第8話 知らない森
最初に困ったのは、明るさだった。
目を開けた瞬間、朔は反射的に腕で顔を覆った。
瞼を閉じても眩しい。
しばらくそのまま動かず、隙間から周囲を見る。
木々の葉が頭上を覆っている。その間から青い空が見えた。陽射しが葉を透かし、地面に細かな光を落としている。
森だ。
最後の記憶を辿る。
人がほとんど入らない地域で、調査中だった。
周辺とは性質の違う領域を見つけ、観測値を再計測しようと近づいたとき、足元が消えた。
いや、落ちたのとは違う。身体ごと、どこかへ引かれた。そこまでだった。
「……なるほど」
何もなるほどではない。
朔は身体を起こし、痛いところがないか確かめる。
腰の装備を確認する。
携帯端末はあるし、起動している。
ただし、外部接続は一切返ってこなかった。位置情報も取得できない。
何度か設定を変えて試したが、結果は同じだった。
「困ったな」
口ではそう言いながら、別の道具を取り出す。
掌に収まる黒いスコープ。
本来なら周囲の情報を補正し、距離や位置まで重ねて表示する。今はほとんどの機能が死んでいた。
それでも光学部分は生きている。
朔は木々の隙間から遠くを覗いた。
森。
その向こうも森。
人工物らしいものは見えない。
スコープをしまう。
薄手の黒い手袋をはめ直し、水と携帯食を確認する。細いコードと固定具も残っていた。
電子機器が役に立たなくても、物理的に使える道具はいくつかある。
数日なら動ける。
問題は、その先だ。
森そのものは、それほどおかしくなかった。
土がある。木がある。草が生えている。
虫もいるし、遠くでは鳥らしい声もする。
なのに、一つとして見覚えがない。
朔は近くの葉を観察した。
葉脈があり、枝から生えている。当たり前だ。
けれど種類が分からない。
隣の木も。
地面を這う小さな虫も。
聞こえてくる鳴き声も。
知らない。
それでも全部、理解できそうな形をしている。
見慣れているのに、知らない。
「……面白いな」
自分でも、今言うことではないと思う。
遭難している可能性が高い。
連絡手段はない。現在地も分からない。
このまま夜になれば、危険も増える。
それでも、知らないものが多いという事実は、困るだけではなかった。
太陽の位置を見る。まだ時間はある。
まず人を探す。
その途中で水場が見つかれば位置を取る。
大型生物の痕跡にも注意する。
朔は立ち上がった。
歩き始めて間もなく、人工物を見つけた。
木々の間に、細長い石が立っている。
自然に立ったものではない。
朔は近づいた。
表面には苔が広がり、一部は欠けている。
その下に何かが刻まれていた。
文字。
たぶん。
見たことのない形だった。
朔は少し顔を近づける。
読めない。
発音も分からない。
体系も知らない。
なのに。
道。
ふいに、その意味だけが頭に残った。
朔は眉を寄せた。
もう一度見る。
やはり読めない。
文字として理解しているわけではない。
それなのに、意味だけが分かる。
「……何だ、それ」
初めて少し気味が悪かった。
自分の認識がおかしくなっている可能性がある。
石から離れ、位置を変えて見る。
変わらない。
別の刻印は分からない。
今のところ拾えるのは「道」だけだった。
朔は石の位置を覚えて、その場を離れた。
しばらく進むと、人の痕跡が見つかった。
木の幹に小さな金属片が打ち込まれている。
少し先にもある。
さらに進めば、地面に古くない車輪の跡があった。
人がいる。
それだけで状況はかなり良くなる。
朔は跡を追った。
やがて、木々の向こうに人影が見えた。
女性だった。
暗い髪。丸い眼鏡。濃い色の服。
手には紙を持っている。
最初は、迷っているのかと思った。
女性は紙を見て、周囲を見る。
少し歩く。止まる。また紙を見る。
朔は足を止めた。
違う。
迷っている人間の動きではない。何かを探している。
女性が顔を上げた。
目が合う。
青と灰の間のような瞳だった。
女性はすぐには近づいてこなかった。
朔も動かない。
先に口を開いたのは、女性だった。
「この辺の人?」
知らない言葉だった。
それは分かった。
音の並びを知らない。
単語も知らない。
なのに、意味が届いた。
朔は一瞬だけ黙った。
「違う」
自分はいつもの言葉で答えている。
女性は普通に理解したらしい。
石の文字とは違う。
今度は会話そのものが通っている。
今日になってから、自分に起きていることが多すぎる。
「ここ、どこ?」
女性が土地の名前を答えた。
知らない。
もう少し広い地域を聞いた。
それも知らなかった。
女性は朔を見た。
さっきより少し長く。
「どこから来たの?」
「それが分からない」
正確ではない。
どこにいたかは分かる。
どうやってここへ来たかが分からない。
説明するには長かった。
朔は女性の持っている紙へ目を向けた。
地図だった。
文字は読めない。
それでも地形を表す線や記号は分かる。
森を横切る細い線が一本あった。
女性はその線と周囲を何度も見比べている。
「道を探してる?」
女性がこちらを見る。
「うん」
それだけだった。
朔は地図をもう一度見て情報を拾う。
現在地らしい場所。
沢。斜面。先ほど歩いてきた方向。
線の位置を重ねる。
「それなら、さっきいた場所の近くを通ると思う」
「さっき?」
「目が覚めたところ」
女性の視線が止まった。
「森で?」
「うん」
少し間がある。
女性は地図を畳んだ。
「案内できる?」
「できる」
断る理由はない。朔には情報が必要だった。
人のいる場所へ行きたいし、あの石も気になる。
歩き出してから、名前を聞いていないことに気づいた。
「俺、朔。君は?」
女性が振り返る。
「ネレア」
それだけ言って、また前を向いた。
朔は少し遅れて後を追った。
名前の音は初めて聞いたはずなのに、不思議とそのまま残った。




