第19話 形がかわっても
塔の窓から見える空が、少しずつ暗くなっていた。
使い魔という言葉が出てから、三人は同じ机で調べ続けていた。
通常の使い魔契約そのものは、それほど複雑な術式ではない。
問題は、朔だった。
普通の使い魔には、最初から魔力がある。
朔にはない。
ネレアは通常の契約術式と、クラウディアの師匠が残した境界の記録を並べていた。
紙には何度も書き直した跡がある。
しばらく二つを見比べてから、ネレアが契約術式の一部を指でなぞった。
「ここ」
朔が覗き込む。
「契約で繋ぐだけじゃ足りないと思う」
「何が?」
「朔が、どちら側にいるのか」
ネレアは別の紙を引き寄せた。
こちら側と、向こう側。
その間に線を引く。
「契約で魔力を通しながら、朔が今どちら側にいるのかを読む」
「それで?」
「ここにいる状態を、維持できるようにする」
クラウディアも術式を見る。
「使い魔契約を、そのための繋がりとして使うのね」
「うん」
できる、とは誰も言わなかった。
それでも、試せるところまで来た。
クラウディアが紙を置く。
「契約について、先に知っておいた方がいいことがある」
「うん」
クラウディアは続けた。
使い魔契約は解除できる。
契約は、朔をこの世界へ閉じ込めるためのものではない。
元の世界へ帰る道そのものを閉じるわけでもない。
「じゃあ、帰れる可能性は残る?」
「残る」
ネレアが答えた。
朔は頷いた。
「あと、契約したら魔術を使えるようになる」
「俺が?」
「私の魔力だけど」
ネレアが言う。
「好きに使っていいの?」
「だめ」
即答だった。
朔は笑った。
「だよね」
使える魔力の範囲は、契約する魔女が決める。
「生活魔術くらいなら使えるようにするよ」
「生活魔術」
朔は少し考えた。
「じゃあ、お湯も自分で沸かせる?」
「沸かせる」
「紅茶も淹れられるな」
ネレアの目が朔へ向いた。
「そうだね」
それだけ言って、また紙へ目を戻す。
朔も机を見た。
まだ成功すると決まったわけではない。
それでも、湯を沸かしている自分は簡単に想像できた。
契約した後、この世界で暮らしている自分を。
クラウディアが朔を見る。
正確には、その服を見ていた。
「念のため、それも替えましょう」
朔も自分の服を見る。
この世界へ来たときから着ていた、黒い探索服。
スコープは消えた。
ほかの道具も消えている。
この服だけは大丈夫だと考える理由はなかった。
「分かった」
クラウディアが街へ降りている間、ネレアは契約魔術の確認を進めた。
戻ってきた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
渡された服を広げる。
黒だった。
装飾は少ない。
この世界で作られた動きやすそうな上着と、同じく黒いパンツ。
「……黒」
「嫌だった?」
「いや」
朔は服を見直した。
「分かってるなと思って」
「半年近く見てるからね」
そう言われて納得した。
着替えて戻ると、ネレアがこちらを見る。
一度見て、それからもう一度見た。
「どう?」
朔が聞く。
「似合ってる」
「そうでしょ」
満足して椅子に座る。
クラウディアが朔に向き直って最後の確認をした。
人間との使い魔契約を三人とも知らない。
消失が本当に止まるのかも、まだ分からない。
何が起きるか、すべてを予測することはできない。
「それでも結ぶ?」
クラウディアが聞いた。
「うん」
朔は答えた。もう、気持ちは固まっていた。
クラウディアはネレアを見る。
「上、使う」
ネレアは、それだけ言って上階に歩き出した。
クラウディアは立ち上がらなかった。
「私はここにいる。何かあったら呼んで」
「うん」
朔はゆっくり、ネレアの後を追った。
塔の五階には、古い観測室があった。
今は窓の向こうに、暗い海が見える。
ネレアはそのまま、テラスへ続く扉を開けた。
冷たい風が、一気に入り込んでくる。
外へ出ると、空が広かった。
冬の夜は澄んでいる。星が多い。
夜の海は空との境目も、昼ほどはっきりしない。
見えないところから、波の音だけが届いてくる。
朔がネレアの隣に立つ。
吐いた息が白くなって、すぐに消えた。
ネレアは海を見ていた。
この世界へ来てから、ネレアが海を見るところを何度か見た。
好きなのだと知ったのは、少し後だった。
どうして好きなのかを聞いたこともある。
変わっても、海は海だから。
あのときは、それ以上聞かなかった。
今も、ネレアは何も言わない。
朔も海を見る。
波の音がする。
この世界へ来て、半年も経っていない。
知らない森で目を覚ました。
知らない文字があった。
夜になると、道が見えた。
クラウディアがいた。
タリアがいた。
井戸を調べた。
町へ行き、海も見た。
まだ知らない土地も、知らない魔術も、いくらでもある。
ネレアの隣で、知りたいことがまだたくさんある。
元の世界のことを忘れたわけではない。
帰れるなら、帰る道も見てみたい。
どうしてここへ来たのかも知りたい。
それは今も変わらない。
けれど、今、消えたいわけではなかった。
「ネレア」
「うん」
風の中でも、声は近かった。
「俺は、ここにいたい」
ネレアがこちらを見る。
「使い魔になっても?」
「うん」
相棒ではなくなる。主従になる。今までと同じではない。
その意味は分かっているつもりだ。
ネレアは何も言わなかった。
朔は待った。
ネレアがどう答えるか、予想はできる。
だからといって、先に答えていいわけではない。
風がネレアの髪を揺らす。
「ネレアは?」
今度は、朔が聞いた。
ネレアはしばらく朔を見ていた。
「私は、朔にいてほしい」
短い言葉だった。
それから、手を差し出した。
朔はその手を見る。
ネレアが自分で差し出した手だった。
だから取った。
指が触れる。
冷たい風の中で、ネレアの手も冷えていた。
「始めるよ」
「うん」
術式は、驚くほど静かだった。
ネレアが短い言葉を口にする。
握った手から、わずかな光が漏れた。
それだけだった。
けれど、朔には初めての感覚だった。
これまで何度も見てきた魔術が、自分の中へ入ってくる。
温かいとも、冷たいとも違う。
知らないものが、自分の身体を通っていく。
朔とネレアの間に、今までなかった繋がりができる。
ネレアは朔から目を逸らさなかった。
朔も目を閉じなかった。
風は変わらず吹いている。
下から波の音が届く。
頭上には、さっきと同じ星がある。
次の瞬間だった。
「……え?」
一気にネレアが遠ざかるのを知覚し、朔は耐えきれなくて目を閉じるしかなかった。
急に起こったその眩暈のような感覚が充分収まるのを待ってから、朔はゆっくりと目を開けた。
床が広い。
夜空が、高い。
その先に、……自分を見下ろすネレアが見えた。
「……は?」
声は出る。
ネレアがしゃがむ。
「俺、小さくなってない?」
「なってる」
「なんで?」
「分からない」
近くに寄った、ネレアの顔が大きい。
朔は自分の身体を見回した。
指を動かし、腕を上げる。
動く。
痛いところもない。
「どのくらい?」
ネレアが手を差し出した。
朔はその手を見る。
今なら、その上に乗れる。
試しに足をかけた。
手のひらへ上がる。
ネレアがゆっくり立ち上がった。
「……高い」
「落ちないでね」
「落とさないでよ」
「落とさないよ」
テラスへ続く扉が開いた。
クラウディアが、こちらを見て足を止めた。
「……朔?」
「そう」
クラウディアが近づく。
「小さくなったの?」
「見てのとおり」
ネレアの手の上で、朔はもう一度自分を見る。
「契約は?」
クラウディアが聞いた。
ネレアが少し目を閉じる。
「繋がってる」
「朔は?」
聞かれてようやく、自分の中にあるものを知覚した。
初めての感覚だった。
それでも、これが魔力なのだと分かる。
ネレアから流れてきている。
朔は息を吐いた。
ネレアの指が近づき、朔の頬に触れた。
あの時と同じように、朔もその指に手を置いた。
ネレアがしばらくこちらを見る。
「形は変わっても、朔は朔だよ」
触れている指の体温から、その言葉へと意識が向いた時だった。
ネレアの中に、ものすごい量のそれを知覚する。
「ネレア」
「なに?」
「これ、魔力?」
「どれ?」
朔は答えようとして、困った。
どれ、と言われても。
ネレアの中にある。大きい。
「ネレアの中にあるやつ」
「……分かるの?」
「分かる」
自分でも驚いていた。
朔はネレアを見上げる。
「魔力ってこんなにあるの?」
「多い方だとは言われるけど」
「多い方」
比較できない。
そう思って、クラウディアを見た。
「……え」
「何?」
クラウディアにもある。
ネレアとは違う。
けれど、こちらも多い。
朔は二人を交互に見る。
「魔女って、みんなこんななの?」
「何が見えてるの?」
クラウディアが聞いた。
「魔力。たぶん」
言いながら、朔は自分の中を流れるものへ意識を向けた。
ネレアの魔力。
それを知ったからなのか。
今まで存在しなかった感覚が、急に世界へ繋がったようだった。
視線を落とす。
そこで、朔は止まった。
夜の森で見た、あの細い光のような影のような線。
古い道にも残っていた。
結界の跡にもあった。
「……これ」
朔はネレアの手から下りた。
濃さの違う無数の細い痕跡が走っている。
今まで、そこまでは見えていなかった。
顔を上げる。
壁にもある。
塔の内側へ続いている。
テラスを横切り、途中で消えているものもある。
ひとつ見つけると、その周囲にもあった。
その向こうにも。
朔は立ち上がり塔を見た。
「……うそだろ」
昼間とは、まるで違った。
今はもう魔力が流れていない。
それでも、ここに痕跡を残している。
塔全体に。
あまりにも多い。
「朔?」
ネレアの声がする。
朔は返事をしなかった。
できなかった。
今まで夜に見てきたもの。
ずっと正体の分からなかったもの。
その感覚と、今初めて知った魔力の感覚が重なる。
「……魔力だったんだ」
「何が?」
「俺が、夜に見てたもの」
朔は塔から目を離せない。
「全部、魔力が流れた跡だ」
正確には、全部かどうかは分からない。
けれど、少なくとも今見えているものはそうだった。
「前から、こんなに見えてた?」
「いや」
首を振る。
そのとき、朔は顔を上げてネレアを見た。
ネレアも塔を見ていた。
「……ネレア?」
返事がない。
ネレアの視線が、痕跡を追っている。
「見えてる?」
少し遅れて、ネレアが頷いた。
「見える」
「これが?」
「うん」
クラウディアが二人を見る。
「私は何も見えないけど」
ネレアは答えなかった。
「朔」
「なに?」
「これ、どこまで続いてる?」
朔も同じものを見る。
屋上から塔の内側へ。
さらに下へ続いている。
「分からない」
少し考える。
「でも、辿れると思う」
ネレアが朔を見る。
その目が、少しだけ楽しそうに見えた。
「調べよう」
「うん」
クラウディアが二人を見る。
「その前に、契約の確認ね」
「……はい」
今度はネレアも答えた。




