている人物と目が合った。
「スーザ?」
声を掛けると彼は照れたように笑いながら入ってきた。いつもは親し気に側まで駆け寄ってくる彼が何故か遠慮がちに離れたところに立って、さあやの片付けた大きな紙を見ている。
「どうしたの?スーザ。今日はなんだか変よ」
「サアヤさん。あの事件の後すごい人気だから近寄りがたくって。精龍の姫君なんて呼ばれてるし」
「精龍?何それ」
精霊王とは精霊の力をもって国を治める王だが、更にドラゴンさえも使役させることが出来る王を、王の中の王と言う意味で精龍王と呼ぶ。その絶対的な力は世界の覇王ともなりうるもので、誰も犯すことの出来ない権威であった。
フルゲイトの事件以来、さあやに関しては色々な噂が飛び交っていて、精霊の力とドラゴンを扱う力を持ち合わせているというので皇妃候補とまで噂されていた。そうなると近衛の10番隊に入りたてのスーザには、とてもではないが近寄りがたい存在になるのだ。
「精龍だなんて、みんな何か大きな勘違いをしてるんだわ。精霊の声だって一度聞こえただけだし・・・」
「精霊の声が聞こえたのですか?それはすごい」
「ほんの少しだけよ。私は本当に普通の人間だし、そんな大それた名前、迷惑だわ」
どうやらさあやには皇妃になる気はないようなので、スーザはホッとしたように微笑んだ。
「少し先ですが、久しぶりに休みが取れそうなんです。サアヤさん、一緒に街へ行きませんか?今度は仕事じゃないから、朝から出かけてゆっくりできますよ」
もちろんその日は勝負の日だ。その日こそサアヤさんを僕のものに・・・いや、こんな表現は僕らしくないな。彼女と恋人同士になって、来月辺りには結婚。サーズ兄上より先に妻をめとるのは気が引けるけど、仕方ないよな。
スーザはさあやの「もちろん行くわ。楽しみね」という快い返事をもらって、足取りも軽く自分の隊に帰って行った。
さあやがスーザの申し出を受けたのには別の理由もあった。以前街へ出た時には分からなかった獣族の生活を見てこようと思ったのだ。彼等が街でどんなふうに暮らしているのか、人間からどんな扱いを受けているのか調べて、アルバドラスに報告しようと思った。
「ルディは箱入り皇帝だもんね。もし一人でお忍びで町に出ちゃったりしたら、メダの白髪頭がハゲになっちゃうわ」
そんな独り言をつぶやきながら歩いていると、廊下の向こうからメダがたくさんの書類を抱えてせかせかと歩いて来たので、思わずさあやは笑ってしまった。
「何ですかな?」
「ううん、何でも。それ、ルディの所に運ぶの?手伝うわ」
さあやは彼の手から書類を半分取ると、一緒に執務室に向かった。
部屋の中ではサーズとアルマがアルバドラスを囲んで深刻な顔で話しこんでいる。アルマは近頃、自らが出向いて夜の町を巡回する隊を指揮していてほとんど寝ていないらしく、顔色があまり良くなかった。だがそうまでして夜警に力を入れているにもかかわらず、昨晩、又ある貴族の家が3本の爪に襲われたのだった。今度はスガヤにあるハンブルグ家と同じように皇家とつながりのあるド・ヌール家であった。
ド・ヌール家は今まで襲われた家の中で最も城に近い場所にある。3本の爪がだんだんとこの城に近づいてくるようで不気味だった。
「深夜とはいえ、ド・ヌール家を襲った賊が我々の包囲網に全く触れなかった事を考えると、彼らの隠れ家がマスカベーラの中心街、スガヤにあるのは間違いないと思います」
「しかしマスカベーラ中にある空き家や、怪しい人間が出入りしていそうな家は調べたのであろう?」
サーズが難しい顔で聞いた。彼の生家もスガヤの外れにある。家族の事を考えると、他人ごとではなかった。
「はい、すべて。ですからこれはもう普通の民家が奴らを囲まっているとしか思えません。それで陛下にマスカベーラ中にあるすべての家を捜索する許可をいただきに参ったのです」
コラン・アルマは責任感の強い、自分に厳しい男だ。だから平民出身にもかかわらず34歳の若さで警備隊の総隊長にまで上り詰めた。もしこの作戦でも3本の爪を捕えられなければ、彼は責任を取って辞任するつもりだろうとサーズは思った。
「よかろう。だが決行は四時後だ。それまで準備は他のものに任せ、少し休むがよい。ほとんど寝ていないのであろう?」
「いえ、私は・・・!」
「良いから休むのだ。いざ敵と対峙した時、倒れてしまっては意味がない。これは命令だ。よいな?」
「ははっ!」
アルマが頭を下げる前を通り過ぎ、アルバドラスはさあやをともなって食事の間へと向かった。
「ルディ、だんだん皇帝っぽくなってきたね。さっきのなかなか良かったよ!」
「我はもともと皇帝である」
さあやの冗談にアルバドラスは真顔で答えた。
アルバドラスの温情に感動したアルマは、高まる緊張感を抑えながら総隊長室のソファーに横になった。それでも一時で飛び起きると、サーズから借りた歩兵の12の隊と25の警備隊の編成をし、それぞれの隊長や副長と作戦の手順を確認しあった。
町に夕闇が迫る頃、マスカベーラ中にあるすべての民家、商家そして貴族の屋敷にも容赦なく手入れが入った。いきなり土足で踏み込んで家中をくまなく走り回り床をはがし、隠し部屋がないか長い棒で天井をたたきまわる乱暴な兵たちを市民は家の隅で恐れおののきながら見ていた。
しかし貴族の屋敷では自分たちより身分の低い兵らの狼藉に剣や槍で抵抗する者もいて、突入隊の指揮をしているものは応戦しながら叫びまわった。
「われらは3本の爪討伐隊である!抵抗するものは全てひっとらえよとの皇帝陛下のご命令だ!抵抗しなければ何もせぬ。速やかに兵を引き、賊の捕獲に協力せよ!」
スガヤの中心に陣を敷いた討伐隊の本部で指揮を執るアルマのもとに、伝令役の兵が駆け込んできた。
「総隊長!オンブラン河のほとりにある別荘で、それらしき賊を発見しました。現在21警備隊が応戦中です!」
「よし。すぐに向かうぞ。全隊、エグラに乗り進軍せよ!」
エグラは四つん這いになると凄まじいスピードで走る事ができる。一切の活動をやめ、廃墟のようになった道を土煙を巻き上げ、何十匹ものエグラが走り出した。
オンブラン河沿いに建つ、優美な別荘は今や戦場と化していた。あちこちから剣を打ち合う音が聞こえ、誰かの叫び声が響いた。
鼻筋と手足の先が白く、あとは真っ黒な毛並みの獣族が、その鋭い爪で警備兵の顔を引き裂いた。彼らの爪は時に剣よりも強力な武器になる。血しぶきをあげながら倒れる兵をしり目に、男はそのまま走り抜け、再び襲ってきた別の兵の腹に一撃を入れると、裏の出口へ向かった。
ー 王に知らせなければ・・・ -
裏口を出ると、舟に乗るための小さな桟橋になっている。橋のすぐ下には2人の部下が小舟を用意して待っていた。
「首領、早く・・・!」
舟に飛び乗ると、部下たちがオールを漕いで舟を動かし始めた。
アルマの率いる討伐隊がエグラに乗ってやってきたのは、その舟がすでに川の本流に入るところだった。アルマはすぐにそばにいる副長に舟を追うように命じると、自分は別荘の中へ他の兵と共に突入した。エグラのしっぽは強力で、向かってくる敵を次々に跳ね飛ばし、屋敷の中はあっという間にかたがついた。一方舟を追った別の隊は、エグラに乗ったまま川へ飛び込んだ。エグラは水にも強く、泳ぎも達者だ。
3人の獣族は舟の周りをエグラに囲まれ、身動き出来なくなっていた所を長い槍で押さえつけられ、ほとんど抵抗する事も出来ずに捕らえられた。




