第23話 受け継ぐもの
目を覚ましたのは、以前使っていた自分の部屋だった。
ただし、ベッドが大きい。
昨夜は人間の大きさで横になったはずなのに、今は枕だけでも朔の身体よりずっと大きかった。
起き上がる。身体が重い。
痛いところはない。手足も動く。契約も繋がっている。ネレアの魔力が流れてくる感覚も、昨日までと変わらない。それでも、いつもより動くのに時間がかかった。
部屋へ来たネレアは、ベッドの上にいる朔を見ると手を差し出した。
朔はまた、小さくなっていた。
「疲れてる?」
「少し」
ネレアの手に乗る。昨日、人間の大きさになったことと関係があるのかもしれない。
夜に見えるものが増えたこと。人間の身体で羽を使ったこと。その羽に、小さいときより多くの魔力が必要だったこと。
他にも、まだ気づいていない原因があるかもしれない。
一度では分からない。
ネレアはそれも記録に加えた。
その日は、羽を使わないことになった。
朝食のあと、朔は昨日の記録を見ようとした。
人間の大きさだった昨夜、自分で書き足したものがある。
問題は、手帳もそのときのままだったことだ。
机に置かれた手帳は、小さくなった朔には大きい。
表紙を開くことはできる。一枚ずつなら、紙もめくれる。できないわけではない。ただ、ひどく使いにくい。
「何してるの?」
声がして、朔は振り返った。
タリアが机を覗き込んでいる。
「昨日の記録」
「大きいね」
「俺が小さいんだよ」
タリアは手帳を持ち上げた。
「小さくすればいいじゃん」
「できるの?」
「できるよ」
あまりにも普通に言われた。
タリアが手帳を机へ置く。
指先が触れると、魔力が流れた。
今の朔には見える。
手帳を包むように広がった魔力が、その形に沿って動く。
次の瞬間、手帳が縮んだ。
朔が両手で扱える大きさまで。
表紙も、紙も、留め具も、そのままだった。
「……便利だな」
「でしょ」
朔は手帳を開いた。
文字も小さくなっている。それでも今の視界には、こちらの方が読みやすい。
筆記具も同じように小さくなった。
物の大きさを変える魔術は、見た目ほど単純ではないらしい。
ただ縮めればいいわけではない。構造を保つ。道具ならその働きも残す。複雑なものになるほど難しくなる。魔術具なら中に組まれた術式まで壊さず変えなければならない。
「これ、普通にできる魔術なの?」
「普通には難しいよ。私は得意だけど」
「自慢?」
「事実」
タリアは笑った。
魔術具もできるらしい。
少し面倒だけどと、タリアは言った。
朔は小さくなった筆記具を動かしてみた。
問題なく書ける。
小型になってから、身体そのものより、周囲の物の方が不便だった。
階段も、扉も、器も、本も。
身体に合わせたものを一つずつ用意するしかないと思っていた。
少なくとも、持ち歩く道具については別の方法がある。
「そうだ。朔」
タリアが持っていた包みを机に置いた。
「できたよ」
中から出てきたのは、黒い服だった。
今の朔に合わせて作られている。
前に測られた寸法で作られている。しかもデザイン違いで3着。仕事が速い。
朔はそのうちの一着に着替えた。
黒を基調にした、装飾の少ない服だった。
袖を通し、腕を動かす。
「どう?」
「いい」
「格好いい?」
「俺が着てるからな」
「服の話」
タリアが笑った。
朔は机の上を少し歩いた。
見た目だけではない。探索に使うことを考えて作られている。
布は薄いが丈夫で、身体の動きを妨げない。
「似合ってる」
ネレアが言った。
「そうでしょ」
答えてから、朔は少し機嫌がよくなった。
タリアも満足そうに眺めていた。
その視線が、途中で止まる。
「でもなあ」
服の袖をつまむ。
「また元のサイズに戻るなら困るね」
「契約時の服みたいには多分いかない」
ネレアが言った。
タリアは、机の上にある小さな手帳を見ていた。
さっきまで普通の大きさだったものだ。
「大きくすることもできる?」
「できるよ」
「じゃあ――」
「朔を基準にしたら?」
ネレアが顔を上げる。
タリアの手が止まった。
朔もネレアを見る。
「基準?」
「朔が着るんでしょ」
ネレアはそれだけ言った。
意味は分かった。
タリアの魔術では、タリア自身が物をどこまで小さくするか、あるいは大きくするかを決めている。
それを、朔の身体に任せる。
小さいときは小さく。
人間の大きさなら、それに合わせる。
服の形は変えない。
変わるのは、朔に対する大きさだけ。
「……それ、いいじゃん」
タリアが服を見た。
さっきまでの軽い表情が少し変わる。
朔が着ている服の裾に、指先で触れる。
タリアの魔力が、小さな服全体を通り抜ける。
途中で止まり、戻る。
朔には何を変えているのかまでは分からなかった。
ただ手帳を小さくしたときより、ずっと細かく魔力を動かしている。
タリアは何度か術を組み直した。
大きさを変えること自体は、もともとできる。
新しいのは、その判断をタリアがしないことだった。
服が、着ている朔を見て決める。
しばらくして、タリアが手を離した。
「たぶん、できた」
「たぶん?」
「大きくなったら分かる」
それはそうだった。
タリアは笑った。
今のところ、朔が人間の大きさになったのは昨夜の一度だけだ。
次があるのか。あるなら、いつなのか。
まだ分からない。
朔は、まだ袖を通してない2着を見て言った。
「全部頼む」
「任せなさい」
流石、魔女だ。
「これも、俺に合わせられる?」
「できると思うけど、物によるよ」
タリアも手帳を見る。
道具は、それぞれ何に合わせれば使いやすいのかが違う。
手帳なら朔の手でいいかもしれない。
鞄なら身体。
筆記具なら指。
もっと複雑な道具なら、単純に同じ割合で変えればいいとは限らない。
「一個ずつ考える必要があるな」
「そういうこと」
「面白い」
「でしょ」
朔はもう、次に試すものを考えていた。
午後、クラウディアがネレアを呼び、朔もついていった。
今日は飛ばず、ネレアの肩に乗る。
居間にはタリアもいた。
机の上に、小さな箱が一つ置かれている。
ネレアはそれを見ると、少しだけ足を止めた。
朔には理由が分からなかった。
クラウディアがネレアを見た。
「今が良いと思って」
ネレアはすぐには答えなかった。
「独り立ち?」
「うん」
それだけで話が通じている。
朔だけが少し遅れた。
ネレアはすでに魔女だ。
クラウディアと暮らし、仕事を任され、各地へ出ている。
ただ、これまではクラウディアの弟子だった。
一人で仕事へ行っても、その仕事を任せると決めたのはクラウディアだった。
判断に迷えば持ち帰ることができた。
その後ろには、師匠がいた。
独り立ちは、その位置から出ることだった。
自分で仕事を選び、引き受ける。
必要なら断る。
途中で前提が変われば、自分で判断を変える。
その結果も、自分のものになる。
クラウディアには、もうその未来が見えていたらしい。
「おめでとう」
タリアが言った。
ネレアが少し笑った。
「ありがとう」
クラウディアが箱をネレアの前へ置いた。
蓋を開ける。
中にはペンダントが入っていた。
細い銀の鎖。
中央に、小さな結晶がある。
透明に近い灰紫だった。
光が入ると、奥にだけ淡い紫が浮かぶ。
朔には、それが何なのか分かった。
契約する前なら、ただの石に見えただろう。
今は、そこにある魔力を感じる。
「クラウディアの?」
「そう」
クラウディアが結晶を指先で持ち上げた。
独り立ちする弟子へ、師匠が自分の魔力を結晶にして渡す。
それは装飾品であると同時に、魔女の身分を示すものでもあった。
誰に学び、誰が一人で仕事を任せられると認めたのか。
魔力を見分けられる者なら、結晶から師匠を知ることができる。
それだけではない。
銀の鎖にも意味があった。
細かな環が続く途中に、違う組み方が混じっている。
「これは?」
朔が聞いた。
「オルテンシアから受け継いだ形」
クラウディアが答えた。
オルテンシア。
クラウディアの師匠だった魔女。
鎖も既製のものではなかった。
弟子を送り出す師匠が、自分で作る。
受け継いだ形をそのまま並べるわけでもない。
どの形を残し、どう繋いで次へ渡すか。
それも含めて、一つずつ作られる。
「これ、全部クラウディアが?」
ネレアが聞いた。
「うん」
「鎖も?」
「鎖も」
ネレアはしばらく手の中のペンダントを見ていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
横にいたタリアが、自分の襟元へ手を入れた。
細い銀の鎖が出てくる。
その先で揺れた結晶は、ネレアのものと同じ灰紫だった。
鎖の途中にも、同じ形がある。
「お揃いだね」
ネレアが二つを見比べる。
「少し違う」
「それはそう」
タリアが笑った。
同じクラウディアが作ったものでも、まったく同じではない。
タリアのために作られたものと、ネレアのために作られたものだった。
クラウディアが手を出した。
ネレアはペンダントを渡し、髪を片側へ寄せる。
銀の鎖が首に回る。
暗い髪の下から、細い銀が覗いた。
胸元に、灰紫の結晶が落ち着く。
「似合う」
タリアが言った。
「うん」
ネレアが結晶に触れた。
森で初めて会ったときから、ネレアは魔女だった。
朔が知らなかっただけで、あのときも仕事の途中だった。
その後も、ネレアが魔女ではなかった日はない。
何か新しい力を得たわけでもない。
昨日までできなかった魔術が、今日から使えるわけでもない。
ただ、これから引き受ける仕事には、クラウディアではなくネレアの名前が置かれる。
朔はその肩から、灰紫の結晶を見た。
小さな石が、銀の鎖の先で揺れていた。




