第3話 水の行方
西門を抜けると、景色はすぐに変わった。
石造りの建物は途切れ、街道の両側に畑が広がる。低い石垣の向こうには葉の大きな野菜が並び、その先には豆の支柱が規則正しく立っている。少し離れた丘には果樹が列を作り、畑の間を縫うように細い水路が走っていた。
荷車が一台、土埃を上げながら道を進んでいく。
ネレアはその轍を避けて歩いた。塔を出てから、もうずいぶん経っている。街を横切り、西門を抜け、さらに街道を歩いた。普段使うギルドからならまだ近い。街の南東にある塔からとなると、話は別だった。
「遠い」
肩のあたりから声がした。
「知ってたでしょ」
「知ってるのと歩くのは別」
「朔は歩いてない」
小さな朔が、ネレアの肩から飛び立ち、そのまま少し飛んだところで止まった。
街道の脇を流れていた水路が、二つに分かれている。片方は近くの畑へ。もう片方は、さらに西へ延びていた。水は流れている。ただ、ギルドで聞いた通りなら、問題はこの先だった。
依頼は、西側の農地で使われている水路の調査。ここしばらく、下流へ届く水が減っているという。水路を共同で使う農家がギルドへ依頼を出していた。
原因の調査と、可能なら修理。
ネレアは昨日、依頼を受ける前に受付でいくつか確認していた。
水路を扱える職人はいるか。
いる。
原因が見つかった場合、すぐ呼べるか。
連絡はつく。
修理に必要な材料と費用は誰が持つのか。
水路を管理する農家側。
ネレアたちで修理できない場合は。
原因と場所を特定し、必要な作業を報告すれば、調査の依頼としては完了。
それなら受けられる。ネレアは翌朝から向かうことを約束し、依頼票を持ち帰った。
水路沿いをしばらく進むと、畑の中から一人の男性が手を上げた。
「魔女さんか?」
日に焼けた顔に、白いものの混じった髪。ネレアよりずっと年上に見える。
「ネレア」
「ああ。俺はダリオだ。ここの連中の話をまとめてる」
差し出された手をネレアが取る。その間に、朔は水路の縁へ降りていた。
「それが使い魔か」
「朔」
「よろしく」
小さな手が上がる。ダリオも手を上げかけて、途中で止まった。
「……喋るんだな」
「よく喋る」
「ネレアよりはね」
「余計なこと言わないで」
ダリオが笑った。
「まあ、こっちだ。見てもらった方が早い」
水路は畑の間を西へ延びていた。古い石造りだった。ところどころ色が違う。新しい石が入っている場所もあれば、継ぎ目を埋め直した跡もある。
「いつから水が減った?」
朔が聞いた。
ダリオは一度ネレアを見た。ネレアは水路を見ていた。
「……俺に聞いてるのか?」
「うん」
「十日くらい前だな。最初は気のせいかと思った。今の時期は使う量も増えるからな」
「去年の同じ時期は?」
「こんなことはなかった」
「上から入ってくる量は?」
「変わってないはずだ」
「測ってる?」
「ああ。毎朝な」
朔が腰の小さな鞄から手帳を出した。
朔の掌に収まるほどの、小さな手帳だった。さらに小さな筆記具を取り出す。
ダリオの視線がそちらへ落ちた。
「それ、自分で書くのか」
「書くよ」
「そうか……」
「作付けが変わった畑は?」
「東の二枚が豆から葉物になった」
「今年から?」
「そうだ」
「水を取る時間は?」
質問が続く。
ダリオは途中から、もうネレアを見なくなった。朔に向かって答えている。
ネレアは二人を残して、水路沿いを歩いた。
水面に手を伸ばす。
細い水の筋が持ち上がった。指先に沿うように流れ、細く伸びる。
ネレアは流れを戻した。
「魔法で分からんのか?」
追いついてきたダリオが言った。
「何が?」
「いや、水がどこに消えてるとか」
「分からない」
即答すると、ダリオが目を瞬いた。
「魔女なら、こう……」
「便利そうだよね」
朔が言った。
「そうそう」
「俺もそう思う」
「朔」
「はい」
ネレアはもう一度、水へ手を入れた。
「水を動かすことはできる。でも、どこで何が起きてるかを水が教えてくれるわけじゃない」
「なるほどなあ」
「調べて、場所を絞れば使える」
「それまでは?」
「歩く」
ダリオが笑った。
「魔女も大変だな」
「俺もいるよ」
「お前は飛んでるだろ」
朔が黙った。
午前のうちに、下流まで歩いた。
確かに水は減っていた。枯れかけている畑はまだない。ただ、末端近くでは水路の底がところどころ見えている。
畑仕事をしていた女性が、ネレアたちを見ると手を止めた。
「ダリオ、その人が魔女さん?」
「ああ」
「もっと年寄りかと思ってた」
「よく言われる」
「言われてないだろ」
朔が横から言った。ネレアは朔を見た。
「言われる」
「今初めて聞いた」
「朔がいないところで」
「それはずるい」
女性が声を上げて笑った。
そこから先は、朔が聞いた。
水が減り始めた日。畑ごとの取水時間。最近、水路を掃除した場所。雨が降った日。誰かが堰を動かしていないか。
ネレアは途中で離れ、畑と水路の境を見て回った。
昼を過ぎる頃には、朔の手帳にいくつもの数字と短い文字が並んでいた。
「記録を見たい」
朔が言った。ダリオが水路の先を指した。
「管理小屋にあるぞ。古いのも捨ててなきゃ残ってる」
「補修記録も?」
「あるはずだ」
「水量の記録は?」
「何年分いる?」
「あるだけ」
ダリオが朔を見た。
「お前、ほんとに使い魔なんだよな?」
「そうだけど」
「使い魔って、みんなこんな働くのか?」
朔は小さな手帳を閉じた。
「俺が優秀なだけ」
一拍置く。
「ついでに可愛い」
ダリオが黙った。
ネレアも黙った。
「……自分で言うのか」
「事実だから」
「行くよ、朔」
「ネレアもそう思うだろ?」
「置いていくよ」
午後は別れて動いた。朔は管理小屋へ。
ネレアは水路を上流側からもう一度辿った。途中で水を取り、細い流れにして石の継ぎ目へ沿わせる。流れがわずかに引かれる場所があった。けれど、それだけでは分からない。目印を残して、次へ進む。
日が傾き始めた頃、朔が戻ってきた。
「ネレア」
「うん」
それだけで、ネレアはしゃがんだ。
朔が手帳を開く。
「上から入ってる量はほとんど変わってない。畑で使う量は去年より少し増えてる。でも、下で減ってる分には足りない」
「補修は?」
「三年前に上流。去年ここ。その前は七年前」
朔が小さな指で、水路の先を示した。
「七年前のところから見たい」
「分かった」
ネレアは立ち上がった。ダリオが二人を交互に見る。
「……それで分かるのか?」
「まだ」
朔が答えた。
「分からないから見るんだよ」
七年前に補修された区間を調べ終えた頃には、空が赤くなっていた。原因らしいものは見つからなかった。
「違った」
朔はそれだけ言って、手帳に一本線を引いた。
「戻るか」
ダリオが言う。
ネレアは街の方を見た。ここから西門まで戻り、街を横切り、さらに塔まで。
ダリオも同じ方向を見た。
「……お前ら、どこから来たんだ?」
「街の反対側」
「今から帰る気か?」
「そのつもりだった」
「やめとけ」
即答だった。
「うちに泊まれ。部屋なら余ってる」
ネレアは少し考えた。明日もここへ来る。
「じゃあ、借りる」
「そうしな。そっちのちっこいのくらい増えても変わらん」
「俺も一人に数えてよ」
「だったら一人分食うか?」
「それは無理」
「都合いいな、お前」
ダリオの家は、畑から少し離れた場所にあった。石と木でできた、古い家だった。
玄関を入ったところで、ネレアは外套の留め具を外した。濃紺の布を脱ぎ、壁際へ掛ける。
「あらまあ」
奥から料理を運んできた女性が、足を止めた。昼間、水路の下流で会った女性だった。
「マルタだ。俺の嫁さん」
ダリオが教えてくれる。
「魔女さん、ずいぶん可愛らしい人だったんだね」
ネレアは丸眼鏡の奥から女性を見る。
「外套を着ていても同じ顔だけど」
「そういうことじゃないよ」
「俺は知ってた」
「朔には聞いてない」
「知ってることは共有した方がいい」
「しなくていいこともある」
マルタが笑った。
「さあ、座んな。魔女さんの口に合うか分からんけど」
食卓には、大きな鍋が置かれていた。
豆と根菜を煮込んだもの。焼いた芋。まだ温かいパン。
「ここの畑の?」
「ほとんどね。パンの麦は少し北の畑だけど」
ネレアは椅子に座った。
朔も卓上へ降りる。
マルタが朔を見る。
「……あんた、何食べるんだい?」
「同じもの」
小さめの皿が朔の前に置かれた。
「それは多い」
「同じものって言っただろ」
「種類が同じって意味」
「面倒な使い魔だねえ」
言いながら、マルタがさらに小さめの器に豆を移し替えた。
「切ってくるかい?」
「大丈夫。食べられる」
昼間、水路の数字を並べていた使い魔が、今は豆一粒と向き合っている。
ネレアはパンをちぎった。
「笑った?」
朔がこちらを見る。
「別に」
「今、笑った」
「食べなよ」
食事の間にも、水路の話は出た。
ダリオが昔の補修について話し、マルタが畑の変化を話す。
朔は手帳を出さなかった。ただ聞いていた。
翌朝。
まだ朝露が畑に残るうちから、朔は管理小屋へ向かった。
ネレアは別の農家を回った。
昼前、二人は水路の中ほどで合流した。
「三年前の補修箇所、違う」
「うん」
「去年も違う」
「こっちも取水の増加だけでは合わない」
「じゃあ下」
ネレアは向きを変えた。
説明はそれで足りた。
午後になって、一つ見つかった。
石の継ぎ目。表から見れば、わずかな隙間しかない。
朔が記録から区間を絞り、ネレアが水を細く流して確かめた。水は継ぎ目へ寄り、その一部が石の向こうへ消えた。
「ここだな」
ダリオが息を吐いた。
連絡を受けて来た職人は、年配の男だった。石を叩き、継ぎ目を見て、周囲の土を確かめる。
「開いてるな。これなら直せる」
ネレアは場所を譲った。
「水、止めた方がいい?」
「全部はいらん。ここだけ外せるか?」
「できる」
「なら頼む」
ネレアが手を上げる。水路の流れが二つに分かれた。
作業する部分だけを避け、細い弧を描いて先へ落ちる。
「便利だな、魔法ってのは」
ダリオが言った。
「こういうのは便利」
「水が消えた場所は分からんのにな」
「万能だったら職人いらないでしょ」
「そりゃ困る」
職人が笑った。
修理が終わるまで、ネレアは水を支えた。
朔は近くの石の上で記録を取っている。
やがて職人が立ち上がった。
「よし。流してくれ」
水を戻す。
継ぎ目を越え、下流へ流れていく。
「これで戻るな」
ダリオが言った。
「戻らない」
朔だった。
ダリオが振り返る。
「何が?」
「水」
朔は水路を見ている。
「ここから抜けてた量じゃ、足りない」
「でも漏れてたぞ」
「漏れてた。でも全部じゃない」
職人も水路をのぞき込んだ。
「どのくらい足りん」
朔が答える。
今度は誰も、なぜ使い魔に聞くのかとは言わなかった。
職人はしばらく考えてから頷いた。
「なら、まだあるな」
「たぶん」
「場所は?」
「まだ分からない」
朔は手帳を開いた。
「だから調べる」
二日目の夕食では、朔の前に最初から小さな器が置かれていた。
「朔」
ダリオが鍋から芋を取りながら言う。
「明日はどこを見るんだ?」
「まだ決めてない」
「決めてないのか」
「今から決める」
「飯食ってからにしろ」
「食べてる」
朔は小さく切られた芋を口へ運んだ。
マルタがネレアの皿にも煮込みを足す。
「ネレアも、もっと食べな」
「もう充分」
「若いんだから食べられる」
「若いかは分からないよ」
女の手が止まった。
「……魔女ってのは、そういうもんなのかい?」
「ネレアは年齢を聞かれると面倒だから煙に巻いてるだけ」
「朔」
「はい」
ダリオが笑う。
「お前、魔女さんの言うこと何でも分かるんだな」
「一緒にいるからね」
「便利だな」
「だいたい通訳できる」
「頼んでない」
「今のは『余計なことを言うな』って意味」
「それは誰でも分かる」
マルタまで笑った。
ダリオがしばらく朔を見てから言った。
「しかし、使い魔ってそんな感じで動くんだっけ?」
朔は芋を置いた。
「俺が優秀なだけ。ついでに可愛い」
「また言ってる」
ネレアは煮込みを食べた。
「否定しないんだな、魔女さん」
「すると長くなるから」
「それは肯定と受け取るよ」
「朔」
「はい」
食事が終わる頃、マルタがふと思い出したように言った。
「そういや、下の方は昔、今みたいな水路じゃなかったよ」
朔が顔を上げた。
「どこ?」
「果樹畑の手前。あそこは土の水路だった。石になったのは……いつだったかねえ」
「俺が子どもの頃にはまだ土だったぞ」
ダリオが言う。
「今の図面だと?」
ネレアが聞いた。
「全部同じ水路になってる」
朔は少し黙った。
それから席を立った。
「記録見る」
「飯食ってからにしろって言っただろ」
「食べた」
「今から行く気か?」
「手帳に写してある」
朔は自分の鞄から小さな記録帳を取り出した。
ダリオが呆れたようにネレアを見る。
「いつの間に」
「朔だから」
その夜、朔は長いこと手帳を開いていた。
ネレアは邪魔をしなかった。
三日目の朝。
朔は昨日までとは違う場所へ向かった。果樹畑の手前。ネレアもついていく。
「ここ?」
「もう少し先」
古い水路図。補修記録。現在の図面。過去の水量。
朔はそれらを何度も見比べていた。
やがて、一箇所で止まった。
「ネレア、ここ」
ネレアはしゃがんだ。水へ指を入れ、昨日と同じように、細い水の筋を作る。
石の底を這わせる。一度。二度。三度。
場所を変える。一本が、わずかに揺れた。
「もう少し広く」
朔が言った。
ネレアは水を増やした。今度は分かった。
一箇所ではない。古い区間の底で、いくつもの小さな流れが石の隙間へ引かれている。
「これか」
後ろからダリオの声がした。
職人も来ていた。水路の底を確かめ、石を見ていく。
「一つ一つは小さいな」
「だから見つからなかった?」
ネレアが聞く。
「それもある。上から見ただけじゃ分からん。昔の造りも関係してるかもしれん」
職人はしばらく周囲を見てから、必要な作業を挙げ始めた。
石を外す場所。埋め直す場所。必要な材料。
ネレアは聞いた。
「水は?」
「しばらく外へ回したい」
「どのくらい?」
職人が示す。
「分かった」
そこからは、職人の仕事だった。
農家から何人かが集まり、石と道具を運ぶ。
ネレアは水を迂回させた。
朔は古い図面と現在の位置を照らし合わせ、必要な場所を伝える。
誰かが土を運び、誰かが石を組む。
昼を過ぎた頃、職人が最後の継ぎ目を確かめた。
「流していいぞ」
ネレアが手を下ろした。
迂回していた水が、本来の水路へ戻る。石の間を抜け、果樹畑を過ぎて、さらに下へ。
皆で水路沿いを歩いた。
昨日まで底の見えていた場所を、水が覆っていく。ダリオがしゃがみ、水へ手を入れた。
「戻ったな」
「今日はね」
ネレアが言う。
「明日も見ろってことか?」
「しばらくは」
ダリオがため息をついた。
朔が横から言う。
「『直した後も確認した方がいい』って」
「そこまで言ってない」
「でもそういう意味だろ?」
「……朔」
「はい」
職人が笑った。
「魔女さんより、そっちの使い魔の方がよく喋るな」
「だから俺が通訳を」
「いらない」
帰る頃には、日が少し西へ傾いていた。今からなら、暗くなる前には街へ戻れる。
ダリオとマルタが、道まで見送りに出てきた。
「世話になったな」
「依頼だから」
「飯と部屋は依頼に入ってないぞ」
「それは、ありがとう」
マルタが笑った。
「今度は仕事じゃなくても来な。畑のものがある時なら、何か食わせてやるから」
朔がすぐ振り返った。
「ご飯も?」
「お前はそこか」
「大事だよ」
「次はもう少し小さく切ってやる」
「それは助かる」
ダリオがネレアを見る。
「ネレアもな。またこっち来たら寄っていきな」
ネレアは少しだけ目を細めた。
「また来る」
「おう。また来いよ」
ネレアは外套を翻して歩き出した。
朔が追ってくる。
西の農地を抜ける道の横で、水路は変わらず流れていた。




