第22話 月のない夜
「分からない」
ネレアはそう言ったまま、朔を見ていた。
ネレアの視線が、今はほとんど同じ高さにある。
腕も脚も、元の長さに戻っている。動かしてみても違和感はない。服まで元の大きさだった。
「本当に戻ったみたいだな」
「……うん」
ネレアが近づいた。
手が伸びてくる。
朔は動かなかった。
ネレアの指が朔の手首を掴む。そのまま手を取り、指の動きを確認するうちに指が絡んだ。
指を曲げるように言われて、その通りにする。
「動く?」
「普通に」
「感覚は?」
「……ちゃんと感じる」
ネレアは朔の手を持ったまま、しばらく見ていた。
小さくなってから、何度もネレアの手の上に登った。
今は、その華奢な手に自分の指を絡めている。
そのことに気づいてから、朔は少しだけ居心地が悪くなった。
「ネレア」
「なに?」
「もう大丈夫だと思う」
「あ」
ネレアが手を離した。
「ごめん」
「別にいいけど」
離れた手を見る。別にいい。本当に。
「クラウディア呼ぶ?」
「呼ぼう」
話はすぐに大きくなった。
クラウディアは朔を見るなり足を止めた。
その後ろから来たタリアも止まった。
「……朔?」
「そう」
タリアが上から下まで見る。
「戻ってる」
「うん」
「昨日あんなに小さかったのに」
「俺も驚いてる」
タリアは朔の周りを一周した。
「羽は?」
「そこ?」
「だって今日生えたばっかりでしょ」
「生えてない。作ってる」
「どっちでもいい」
「よくない」
クラウディアは二人を放って、ネレアを見た。
「契約は?」
「繋がってる」
ネレアが答える。
昨日から知るようになった感覚は今もある。
自分の中へ流れてくるネレアの魔力。人間の身体に戻っても、それは消えていない。
「魔力も使える」
「なら、契約前の状態に戻ったわけではないね」
クラウディアが言った。
ネレアの表情が少し変わった。ほんのわずかだった。
「身体が戻ったこと自体は良かったけど、経過観察は続けよう」
「うん」
朔は自分の腕を見る。
元に戻った。
けれど、何をもって元と呼ぶのかは、もう簡単ではないらしい。
「他に変わったところは?」
クラウディアに聞かれて、朔は考えた。
身体。魔力。契約。それから。
「夜の見え方を確認したい」
昨日、塔で初めて魔力を知った。
今は夜だ。
しかも、身体まで変わっている。
「庭に出よう」
クラウディアが言った。
外へ出ると、庭は暗かった。
空は晴れているし、星は見える。
けれど、月明かりがない。
木々の輪郭は夜の中へ沈み、昼には見慣れた庭が少しだけ広く感じられた。
朔は立ち止まった。
「……見える」
ネレアも隣で足を止めた。
「昨日より?」
「多い」
目を凝らす必要はなかった。
庭のあちこちに、淡い痕跡が残っている。
細いもの。途切れたもの。何度も重なったもの。
家の壁にもある。地面にも。木のそばにも。
昨日、塔で見たものほど古くも複雑でもない。
その分、形が分かりやすかった。
「ネレアは?」
「見えてる」
相変わらず、意思疎通が早い。
朔が指を向ける前に、ネレアの視線が同じ場所へ動いていた。
朔は少し笑った。
「便利だな、これ」
「うん」
二人で近づく。
地面の上を、細い痕跡が弧を描いていた。
途中でいくつかに分かれている。
「クラウディア」
「なに?」
「ここで何か使った?」
クラウディアが近づいてきた。
もちろん、彼女には見えていない。
朔が位置と形を説明する。
「ああ。防護の練習に使ってた場所ね」
「いつ?」
「ずいぶん前。ネレアが来るより前かな」
朔はもう一度見る。
「まだ残ってる」
「どんなふうに?」
説明する。
クラウディアは少し考えてから、今度は別の場所を指した。
「じゃあ、あの木の近くは?」
朔とネレアが同時にそちらを見る。
「あっちの方が多い」
「重なってるね」
「うん。何回も同じところに流してる」
クラウディアが笑った。
「そこはよく使ったから」
朔は近づいた。
痕跡を辿る。一つ一つは似ている。けれど、完全には同じではない。
古いものほど薄い。
新しいものは輪郭が残っている。
「これ、いつ頃か比較できるかもしれない」
「正確には無理じゃない?」
ネレアが言う。
「正確には無理。でも新旧は分けられそう」
「それなら使えるね」
「記録したい」
「明日にしよう」
「まだそんなに遅くない」
「今日いろいろ試したでしょ」
「身体戻ったし」
「戻ったかどうかは、まだ分からないよ」
朔は黙った。
横でタリアが笑う。
「朔、元気になった途端これだね」
「元気だったよ。小さかっただけで」
「はいはい」
庭をもう少し歩く。
同じ高さでネレアが隣にいる。
昨日までは、ネレアの肩に乗るか、手の上に乗るか、見上げるかだった。
半年近くは、これが普通だったはずなのに。
たった一日で、少し懐かしく感じる。
朔が足を止める。
ネレアも止まった。
「ここ」
「薄いね」
「かなり古そう」
「でも残ってる」
朔が先へ進む。
ネレアがついてくる。
次に見る場所を言わなくても、視線が同じ方向へ向く。
見えているものが同じだからか。
それだけではない気もした。
考える前に、タリアの声が後ろから飛んできた。
「で、羽は?」
朔は振り返った。
「忘れてなかったのか」
「忘れるわけないでしょ」
朔も気になっていた。
小さい身体で作ったものだ。
身体が人間の大きさになっても、同じ構造が使えるのか。
「試していい?」
朔はネレアを見る。
「うん。魔力の減り方を見る」
「分かった」
庭の中央へ移動する。
小さい身体で何度も試した。制御の仕方は分かっている。必要なのは、身体を空中で支える力。
背後に感覚が生まれる。四つ。小さいときと同じだ。
透明な四枚の羽が、朔の背後に広がった。
タリアが黙った。
朔は振り返る。
「なに?」
「……でかい」
「俺が大きいからな」
「いや、分かるけど」
ネレアも見上げている。
「同じ形」
「……変?」
クラウディアが少し離れたところで笑っている。
朔は羽を動かした。
制御は同じ。ただ、足が地面から離れない。
「足りないな」
魔力を増やす。
身体が浮いた。
「お」
さらに上がる。
小さいときとは違う。
身体の重さがある。
同じ動きをさせるために必要な魔力が、明らかに多い。
それでも、動かし方そのものは変わらない。
朔は前へ出た。
庭の上を飛ぶ。曲がる。止まる。高度を上げる。
月明かりのない庭が下へ遠ざかる。
星の下で、透明な羽が動く。
「朔、あんまり上まで行かないで」
下からネレアの声がした。
「分かってる」
一周して戻る。
着地する頃には、必要な出力もだいたい分かっていた。
羽を消す。
「飛べる」
「飛べたね」
ネレアが近づいてくる。
「魔力は?」
「小さいときより使ってる」
「どれくらい?」
朔は自分の中を流れる感覚を確認した。
それから、ネレアを見る。
ネレアの魔力は多い。
昨日初めて見たときにも思った。
今使った量と比べても、まだ十分に余裕がある。
「このくらいなら問題ないと思う」
ネレアは答えなかった。
朔は続ける。
「長時間飛び続けるのは別として、移動には使える。消費量もネレアの全体から見れば――」
「それを決めるのは朔じゃないよ」
朔は口を閉じた。
言われた意味は、すぐに分かった。
似たことがあった。
ネレアがどう判断するか。
その予想ができることと、自分が決めていいことは同じではない。
今使っているのは、自分の魔力でもない。
「……そうだった」
ネレアが朔を見る。
怒ってはいなかった。
「飛べるかどうかとか、どれくらい使うかとか、教えてくれるのはいいよ」
「うん」
「でも、どこまで使っていいかは私が決める」
「分かった」
朔は少し考えた。
「じゃあ、どこまでならいい?」
ネレアも少し考える。
「その身体のときは、必要なときだけ」
「飛ぶ必要があるとき?」
「うん」
「小さいときは?」
「今のところ、あれくらいなら大丈夫」
「分かった」
それなら条件は明確だ。
朔は頷いた。
「記録しとく」
「それは明日」
「はい」
タリアが少し離れたところからこちらを見ていた。
朔が見ると、目が合う。
「なに?」
「別に」
「なんだよ」
「ちゃんと使い魔してるなと思って」
「どういう意味?」
「そのまま」
よく分からない。
クラウディアは何も言わなかった。
ただ、ネレアに明日の確認項目をいくつか伝えた。
夜の知覚。身体の変化。契約。魔力の消費。
どれも、まだ一度では分からない。
部屋へ戻る頃には、かなり遅くなっていた。
朔はネレアの部屋に入ってから、ベッド脇の籠を見た。
昨日、自分が寝た場所だ。
「……無理だな」
ネレアも籠を見る。
「無理だね」
「昨日はちょうどよかったんだけど」
「今日は床?」
「ひどくない?」
「じゃあベッド」
「そのサイズじゃ無理」
昨日とは逆だった。
昨日は、この部屋の何もかもが大きかった。
朔は少し笑った。
「自分の部屋に戻る」
「そうだね」
ネレアが朔を見る。
また同じ高さから目が合う。
それだけで、戻ったかいがある気もした。




