第6話 朔日の青い実
夕方、ネレアはギルドの窓口で一枚の依頼票を受け取った。
夜間に放牧地から抜け出す羊の行動調査。
「羊?」
朔が横から覗き込む。
「羊」
「逃げたの?」
「戻ってくるみたい」
依頼票によれば、街外れの放牧地で飼われている羊のうち、数頭が夜の間に柵を抜け出しているらしい。
きっかけは、羊飼いが朝、何頭かの羊の毛に青い染みを見つけたことだった。
初めは一度きりだった。
しばらくして、また同じことが起きた。
調べてみると、放牧地を囲う柵の一部に羊毛が引っかかっていた。地面との間に、羊一頭ならどうにか抜けられそうな隙間がある。
塞いでしまえばいいようにも思えるが、何を食べているのか分からないままなのが気になる、と依頼人は話した。
「青ねえ」
朔が言った。
「何だろうね」
ネレアは依頼票を畳んだ。
「夜になれば追える?」
「たぶん。何度か同じところを通ってるなら、なおさら」
「じゃあ行こうか」
街を出る頃には、日はだいぶ傾いていた。
放牧地は海を望む丘の上にあった。
三十頭ほどの羊が、なだらかな斜面に散らばって草を食べている。その向こうには海が広がっていた。
依頼人の男性は、ネレアたちを問題の柵まで案内した。
「こいつです」
柵の下は少し地面が削れていた。
木柵との間にできた隙間には、白い毛が何本か残っている。
「抜けられるね」
ネレアがしゃがみ込む。
「そうなんです。けど、朝には全部いるんですよ。だから最初は、ここから出てるとは思わなくて」
男性が羊の群れを振り返った。
「あの四頭です。青くなってたのは」
示された羊たちは、何事もなかったように草を食べている。
「染みは?」
「もう落ちてます。水で洗えば取れるんで」
ネレアは立ち上がった。
「分かりました。暗くなってから見てみます」
日が沈むまで、二人は丘で待った。
海の向こうに残っていた光が消え、放牧地が夜の色に沈んでいく。
朔が地面へ目を向けた。
昼間は羊の蹄に踏み荒らされていた場所に、別のものが浮かび始める。
今日ついたもの。昨日のもの。何度も重なったもの。
「見える?」
「うん」
朔は柵の隙間を抜けた痕跡を目で追った。
「こっち」
ネレアが後をついていく。
痕跡は丘を下り、放牧地の外へ続いていた。途中で何度か草地を横切り、低い茂みの間を抜ける。
「結構遠くまで来てるね」
「毎回同じところに向かってる」
「逃げたいわけじゃなさそう」
「たぶんね」
やがて、朔が足を止めた。
丘と丘の間にできた、浅い窪地だった。
「ここ」
ネレアが周囲を見渡す。
草が生えている。低い灌木が少し。
「何しに来てるんだろう」
「さあ」
背後で草が鳴った。
二人が振り返る。
暗がりから、羊が一頭現れた。続いてもう一頭。さらに二頭。
四頭の羊はネレアたちを気にする様子もなく、その横を通り過ぎた。
「来たね」
「来たね」
羊たちは窪地へ降りていく。そのまま草の間に鼻先を突っ込んだ。
しゃく、しゃく、と小さな音がする。
ネレアが近づいた。
「何か食べてる」
羊の鼻先に、青いものが見えた。
ネレアは一つ拾い上げる。
親指の先ほどの、小さな実だった。
濃い青色の皮に覆われている。指で軽く押すと柔らかい。鼻先へ近づけると、甘い香りがした。
「これか」
朔も覗き込む。
一頭の羊がネレアの手へ鼻を伸ばした。
ネレアは手を上げた。
「これは駄目」
羊はしばらくネレアを見上げていたが、諦めて地面の実へ戻った。
朔が周囲を見回す。
「木、ないね」
「ないね」
実は草の間にいくつも落ちていた。
けれど、この実がなっていそうな木も、蔓もない。
ネレアはもう一度、手の中の実を見る。
「見たことある?」
「ない」
「私もない」
羊たちは構わず食べ続けている。
ネレアは地面からいくつか実を拾い、小さな布袋に入れた。
「持って帰るの?」
「調べる」
「だよね」
そのとき、朔の姿が揺らいだ。
ネレアが顔を上げる。
小さかった輪郭が夜の中で伸びていく。
翼が消え、足が地面についた。
黒い髪が風に揺れる。
ネレアはしばらく見てから、空を見上げた。
月はない。
「今日は早いな」
「そうだね」
朔は自分の手を開き、軽く握った。
その横を羊が通り過ぎる。途中で一度止まり、さっきまでいなかった大きな人間を見上げた。
朔も見下ろす。
「何」
羊は答えず、また実を食べに戻った。
ネレアは布袋の口を閉じた。
「戻ろうか」
「うん」
依頼人には、羊たちが柵の外で青い実を食べていたことを伝えた。
「実?」
男性はネレアが見せたものを不思議そうに眺めた。
「こんなの、この辺じゃ見ませんね」
「やっぱり?」
「ええ」
「近くに実がなる木もなかった」
男性の顔が少し曇る。
「羊は大丈夫でしょうか」
「今のところ異常はなさそう。でも、何かは分からないから、食べさせない方がいいと思う」
「じゃあ、明日にでも柵を直します」
「その方がいいね」
仕事を終えて街へ戻る頃には、すっかり夜も深くなっていた。
それでもギルドには灯りがついていた。
扉を開けると、酒場の方から話し声が聞こえる。
昼間より依頼窓口は静かだったが、酒場にはまだかなり人が残っていた。
ネレアが窓口へ向かう。
書類を整理していたセラが顔を上げた。
「あ、おかえりなさ――」
止まった。
ネレアを見る。
その隣を見る。
もう一度、ネレアを見る。
「……誰?」
「朔」
「……え?」
セラの視線が、ゆっくり朔へ戻った。
「朔」
「いや、聞こえたけど」
朔が片手を上げる。
「こんばんは」
「こんばんは……」
セラはしばらく朔を見た。
それから窓口の奥を覗き込むようにして、朔の背後を見る。
「小さい方は?」
「俺だよ」
「……ええ?」
今度はさすがに声が大きくなった。
酒場の何人かが振り返る。
その視線が朔に止まった。
少し遅れて、向こうの席から小さく声が上がる。
「誰、あれ」
「知らない」
「魔女ネレアと一緒に来たよね」
「……格好いいね」
さざ波みたいに視線が増えていく。
朔は慣れた様子で気にしていない。
セラだけがまだ気にしていた。
「大きくなるの?」
「たまに」
「……そういうの、先に言ってよ」
「聞かれなかったから」
「聞くわけないでしょ」
ネレアは依頼票を差し出した。
「羊は?」
「青い実を食べに行ってた。柵は明日直すって」
「青い実?」
「依頼人も知らない実だった。何個か持って帰って調べる」
セラは報告を書き留めた。
報告を終えると、ネレアは窓口を離れた。
数歩進んだところで、朔が酒場を見る。
ネレアも見る。
料理の匂いがする。
「食べていかない?」
「いいよ」
二人は空いている席についた。
酒場のざわめきが、ほんの少しだけ大きくなった。
ネレアは気にせずメニューを開く。
朔も向かい側から覗き込んだ。
「何にする?」
「肉」
「即答だね」
「今日は一人前食べられるから」
ネレアは顔を上げた。
「いつも食べてるでしょ」
「量が違う」
「そう」
注文を取りに来た店員が、一瞬だけ朔を見てから、二人分の注文を書き留めていった。
料理が来るまでの間も、周囲から時々視線が飛んでくる。
ネレアが水を飲む。
「見られてるね」
「いつものこと」
「そう」
否定する材料がなかったので、そのままにした。
翌朝。
塔の仕事部屋には、青い実が並べられていた。
大きさ、重さ、色、香り。
表皮を傷つけないものと、断面を確認するものを分ける。
朔は、自分の顔とさほど変わらない大きさの実を両手で持ち上げて観察している。実を下ろすと、昨夜から取っていた記録に新しい項目を書き足した。
ネレアは植物の資料を何冊か机に積んでいる。
「ないね」
ページをめくりながら言う。
「こっちも」
朔が別の資料を閉じた。
少なくとも、二人が持っている資料には該当するものがない。
「あとでギルドの記録も見ようか」
「うん」
ネレアは立ち上がった。
「お茶淹れてくる」
「俺も行く」
「記録は?」
「一段落した」
二人が仕事部屋を出る。
しばらくして戻ってきた朔が、机の上に着地し声を上げた。
「ネレア」
「なに」
「実」
ネレアも見る。
さっきまで青い実を並べていた皿が、空になっていた。
切った実もない。布袋にもない。机の下にも落ちていない。
朔が皿を持ち上げる。
「……消えた」
ネレアは何もない皿を見る。
「全部?」
「全部」
朔はしばらく黙っていた。
それから、自分が書いた記録へ視線を落とした。
ネレアも同じものを見る。
「朔」
「うん」
この世界に来たばかりの頃。
朔と一緒にこの世界へ来た道具もいくつか消えた。
朔自身にも、似たようなことが起きた。
ネレアは椅子に座り直した。
「羊飼いに、最初に青い染みを見た日を聞こう」
「他の日も」
「覚えてる範囲でいい」
朔が新しい紙を一枚取り出した。
後日、聞き取った日付を並べてみると、完全な規則性はなかった。
何も起きなかった月もある。数日のずれもある。
それでも、青い染みが見つかった日は、朔日の前後が多かった。
ネレアは紙の上の日付を見る。
朔も隣から覗き込んでいる。
「次も出るかな」
「分からない」
「見に行く?」
「出るなら、その辺りだろうね」
ネレアは記録を閉じた。
青い実が何だったのかは、まだ分からない。
ただ、次に見るべき時期だけは分かった。




