第1話 入江の落とし物
雨が降っていた。
昨日からの雨で、塔の空気も湿気を含んでいる。
海と空の境界を滲ませたまま、少しずつ明るくなっていく。
ネレアは雨音を聞きながら、そんな海を眺めるのが好きだ。
それは早起きする理由には十分だった。
「……ネレア、早い」
目を擦りながら小さい影が飛んでくる。
「おはよう」
「おはよう。今日は行くんだよね」
「行く」
「だと思った。ダージリンでいい?」
「うん、ありがとう」
塔の朝は大抵早い。
細かな雨粒が石畳を濡らし、道の端を細い流れになって走っていた。
ネレアは基本的に傘を差さない。
外套のフードを深めにかぶっているが、顔にかかる雨はほとんど気にしていなかった。
「さっきから、右から当たる」
肩のあたりから声がした。
ネレアは歩いたまま、外套の襟を少し持ち上げる。
「……反対側に来る?」
「そうする」
ネレアの顔の前を黒い影が移動して、反対側に収まった。
フードの縁を引っ張る手は驚くほど小さい。
小さい身体には、細かい雨粒でも負担になるのだろう。
雨の日の移動は、主人の外套のフードの中が彼の定位置だった。
ギルドに着くと、躊躇うことなく両開きの扉の片側を押して中に入ってから、ネレアはフードを下ろした。耳元で息を吐き出す音が聞こえる。
使い魔の朔は、透き通った四枚羽を広げて主人の目の前に浮かび上がった。
銀灰色の瞳が、いつものようにこちらをのぞき込んでくる。
ネレアは、外套の襟に収めていた暗い色の緩く波打つ自分の髪を手櫛で軽く整えてから、朔と目を合わせ、右の手のひらを差し出した。
「使い魔を気にする前に自分を気にかけて」
「朔を乾かしてから外套を乾かすほうが合理的」
「いや、まず自分を、乾かそうよ」
そう言いながらも、朔は自分の体とほとんど変わらない大きさのそこに着地する。
ネレアが左手をかざすと、ふわりと温かい風が朔の体を撫でた。
ほう、と再び小さく一息ついて、もう一度ネレアの前に浮かび上がった。
外套と一緒に、自身の顔も乾かして、ネレアは鞄から丸眼鏡を取り出してかけた。
頬に朱色を取り戻したネレアを見届けてから、朔は今度は彼女の鞄の上に着地した。
その時、受付の女性が気づいて声をかけた。
「ネレアさん。ちょうどよかったです」
「何かある?」
「探し物なんですけど」
「見る」
受付に近づいて、差し出された依頼票を受け取る。
その端へ朔が降りた。自分でも紙面を読むために、文字の横まで歩いていく。
『銀製の小箱。手のひらくらい。昨日の午後に紛失。場所は南東の入江付近』
「報酬、安いな」
朔が言った。
依頼人欄には、大ぶりの太い文字で『エリカ』とサインがあった。依頼票には、この街の地図と、入江までの道が丁寧に描かれている。ここから一時間はかからない。ネレアも知っている場所だった。
「子ども?」
「はい。あちらにいる子です」
学校に行き始めた年頃の少女が、窓際の椅子で外を眺めていた。
母親らしき女性が横で少女の髪を撫でている。
「この雨は夕方からだったっけ?」
「夕方からです」
朔が顔を上げた。
「調べてくる」
「……お願い」
朔は飛び上がると、受付の向こうへ消えていく。受付の女性がその後ろ姿を見送った。
「今ので何を調べるか分かったんですか?」
「分からなければ、聞くから」
ネレアは再び依頼票に目を落とした。
「入江付近の地図はもらえる?」
「はい。お待ちください」
受付の女性がギルドで配布している該当地域の地図を準備している間に、黒い使い魔が消えた方向から戻ってきた。
「昨日の満潮は日暮れ前。雨が強くなったのはその少し後。今朝も一度潮が上がっている」
「……依頼人の話を聞いてから、受けるか決めても構わない?」
「かまいません」
ネレアは依頼票を持って、依頼人の傍に向かう。
母親らしき女性が先に気づいて少女の肩を叩くと、少女が振り返り、目を丸くした。
「魔女さん?」
「ネレアよ」
女の子の視線がネレアの肩に移る。
「妖精?」
「使い魔」
朔が答えた。
「しゃべった!」
女の子は隣の女性の腕にしがみつく。ネレアは向かいの席に座った。
「なくした箱のこと、教えて」
少女は両手で大きさを作った。
「このくらいで、銀色で、蓋にお花の模様がある」
昨日、入江へ持って行った。帰るときにはなくなっていたという。
「中には何が入ってた?」
朔が訊いた。
「何も」
「空?」
「うん」
朔がネレアを見た。ネレアも朔を見る。
「箱を探せばいい?」
少女は大きく頷いた。
入江には母親と二人で行ったらしい。昼を食べ、貝殻を拾い、岩場の近くまで歩いた。雨が降り始めたので急いで帰って、箱がないことに気づいた。母親が一度探しに戻ったが、見つけられなかった。
「最後に箱を見たのは?」
朔が訊いた。少女は少し考えた。
「……たぶん、岩のところ」
「箱を持ってるところを覚えてる?」
「うん」
「そのあとは?」
少女が黙った。朔も黙って待った。
「分かんない」
ネレアは立ち上がった。
「探してくる」
「見つかる?」
「まだ分からない」
少女の顔が曇る。朔が肩の上で小さく笑った。
「見つけるために行くんだよ」
ネレアは何も言わずに、受付に戻った。
「依頼を受ける」
「ありがとうございます」
受付の女性が頭を下げた。
「自分のお小遣いで買ったお気に入りの箱だそうです。お母様が探しても見つからなくて、でも諦められなくて、残りのお小遣いで依頼を出すと決めたそうです」
朔が、もう一度依頼票に目を落とした。
依頼票にギルドの印が押された。
海に近づいても、雨は止まなかった。街の東の港に向かう船が見える。
「雨、強くなってないか」
外套のフードの中で朔が言った。
「少し」
入江には人はいなかった。岩肌は濡れて黒くなっていた。ネレアは足を止めた。
「朔」
「岩場を見てくる。ネレアは道」
「分かった」
言い終えるより先に、朔が飛んだ。
ネレアは少女たちが歩いたという道を観察しながら進む。
雨に洗われ、泥には昨日の足跡など残っていない。
見るものは、道の傾き。草の倒れ方。雨水がどこへ集まるか。
途中で小さな貝殻を見つけた。
少し先にも一つ。
ネレアはしゃがんだ。
雨水はそこから細い溝を通り、岩場へ流れている。
「ネレア」
声に顔を上げる。朔が戻ってきた。
「岩場にはない。少なくとも見える範囲には」
「隙間は?」
「多い。全部見るなら時間がかかる」
「海は?」
「今の潮なら来ない。ただ、今朝は違う」
「流された可能性」
「ある。でも箱の重さ次第だな。銀製なら、そう簡単には動かない」
ネレアは貝殻を見せた。
「これ」
「拾ってたって言ってたもんな」
「道に落ちてる」
「袋でも破れた?」
ネレアは首を振った。
「分からない」
「雨が降って、急いで帰った」
「うん」
「そのとき落としたなら、箱もこっちにあるかもしれない」
「でも母親が一度探したんだよな」
「そう」
朔はしばらく考えた。
「範囲を分けよう。俺は水の流れを見る」
「私は岩場」
「逆じゃないか?」
「どうして」
「隙間を見るなら俺だろ」
「まだ入らなくていい」
「……なるほど」
朔が飛んでいった。
ネレアは岩場へ降りた。波の音が近くなる。
少女が遊んでいたという辺りを歩く。
平らな岩がいくつかある。その一つに、貝殻が三つ並んでいた。
ネレアは足を止めた。
誰かが意図して並べなければ、こうはならない。
「朔」
少し離れたところから返事がした。
「何かあった?」
「こっち」
朔が飛んでくる。
ネレアは貝殻を指した。
「ここにいた」
「了解」
朔が岩へ降りた。
小さな身体で歩きながら、貝殻と周囲を見ていく。
「箱を置いた可能性は?」
「ある」
「落としたんじゃなく?」
ネレアは依頼人の話を思い返した。
「なくした、としか言ってない」
ここで貝殻を並べていたのなら、両手を使う。
「箱を置く。雨が降る。急いで帰る」
「箱を忘れる」
朔が岩の端へ行った。
「そのあと、雨」
ネレアも見る。
岩はわずかに海側へ傾いている。表面を流れた水は、一箇所に集まり、その先から下へ落ちていた。
「こっちだな」
朔が飛び降りる。
ネレアも海側の岩に移った。
下には狭い亀裂があるが、暗くて奥は見えない。
ネレアは手を差し入れてみたが、途中でつかえる。
「俺の出番だな」
朔が隣に降りた。妙に得意げだった。
「大丈夫?」
「任せろ」
朔は横向きになって亀裂へ入っていった。
黒い靴が見えなくなる。しばらくして声がした。
「ある」
「箱?」
「銀色。でも、……かなり奥だな」
ごそごそと音がする。
「取れそう?」
「誰に聞いてる」
「朔」
「そういう意味じゃない」
しばらく待つ。
雨が岩を叩いていた。
やがて隙間から銀色のものが押し出された。小さな箱だった。
ネレアが引っ張り出すと、そのあとから朔が這い出してきた。髪も服もずぶ濡れだった。
ネレアは朔に手を差し出すと、もう片方の手で魔力を使った。小さな熱が朔を包む。
「あったかい」
「じっとして」
「箱が先じゃなくていいのか」
「箱は逃げない」
「俺も逃げないけど」
ネレアは朔を外套のフードの中に戻してから、銀の箱を拾い上げた。
蓋の泥をぬぐうと、刻まれた小さな花が現れた。蓋を開けて中を確認する。
「空だな」
耳元から朔がのぞき込む。
「そう言ってた」
「これだけ探して、中身は本当に何もなしか」
「箱を探す依頼だよ」
「分かってる。本当に箱そのものなんだな」
ネレアは箱を布で包んだ。
「帰ろう」
「報告は?」
「置き忘れ。雨で流されて岩の隙間へ」
「異常なし」
「うん」
黒い頭がまたフードの中へ消えた。ネレアは並んでいた三枚の貝殻も布に入れた。
ギルドへ戻るころには、夕方になっていた。
朝と同じように、朔と外套と自分自身を乾かす。
少女はずっと待っていたらしく、こちらに駆け寄ってきた。
ネレアが包みを取り出し開いた瞬間、少女の顔が明るくなった。
「あった!」
「岩の隙間に」
「海に落ちてなかった?」
「落ちてない」
少女は箱を胸元で大事そうに抱えた。
「ありがとう、魔女さん」
「ネレア」
「ありがとう、ネレア」
今度は朔を見る。
「使い魔さんも」
「朔」
「ありがとう、朔」
「どういたしまして」
朔は少し得意そうだった。
ネレアは一緒に持ち帰った貝殻も渡すと、後ろで母親が頭を下げた。
ネレアは軽く会釈を返し、受付へ向かった。
報告書を書く。紛失地点。発見場所。原因。回収時の状態。
向かいでは朔が依頼票を読み返していた。
「報告はすぐ終わるな」
「朔」
「ん?」
「今日の潮の記録」
言う前から、朔は紙の端へ移動していた。朔が数値を読み上げる。
ネレアが書く。
それを受付の女性に提出して終わりだ。
「相変わらず、速いですね」
「そう?」
「お疲れ様でした。ネレアさんにお願いして良かったです」
ネレアは少しだけ笑みを浮かべると、受付から報酬を受け取った。
外ではまだ雨が降っている。
「夕飯どうする?」
朔が訊いた。
「食べて帰る」
「報酬、ほとんどなくなるんじゃない?」
「いいよ」
ネレアは外套のフードを羽織った。手を差し出すと、朔は当然のようにその上へ乗ってくる。
ネレアは朔をフードの中へ移した。
「今日はもう濡れたくない」
「知ってる」
扉を開ける。雨の匂いと、海からの冷たい風が入ってきた。
もうしばらく、雨はやまないのだろう。
ネレアは外へ出た。
今日の仕事は、銀の箱を一つ見つけただけだった。
明日はまだ決めていない。それで良かった。




