第2話 帰れなかった日
森へ入ってしばらくは、人の姿もあった。
籠を背負った女性の二人組が道の脇で採った草を選り分けていたし、少し先では、薪を束ねた男性とすれ違った。知り合いではないが、それでも会釈してくれる人は多い。ネレアはすれ違う度に軽く会釈を返して、そのまま奥へ進んだ。
今日の依頼は、白環草の採集だった。
名前の通り、葉の付け根に白い輪のような模様がある草だ。傷薬の材料になる。木陰になるような場所に生えてくるが、群生はしない。
「十二本」
肩の上で朔が依頼票を確認する。
「分かってる」
「状態の良いもの」
「分かってる」
「根は残す」
「朔」
「うん」
ネレアはしゃがみ、葉を一枚持ち上げた。朔がのぞき込む。
「これが白環草?」
「違う」
「だって葉の付け根に白い輪がある」
「茎が赤い」
「紛らわしいな」
「それは植物には関係ない」
朔は何も言わず、また依頼票へ視線を戻した。
それでも、採集にはそれほど時間はかからなかった。十二本。
ネレアは少し考えて、状態のいいものをもう一本だけ加えた。
「十三本」
「予備」
「まあ、そうだね」
帰ろうとしたところで、朔がネレアの肩から飛び降りた。
「ネレア」
「なに」
「ちょっと待って」
朔は道端の低い草の上へ降りた。
珍しい植物ではない。細い葉を放射状に広げる草で、この森では何度も見ているが、採集したことはない植物だ。ネレアは採集袋の口を閉じた。
「それがどうしたの」
「生え方」
朔は草の間を歩いた。十数株ほどが、一か所にまとまっている。
「固まってる」
「そうね」
「さっきもあった」
朔は顔を上げた。
「同じ木の周りに」
ネレアも木を見る。太い幹。灰色がかった樹皮。特に珍しい種類ではない。
「偶然じゃない?」
「かもしれない」
朔はすぐに答えた。
「だから、もう一か所見たい」
「帰るよ」
「近くにあれば?」
ネレアは空を見上げた。まだ明るい。
「近くなら」
「よし」
朔が高く飛び上がる。背中の四枚羽が太陽の光を通してきらめいた。
「あまり遠くに行かないで」
「分かってる」
朔が三か所目を見つけた頃には、陽がだいぶ傾いていた。
朔は木の根元にしゃがみ込んでいる。小さな手で落ち葉を持ち上げ、その下をのぞいていた。
「朔」
「あと少し」
「それ、さっきも聞いた」
「今度は本当にあと少し」
「何が分かったの」
「この木の周り、落ち葉の減り方が早い」
ネレアもしゃがんだ。朔が指したところを見る。言われてみれば、周囲より土が見えている。
「虫?」
「たぶん。でもまだ分からない」
「じゃあ今日はそこまで」
朔は名残惜しそうに地面を見た。
「……もう一か所あれば」
「帰る」
「はい」
今度は素直に飛び上がった。ネレアの肩に着地する。
「面白かったのに」
「依頼は終わってる」
「依頼じゃないから面白いんだろ」
それには返事をしなかった。ネレアにも少し分かる。分かるが、朔の新しいものへの興味には際限がないのも知っている。
森は静かになっていた。
朝に見かけた採集者たちは、とっくに帰ったらしい。少し森の奥まで来ていたが、帰り道は分かっていた。夕焼け空が木々の隙間から見えている。何となく静けさが気になって、ネレアは少し早歩きで街の方角へ歩みを進めた。やがて木々の向こうに草地が見えた。その先には街へ続く道もある。
「遅くなったな」
「誰のせい」
「興味深い植生のせい」
溜息を一つこぼして、ネレアは森を出た。――はずだった。
足の裏に、枯れ葉が鳴った。立ち止まる。目の前には木がある。ネレアは振り返った。
草地は、まだ数歩先に見えていた。
「朔」
「うん」
肩から飛び立った朔が、端の木々を超える。その向こうには草地がある。
次の瞬間、朔は森の中にいた。数歩横にずれた場所に。
「……なるほど」
「分かった?」
「出られない」
ネレアはもう一度、森の境へ近づいた。手を伸ばす。何かに触れる感触はない。結界なら、少なくとも知っているものとは違う。小さな風を起こす。風は木々の間を抜け、草地へ流れていった。
「風は通る」
「俺も出たつもりだった」
「そうね」
ネレアは魔除けを取り出した。金属片に刻まれた術式に異常はない。反応もしていない。
「魔除けも変化なし」
朔が境界近くを飛びながら言う。
「新しく張られた術式の痕跡も、今のところ見えない」
「まだ明るい」
「暗くなれば、もう少し見えるかもしれない」
「そうね」
ネレアは草地を見た。今度は目を閉じて、魔力を前方に広げていく。薄く広げた魔力は、そのまま木々を透過して広がり、その先で歪むのを知覚する。やはり森が途切れる草地のあたりだ。
無理に越えようと思えば、試せることはいくつかある。けれど、今それを試す理由はない。森の中に危険はない。袋の中の白環草を確かめたが、傷んではいない。水も食料もある。
日が落ちて、古い痕跡も確かめよう。
「このまま森にとどまる」
朔が戻ってきた。
「いいの?」
「分からないものを、暗くなる前に無理に壊すのは嫌」
「賛成」
「それに」
ネレアは朔を見る。
「遅くなったのは朔のせい」
「まだ言うの」
「野営場所、探して」
「はいはい」
朔は森の奥へ飛んでいった。
朔が見つけてきたのは、少しだけ戻ったところにある大きな古木だった。太い枝が低い位置から分かれ、その上に人ひとりが横になれる程度の場所がある。
ネレアは枝へ上がり、落ち葉と湿気を風と火の魔術で払った。荷物から防水布を取り出し、簡単な防護術も置く。強いものを防ぐためではない。小さな獣を遠ざけ、何かが近づけば分かる程度で十分だった。鞄から小さめのブランケットも取り出した。
朔が枝の上へ降りた。
「俺は?」
端を折って場所を示すと、ネレアはパンを取り出した。朔は示された場所に座ると羽をしまった。乾燥肉と木の実。水。予定外ではあるが、一晩くらいなら困らない。ランタンを端に置いて、二人で夕食をとると、森の中はゆっくり暗くなっていった。
夜になると、朔はもう一度森の出口を見に行った。
しばらく待っていると細かい雨が降り始め、ネレアは上の枝にも防水布をかけた。防護術を少し強くかけ直したところで、朔が戻ってきた。
「どうだった」
「変わらない。出ようとすると戻される」
朔は枝へ降りた。
「痕跡は?」
「ある。魔力の痕跡。昔ここを通ったものの跡。森なら普通にある程度のもの」
「境界付近に魔術の痕跡は?」
「分からない」
「何もない?」
「少なくとも、俺には原因だと言えるものは見えなかった」
ネレアは頷いた。
それなら、それが今分かることの全部だ。
「記録しておいて」
「もうしたよ。俺は仕事ができるからな」
「誰のせいで泊まってるんだっけ」
「……植生」
ネレアは眼鏡を外して布の上に置いた。
「朔」
「はい」
「寝るよ」
返事の代わりに、朔が傍まで歩いてきた。羽を消して、布の上へ横になる。少ししてから声がした。
「明日、あの草もう一か所だけ見ていかない?」
「帰る」
「うん」
雲の向こうに出ているはずの月は、今は見えない。予定になかった夜だった。
明け方には雨が上がった。ネレアは眼鏡をかけ、朔を起こすと、防水布を乾かし荷物をまとめた。幸いにも、白環草は採ったときの瑞々しさを保っていた。昨夜と同じ道を歩く。森の出口には、昨日と同じ草地が見えている。昨日境になっていたところで、ネレアは一度足を止めた。
昨日と同じように目を閉じ、魔力を前方に延ばしていく。薄く広げた魔力は、そのまま草地の向こうの街道に届き、知覚できないところまで広がっていった。
「大丈夫」
「じゃあ俺が行く」
「なんで?」
「実験台」
「確認って言って」
「やることは同じ」
朔が飛んだ。木々の境を越える。今度は、そのまま草地へ出た。振り返る。
「出た」
ネレアは笑って、歩き出した。足の下から、枯れ葉の感触が消える。濡れた草が足元に触れた。振り返れば、森はいつもと同じようにそこにあった。
「何だったんだろうな」
「分からない」
「調べる?」
「報告が先」
ネレアは街へ続く道へ向き直った。
ギルドで白環草を渡すと、受付の職員は本数を確認した。
「十二本――十三本ありますね」
「予備」
「ありがとうございます。状態も問題ありません」
依頼票に完了の印が入る。それで仕事は終わったが、ネレアはその場を離れなかった。
「報告がある」
職員が顔を上げる。
「昨日、北の森から出られなくなった」
「……出られなく?」
「森の端を越えると森の中へ戻った」
職員の手が止まる。
「どの辺りですか」
ネレアは地図を引き寄せ、場所を示した。
「ここ。夕方。夜は雨が降った。朝には普通に出られた」
「結界ですか?」
「分からない。少なくとも、私たちが確認できた範囲では原因は特定できなかった」
朔が机へ降りた。
「夜にも見た。魔力の痕跡はあったけど、昨日の現象と結びつけられるものは見つけてない」
職員は少し考え、別の用紙を取り出し、ネレアの報告内容のメモを取った。
「ギルド長に報告してから、同じ報告がないか、過去の記録を確認します。しばらく森へ入る人にも注意を出した方がよさそうですね」
「任せる」
ネレアは地図から手を離した。
「必要なら、昨夜の記録は朔が持ってる」
「まとめてある」
朔が得意げに言った。
「頼まれると思ってたからな」
ネレアは横目で見た。
「植生の記録も?」
「もちろん」
「そっちは頼んでいない」
「いつか役に立つかもしれないだろ」
受付の職員が、少しだけ笑った。ネレアは依頼の報酬を受け取った。
昨夜どうして森を出られなかったのかは、まだ分からない。白環草の依頼は終わった。
それとは別に、一つの記録が残った。




