第24話 ここで暮らす
春になった。
荷物をまとめてみると、思っていたより多かった。
この世界に来たとき、朔が持っていたもの。着ていた服といくつかの道具。今では残っていないものもある。
代わりに増えたもの。書きつけた手帳。こちらの世界で使うようになった道具。タリアが作った黒い服。一つずつ鞄に収めながら、朔は自分の使っていた部屋を見回した。
ここで暮らしたのは半年にも満たない。
仕事部屋に入る。ネレアが本を広げていた机。朔が座っていた隣の椅子。クラウディアの机や道具。最初にこの部屋へ入ったときとは、ずいぶん違って見えた。
朔は一度だけ振り返って、それからネレアのところへ飛んだ。
玄関では、クラウディアが待っていた。
その手に、小さな銀の鍵がある。
「これを」
ネレアが受け取る。
古い鍵だった。
表面には細い術式が刻まれている。
ただ扉を開けるためのものではないらしい。
鍵の内側を、わずかな魔力が流れていた。
「塔の鍵?」
「ええ。今日からは、あなたが管理して」
ネレアは鍵をしばらく見てから、しまった。
タリアが横から覗き込む。
「遊びに行っていい?」
「いいよ」
「じゃあ必ず行く」
決定らしい。
朔は笑った。
転移門を越えた先、これから暮らす街は、クラウディアの家がある場所よりずっと大きかった。
人の数も、道の数も多い。
港へ続く通りには荷車が行き交い、その向こうには海が見えた。
朔は飛びながら辺りを見る。
前に来たときは、ゆっくり見る余裕はなかった。
けれど、これから何度も歩くことになるのだろう。
ネレアが最初に向かったのは、塔ではなかった。
「先にギルド?」
「そう」
それもそうか、と朔は後を追った。
ギルドの建物は大きく、中は人が多かった。
入口から見えるだけでも、受付は一つではない。
荷物を抱えた人間が並んでいる場所。
地図を広げて話している者たち。
武器を持った数人組が、別の受付で何かを確認している。
奥からは食事の匂いもした。
壁際には椅子が並び、依頼人らしい人間が順番を待っている。
朔の目が止まったのは、二階の階段の先だった。
紙の束と、綴じられた記録。地図らしいもの。
仕事を仲介するだけの場所ではないらしい。
「朔」
呼ばれて、そちらを見る。
ネレアはもう受付の前にいた。
朔は棚から目を離して、その肩へ降りた。
受付にいた女性が、ネレアの書類を確認している。
その視線が、ネレアの胸元で一度止まった。
クラウディアから受け取った魔力結晶が、そこにある。
「魔女の方ですね」
「はい」
女性の表情が少し明るくなった。
この辺りでも、魔術に関わる依頼を受けられる人間は多くないらしい。
調査や採集だけでなく、必要ならそうした案件も紹介できると言われて、ネレアは、
「内容を見てから」
とだけ答えた。
女性は頷いて、書類へ戻る。
やがて、手が止まった。
「……あの塔に住むんですか?」
「今日から」
女性は一度、ネレアを見た。
それからもう一度、書類を見る。
海側にある古い塔。
長いあいだ、誰も住んでいなかったらしい。
街では、それなりに知られているようだった。
登録が終わるころ、女性の視線が朔へ向いた。
「使い魔ですか?」
「そう」
「人型は珍しいですね」
珍しいのかやはり。
朔は少しだけ姿勢を正した。
でも、それだけだった。
もっと何か言われてもいいと思う。
ネレアがこちらを見た。
何も言わなかったが、朔は姿勢を戻した。
ギルドを出る前に、朔はもう一度、奥の棚を見た。
あれだけの記録があるなら、この土地について分かることも多いはずだ。
古い仕事。地図。魔術に関する記録。
「見たい」
「今日は引っ越し」
「明日は?」
「掃除」
「その次」
ネレアは少し考えた。
「片づいたら」
許可は出た。
朔は覚えておくことにした。
街を抜けると、人通りが減った。
潮の匂いがする。前と同じ。
塔は、その先にあった。
敷地へ近づいたところで、足を止める。
「ネレア」
「うん」
地面に沿って、魔力の痕跡が走っている。
古い。
塔の周囲には、以前来たときにも大量の痕跡が残っていた。
ただ、今は分かる。
全部が過去のものではない。
細い流れが、まだ残っている。
「これ、動いてる」
「境界の上に防護が重なってる」
ネレアも足を止めていた。
塔だけではない。
周囲の土地ごと、一つの管理範囲になっているらしい。
「入っていい?」
「普通に入るだけなら」
朔は境界を越えた。
何かに弾かれることはない。
ただ、通過した瞬間、ごく小さく魔力が動いた。
塔の方へ流れていく。
「今の」
「誰か入ったら分かるようになってる」
「止めないんだ」
「全部止めたら、人が来られないから」
それもそうだ。
防護が反応するのは、別の条件なのだろう。
危険なものか。害を与えるものか。
朔は周囲を見る。
長く人が住んでいなかったわりに、塔は荒れていない。
古い魔術の中には、建物を守るためのものも残っているのかもしれない。
けれど、以前見た膨大な痕跡のほとんどは、今も眠ったままだ。
動いているものは、ごく一部だった。
入口まで来ると、ネレアが銀の鍵を取り出した。
鍵穴へ差し込み、少し待つ。
刻まれた術式へ魔力が流れ、扉の側からかすかに反応が返った。
それを確認してから、ネレアが鍵を回す。
古い扉が開いた。
中は静かだった。
埃の匂いがする。
家具には薄く埃が積もっている。
長いあいだ使われていなかったことは分かる。
窓も、床も、壁も古い。
古いが、朽ちてはいない。
朔は飛びながら、塔の中を見回した。
至るところに魔力の痕跡がある。
重なりすぎて、まだ何が何なのかは分からない。
塔は完全に眠っているわけではない。
けれど、起きているとも言い難かった。
ネレアは荷物を置くと、部屋の奥へ歩いた。
窓を開けると風が入った。
閉じていた空気が動き、カーテンが揺れる。
その向こうに海が見えた。
朔はネレアの少し後ろまで飛んでいく。
ネレアはしばらく外を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
朔も海を見る。
クラウディアの家から来る途中にも見えていた海だった。
けれど、ここから見る海は、少し違って見えた。
「今日はゆっくりしよう」
ネレアが言った。
「掃除は?」
「明日」
「片づけは?」
「それも明日」
朔は部屋を見回した。
やることはいくらでもありそうだった。
掃除。荷ほどき。塔の中の確認。
ギルドの記録も見たい。
この街のことも、まだほとんど知らない。
でも今日はここまでらしい。
朔は鞄を床へ下ろした。
開いた窓から、また海の風が入ってきた。




