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魔女は旅を続ける、使い魔を添えて  作者: 積極的保留


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第16話 ここにいるために

 町を出てから三日、ネレアと朔はほとんど話をしなかった。

 必要なことは話す。

 次の道をどちらへ行くか。どこで休むか。朝は何時に出るか。

 それだけだった。

 以前なら、朔はもっと喋っていた。

 見たことのない植物があれば名前を聞いたし、遠くに変わった建物が見えれば、あれは何だと聞いた。ネレアが知らなければ、それはそれでよかった。二人で地図を見て、分からないままなら、あとで調べればいい。

 今は、口を開く前に考える。

 これは聞いていいのか。自分で調べれば済むことじゃないのか。

 考え始めると、分からなくなる。だから黙る。

 ネレアも、朔が黙っていれば何も言わなかった。

 三日目には、道を歩きながら何かを見つけても、最初から口を開かなくなっていた。


 クラウディアの家へ戻った翌朝、三人は仕事部屋に集まった。

 タリアは少し前から、長期の仕事で遠方へ出ている。

 町から持ち帰った記録を整理し、クラウディアが正式な報告書をまとめる。そのための作業だった。

 朔はいつものネレアの隣の椅子を引きかけて躊躇った。

 向かい側にも椅子がある。何となく、そちらへ座った。

 ネレアは何も言わなかった。

 机の上には、町から持ち帰った紙が積まれている。

 クラウディアが報告書を書き、ネレアが聞き取りの記録を整理する。

 朔も自分の分を始めた。

 仕事をしている間は楽だった。何をしていいか考えなくていい。

 必要なものを探して、違う記録を照らし合わせる。それなら分かる。

 しばらくして、ネレアが言った。

「朔。七年前の補修記録」

 朔は顔を上げるより先に手を伸ばしていた。

「これ」

 昨日、自分で分けた束だった。

 ネレアが欲しいのも分かっていた。

 立ち上がって、机の向こうへ差し出す。

 ネレアも手を伸ばした。

 紙が落ちた。

「あれ」

 朔は自分の手を見る。

 離した覚えはなかった。

 テーブルに落とした紙が、指の向こうに見えた。

 朔は動きを止めた。

 もう一度触ると、今度は紙の硬さが指先に返ってきた。

 拾える。

「朔?」

 ネレアがこちらを見ていた。

「今、手が透けた」

 ネレアが立ち上がった。

 すぐ近くまで来て、朔の手を見る。

「見せて」

 言われて、手を出す。

 触れる、と思ったところで、

「待って」

 クラウディアの声がした。

 ネレアの手が止まる。

 なぜか朔は、その止まった指先を見ていた。

「朔。こっちへ」

 クラウディアが立っていた。

 言われた場所まで行く。

「何か違和感は?」

「今はない」

「初めて?」

「たぶん」

 答えてから、思い出した。

「いや。一回あったかも」

 ネレアがすぐに反応した。

「いつ?」

「帰りの宿。扉を開けようとして、取っ手を掴み損ねた」

「いつの宿?」

「一昨日」

「なんで言わなかったの」

 声が少し強かった。

 朔はネレアを見る。眉が寄っている。

「普通に掴み損ねたと思ったから」

「……そう」

 ネレアはそれ以上言わなかった。

 クラウディアが朔の手を取る。

 指先から手首まで確かめているらしい。

 朔自身には何の違いも分からない。

 そのとき、ネレアが息を呑んだ。

 ほんの小さな音だった。

 朔はそちらを見る。

 ネレアの目が見開かれていた。

「朔」

「何?」

「待って。動かないで」

 いつもの声ではなかった。

 朔は動きを止めた。

 ネレアの視線を追って、自分の肩を見る。

 後ろの本棚が見えた。

 黒い服の向こうに。

 一瞬、何を見ているのか分からなかった。

 自分の肩が薄い。

 輪郭が曖昧になって、その向こうの本の背表紙まで見えている。

「……俺?」

 言った途端、戻った。

 掴めば、ちゃんと自分の身体だった。

「今の、見た?」

 聞くまでもなかった。

 ネレアはまだ朔の肩を見ていた。顔色が少し変わっている。

 町を出た日の雨を思い出した。

 ネレアも同じことを思い出したのかは分からない。

 ただ、伸びかけた手はそのまま下りた。

 代わりにクラウディアが朔の腕へ触れた。

「今は問題ない」

 ネレアがクラウディアを見る。

「何だったの」

「まだ分からない」

「でも、今――」

「見たわ」

 クラウディアの声は変わらなかった。

「調べましょう」

 ネレアは口を閉じた。


 それから、町の記録は仕事部屋の端へ追いやられた。

 代わりに、三人で朔を調べた。

 再現しようとしても、同じことは起きなかった。

 昼に外へ出ても何もない。夜、朔が古い痕跡を見ても変化はない。

 翌日も何も起きなかった。

 その次の日、朔が本を読んでいると、右手の輪郭だけが一瞬ぼやけた。

「今」

 向かいにいたネレアがすぐに言った。

「何時?」

 朔が時計を見る。

「四時十二分」

「何してた?」

「これ読んでた」

「何の本?」

「古い街道」

「どこから?」

 朔は頁を戻した。

「この辺」

「昨日は読んでない?」

「読んだよ」

 ネレアのペンが止まる。

「じゃあ本は関係なさそう」

「俺もそう思う」

「次、夜にもう一回確認しよう」

「うん」

 そこまで話して、朔は少し遅れて気づいた。

 ネレアに、何を言っていいか考えなかった。

 ネレアが聞いて、朔が答える。朔が聞けば、またネレアが答える。

 町へ行く前には、ずっとそうだった。

 ただそれだけのことが、思っていたより嬉しかった。

 調べているのは、自分の身体がおかしくなった理由なのに。

 それでも朔は、久しぶりに少し楽しかった。

 夜になれば二人で記録を合わせた。

 朔が気づいたことを言えば、ネレアが別の記録を開く。

 ネレアが探しているものが分かれば、言われる前に朔が本を取る。

 そうするとネレアは一瞬だけこちらを見て、そのまま受け取った。

 何も言わない。

 机の椅子はまだ向かい側のままだった。全部が戻ったわけではない。

 それでも、仕事をしている間だけは、二人の間にあった妙な空白が少し狭くなった。


 異変は、それからしばらく起きなかった。

 分からないまま、記録だけが増えた。

 翌日の午後、朔は庭でクラウディアと話していた。

 ネレアは少し離れたところで、これまでの記録を見ていた。

 クラウディアの質問に答えようとして、声が出なかった。

 朔は一度、喉に触れようとした。

 手が見えない。腕もなかった。

 驚いて身体を見下ろす。

 何もない。

 けれど庭は見えている。風が木の葉を揺らす音も聞こえる。

 クラウディアも見える。

 ネレアも。

「朔?」

 ネレアが顔を上げた。

 返事をするが、聞こえない。

「朔」

 ネレアが立ち上がる。

 朔はここにいると言った。

 やはり声にならなかった。

 ネレアがこちらへ来る。

 最初は早足だった。途中から走った。

「朔!」

 こんな声で名前を呼ばれたことがあっただろうか。

 朔は一瞬、そんなことを考えた。

 ネレアは、朔がいるはずの場所まで来て立ち止まった。

 すぐ目の前にいる。

 なのに目が合わない。

 青灰色の目が、必死に何かを探すように動いている。

 ここにいるのに。

 朔は妙な気分になった。

 怖いのかもしれない。

 それよりも、ネレアに自分が見えていないことの方が嫌だった。

「ネレア」

 届かないと分かっていて、もう一度呼んだ。

 その瞬間、手が戻った。

 自分の指が見える。腕がある。

 足の裏に地面の感触が戻る。

「ネレア」

 今度は声になった。

 ネレアの目が朔を捉えた。

 表情が変わった。

 ほんの一瞬だった。

 強く寄っていた眉がほどけて、唇が少し開く。

 息を止めていたみたいに、長く息を吐いた。

「……朔」

「うん」

 ネレアは何か言おうとした。

 でも言わなかった。

 視線が朔の顔から肩へ、腕へと動く。

 確かめている。

 その手が少し持ち上がった。

 朔は見ていた。

 けれどネレアは、また触れなかった。

「何秒?」

 朔が聞いた。

 ネレアは一度瞬きをした。

「分からない」

 ネレアが分からないと言った。

 そのことの方が、朔には意外だった。

「七秒くらい」

 クラウディアが言った。

 ネレアは何も言わず、記録へ戻った。


 その日の夕方、三人で話した。

 クラウディアにも、原因は分からなかった。

 ただ、最初は物に触れられなかっただけだった。

 今度は朔の姿も見えず、声も届かなかった。同じ現象なのかさえまだ断定できない。

「でも、放ってはおけない」

 クラウディアが言った。

 ネレアは黙っている。

「次も戻る?」

 朔が聞いた。

「分からない」

「戻らないこともある?」

「あるかもしれない」

 クラウディアはそこで言葉を切った。

「ただ、それが消えるということなのか、別の場所へ移るのか、元いた世界と関係するのか。それも今は分からない」

 朔は自分の手を見る。普通の手だった。数時間前には、これが見えなかった。

 それでも自分にはネレアが見えていた。

「変なの」

「何が?」

 ネレアが聞いた。

「俺からは全部見えてた」

 ネレアが朔を見る。

「声も聞こえてた。ネレアが俺のこと呼んでるのも」

「……そう」

「返事してたんだけどね」

 ネレアの眉がまた少し寄った。

 朔はそれを見て、なぜか少し笑いそうになった。

 笑うところではない。分かっている。

 でも、ネレアと普通に話せている。

 それがやっぱり嬉しかった。

 その夜、朔は部屋で記録を書いていた。

 今日の七秒について書くことは多かった。

 自分には世界が見えていたこと。

 音も聞こえていたこと。

 ネレアに声は届かなかったこと。

 書いている途中で、扉が鳴った。

「朔」

 ネレアだった。

「どうぞ」

 入ってきたネレアは、扉を閉めると朔を見た。

「どうしたの」

「今は?」

「今?」

「消えてない?」

「見えてるでしょ」

「見えてる」

「じゃあ、いる」

 いつもなら、そこで終わる。

 ネレアは終わらなかった。

 朔のところまで歩いてくる。

 机のすぐ横で止まった。

 近い。

 昼間、朔が戻ったときと同じくらい。

 ネレアが手を上げる。

 頬の近くで止まった。

 その指がわずかに曲がる。

 迷っているように見えた。

 朔は何も言わなかった。

 ネレアの指先が頬に触れた。

 思っていたより、少し冷たかった。

 外にいたのかもしれない。

 細い指だった。

 けれど、紙とペンばかり触っている手ではない。指先にはわずかに硬いところがあった。

 触れた瞬間、ネレアの目が朔の頬へ落ちる。

 指が輪郭を確かめるように少し動いた。

 それから手のひらが頬に当たった。

 冷たかった指先が、少しずつ温かくなる。

 朔はネレアを見ていた。

 眼鏡の奥の目は真剣だった。

 昼間と同じように眉が寄っている。

 けれど、ちゃんと触れたと分かったとき、その眉間から少しだけ力が抜けた。

「……いるね」

 声も、少しだけ柔らかくなった。

「いるよ」

 答える。

 声が届く。

 ネレアがそれを聞いている。

 そのことが、ひどく嬉しかった。

 頬にある手も。

 近くにある顔も。

 今はちゃんと自分を見ている目も。

 朔は、しばらくそのままネレアを見た。

 ネレアの手は離れなかった。

 朔はゆっくり自分の手を上げた。

 触れていいのか、一瞬だけ迷った。

 今度は、迷ったことごと自分で決めた。

 ネレアの手に重ねる。

 手の甲は、頬に触れていた指先より温かかった。

 ネレアの目が上がる。

 初めて、まっすぐ目が合った。

 少し驚いた顔をした。

 ほんの少しだけ目を見開いて、それでも手は引かなかった。

 朔も離さなかった。

 何か言えば、この時間に名前がついてしまう気がした。

 だから何も言わなかった。

 ネレアも黙っていた。

 ただ、触れている。

 それだけだった。

 少しして、ネレアが朔の名前を呼んだ。

「朔」

「うん」

「帰る方法、探そう」

 朔はすぐには答えなかった。

 ネレアの手はまだ頬にある。

 自分の手も、その上にある。

 帰る。

 その言葉を考えるのは、ここへ来たばかりの頃以来だった。

「……うん」

 今は、それだけ答えた。



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