第17話 帰る道
翌朝、ネレアと朔は森へ向かった。
二人が出会った、あの森だ。
クラウディアは家に残った。
朔がこの世界へ来た頃の記録と、古い道について書かれた資料を調べるという。
森へ入ってしばらくすると、朔は足を止めた。
「たぶん、こっち」
ネレアが地図から顔を上げる。
「分かる?」
「少し」
ここへ来たばかりの頃は、分からないものばかりだった。
道の名前も、町の名前も知らなかった。
覚えているのは、地形と、自分が歩いた方向くらいだ。
それでも、見覚えのある斜面があった。
葉を落とした木が多い。下草は、枯れている。
それでも土地の形までは変わっていなかった。
朔は周囲を見回した。
「この辺だと思う」
「目が覚めたところ?」
「うん」
ネレアがしゃがみ、地面に手を触れた。
朔は少し離れて周囲を見る。
あのとき最初に確認したのは、自分の身体だった。
次に持ち物。水と食料。
通信は使えなかった。スコープも、使える機能はほとんど残っていなかった。
それから森を歩いた。
知らない植物を見つけて。石を見つけて。
その先で、ネレアを見つけた。
「何かある?」
朔が聞く。
「まだ分からない」
ネレアは地面から手を離した。
「普通の森」
「境界は?」
「おかしいところは見つからない」
朔は頷いた。
何もない。
二人はそこから、朔が最初に歩いた道を辿った。
完全には覚えていない。
それでも、最初の石は見つかった。
半分ほど土に埋もれた細長い、古い石。
朔はその前にしゃがむ。
「これ」
ネレアも隣へ来た。
出会った頃にも見た文字が残っている。
あのときは、文字そのものは読めなかった。
意味だけが分かった。
朔は指で表面の汚れを払う。
「道」
「読める?」
「これは読める」
以前とは違う。
この世界で暮らして、文字を覚えた。
本を読んだ。古い記録も何度も見た。
今なら、文字として読めるものもある。
「でも、こっちは古い書き方」
石の端を示す。
「意味は?」
「拾える。結ぶ」
ネレアが紙に書き留める。
「境界」
ネレアの手が止まった。
「境界?」
「うん」
朔はもう一度見る。
文字として読める。
「これは間違いないと思う」
「他は?」
朔は石の表面を辿った。
削れているところが多い。
残っている文字を拾う。
「二つ」
「二つ?」
「その次が……岸、かな」
「岸?」
「たぶん。端とか、向こう側って意味かもしれない」
ネレアが考える。
「二つの岸」
「そう読めなくはない」
「決めない方がいいね」
「うん」
そのあと、ネレアは以前と同じように石そのものを調べ始めた。
朔は立ち上がり、周囲を見る。
昼の森では、やはり古道は見えなかった。
「夜まで待つ?」
「その前に歩いてみよう」
「場所、分かる?」
「だいたい」
「俺より覚えてる?」
「地図に残したから」
「ああ」
それなら勝てない。
朔は笑って、ネレアについて行った。
「今の地形だと歩きにくいけど」
間には斜面がある。木も密集している。
昔から同じだったとは限らない。
けれど、道を作るなら妙な場所だった。
ネレアも同じところを見ていた。
「普通に歩く道じゃなかったのかも」
夕方になるまで調べても、それ以上は分からなかった。
二人は森で夜を待った。
日暮れは、以前より早かった。
暗くなるにつれて、昼間は見えていたものが消えていく。
代わりに、別のものが浮かび始める。
朔は立ち上がった。
「見える」
ネレアも立つ。
「前と同じ?」
「たぶん」
古い道が現れた。森の奥へ続いている。
昼間には何もなかった場所。
斜面も、木も関係なく、その痕跡は続いている。
朔は歩き出した。
ネレアが後ろからついてくる。
途中で止まる。
昼に確認した斜面だった。
今見えている道は、その斜面をまっすぐ横切っている。
「やっぱり変だ」
朔が言う。
「うん」
ネレアが地形を見る。
「今の道とは合ってない」
「昔は平らだったとか?」
「可能性はある」
ネレアは少し考えた。
「でも、石の術式と合わせると、別の可能性もある」
「境界?」
「うん」
ネレアは古い道の先を見る。
「場所と場所を、そのまま繋いでたのかもしれない」
朔も道を見る。
「距離を短くする?」
「そういうものだった可能性はある」
「できるの?」
「私はできない」
即答だった。
「昔の魔女なら?」
「知らない」
それも即答だった。
朔は少し笑った。
「便利そうなのに」
「残ってないってことは、何か理由があるんじゃない」
「それも分からない?」
「分からない」
二人はそのまま道を辿った。
やはり同じ石へ着く。
夜になると、ネレアにも術式の痕跡が見えやすかった。
朔には古い道が見える。
「これが、俺が来たことと関係ある?」
朔が聞いた。
ネレアはすぐには答えなかった。
「可能性は?」
「分からない」
来た場所。古い道。境界。二つの岸。
関係があるようには見える。
でも、そう見えるだけだった。
帰るには、足りない。
翌朝、二人はクラウディアの家へ戻った。
仕事部屋には、昨日より本が増えていた。
窓辺には白い鳥が一羽いる。
首元に細い紙が結ばれていた。
「何か分かった?」
ネレアが聞く。
「少し」
クラウディアは鳥から受け取った紙を机に置いた。
「似た記録はいくつかあったわ」
「古い道?」
「ええ。離れた場所を短く繋ぐために使われていたらしい道。今はほとんど残っていない」
朔は椅子を引いた。
ネレアも隣に座る。
クラウディアがいくつかの記録を並べた。
年代も場所も違う。
使われている言葉も少しずつ違う。
それでも、似ているところはあった。
二つの地点とその間を繋ぐ術式。
境界に関する古い記述。
「タリアからも一つ」
クラウディアが別の紙を出す。
「今いる地方でも、似た話があるそうよ。山道を短くするために使われていた古い術式。ただし、今は使えない」
朔は紙を読む。
「異界の話は?」
「ない」
クラウディアが答えた。
「少なくとも、今見つかっているものは全部、この世界の中の移動についての記録」
ネレアが昨日の記録を机に置く。
「じゃあ、あの道も同じ?」
「その可能性はあるわ」
「でも、朔はあそこに来た」
「そう」
クラウディアは森の地図を見る。
「だから、いくつか考えられる」
指で朔が目覚めた場所を示す。
「あの古い道が、何らかの理由で本来とは違う場所へ繋がって、朔がこちらへ来た」
次に、石を示す。
「朔がこちらへ来た原因は別にあって、その影響を古い道も受けた」
少し間を置く。
「あるいは、二つは関係がない」
朔は地図を見る。
「どれ?」
「まだ分からない」
「だよね」
朔は椅子にもたれた。
帰る方法を探す。
そう決めて、来た場所まで戻った。
同じ道も見つけた。石も残っていた。
来たときには読めなかった文字も、今は少し読めた。
それでも、帰る道は見つからなかった。
「逆に使えない?」
朔が言った。
ネレアとクラウディアがこちらを見る。
「仮に、あれが場所と場所を繋ぐものなら」
朔は地図に示された古道を指した。
「こっちから繋ぎ直せば、戻れる可能性はない?」
ネレアが少し考える。
「どこに?」
「俺がいた世界」
「それを、どうやって術式に指定する?」
朔は黙った。
「場所と場所を繋ぐなら、両方が必要」
誰も答えなかった。
朔は自分の世界を覚えている。景色も使っていた言葉も。仕事も。どこにいたかも。
でも、それをこの世界の魔術にどう伝えればいいのかは分からない。
座標もない。道もない。
向こう側から残っている痕跡も見つかっていない。
「じゃあ、帰れない?」
朔が聞いた。
「違う」
ネレアが言った。
朔は顔を上げる。
「帰れるって確認できない」
ネレアは地図を見る。
「行き先が分からないまま、朔で試すのは嫌」
朔は少し黙った。
「……うん」
帰れないとは分かっていない。
帰れるとも分かっていない。
道がないとも言えない。
ただ、今あるものだけでは、帰る先を確かめられない。
クラウディアが一冊の本を閉じた。
「帰る方は、もう少し調べるわ」
「まだ?」
「まだ」
クラウディアは別の本へ手を伸ばす。
「それと並行して、もう一つ調べましょう」
ネレアがクラウディアを見る。
「何を?」
「朔が、こちらに残る方法」
ネレアが顔を上げた。
クラウディアは少しためらいながら言った。
「私の師匠が、境界について調べていたの」
「境界?」
「ええ。残っている資料がある」
「ここに?」
「いいえ」
クラウディアは首を振った。
「塔に」
ネレアの目が少し動いた。
朔は二人を見る。
「塔?」
「明日、行きましょう」
クラウディアが立ち上がった。




