第13話 いつもの椅子
井戸の仕事から、しばらく経った。
朔がクラウディアの家で暮らすようになってからも、ネレアには仕事があった。
近くの村へ行くこともあれば、何日か家を空けることもある。
朔も、そのほとんどについて行った。
最初の頃は、分からないことがあればネレアに聞いていた。
最近は、聞く前に分かることも増えた。
「朔、三年前の記録」
ネレアが言った。
朔は手元の紙から顔を上げ、テーブルの端に積まれていた束から一冊を抜く。
「これ?」
「うん」
渡すと、ネレアは開いていた記録の横へ並べた。
朔も椅子を寄せる。
同じ土地について書かれた二つの記録だった。
「こっち、春だね」
「うん」
「三年前は秋」
「だから、そのまま比べないで」
「分かってる」
書かれている内容を追う。
三年前の記録にはなかった一文が、今年のものには増えている。
朔が指を置くより先に、ネレアが同じ場所を指した。
「これ」
「俺もそこだと思った」
ネレアが少し笑う。
「じゃあ、次」
次の記録が朔の前へ滑ってきた。
朔はそれを受け取った。
文字を追う。
この世界へ来たばかりの頃は、書かれている意味が分かっても、文字そのものは読めなかった。
今はだいぶ違う。
意味を拾うより先に、文字として読めるものも増えた。
まだ全部ではない。
古い記録には見慣れない書き方もあるし、人の名前は時々困る。
それでも、仕事に使うには十分だった。
「ただいまー」
玄関の方から声がした。
朔が顔を上げる。
「タリア」
「いるよ」
ネレアは記録を見たまま答えた。
少しして、タリアが部屋へ入ってきた。
旅装のまま、荷物を椅子の横へ置く。
「何してるの?」
「記録の整理」
「朔も?」
「うん」
タリアが朔の手元を覗き込んだ。
「……普通に読んでる」
「読めるよ」
「最初、読めなかったよね?」
「意味は分かったけどね」
「それ、読めるって言わないでしょ」
朔は少し考えた。
確かに違う。
「じゃあ、読めなかった」
「もう覚えたの?」
「だいたい」
タリアがネレアを見る。
「早くない?」
「早かったよ」
ネレアはあっさり答えた。
朔はそちらを見る。
「ネレアが教えるの上手かったから」
「私、そんなに教えてないよ」
「聞いたら答えてくれた」
「それだけで覚えたのは朔でしょ」
そう言って、ネレアは次の紙をめくった。
朔は少しだけ口元を緩めて、また記録へ戻った。
タリアは二人を見比べてから、椅子へ腰を下ろした。
「お腹すいた」
返事はない。
「今日、当番誰?」
「俺」
朔が答える。
「今、ネレアにお湯沸かしてもらってる」
「じゃあ、もうできる?」
「もう少し」
朔は残っていた一枚を読み終えると、印をつけて立ち上がった。
台所では、大きな鍋から湯気が上がっていた。
火を使っているわけではない。
台の一部に組み込まれた術式が淡く光っている。
朔には使えない。
だから湯が必要なところだけ、ネレアに頼んだ。
鍋の横には、切りかけの淡い緑色の野菜が置いてある。
タリアがそれをつまもうとして、朔に手を払われた。
「まだ」
「生で食べられるよ」
「知ってる」
「じゃあいいじゃん」
「今使うから」
タリアは諦めて手を引いた。
「それ、好きなの?」
「初めて使った」
「初めて?」
「うん。昨日クラウディアに聞いた」
熱を入れると柔らかくなる。
煮崩れはしにくい。味は強くない。
そこまで分かれば、使い方はいくつか考えられた。
朔は切った野菜を鍋へ入れた。
「朔のところにも、こういうのあった?」
タリアが聞く。
「似てるのはあったよ」
「同じ?」
「たぶん違う。向こうのはもう少し硬かった」
「じゃあ、よく料理してたんだ」
「普通に」
「へえ」
タリアが面白そうに朔の手元を見る。
朔は気にせず次を切った。
ネレアが台所へ入ってくる。
「終わった?」
朔が聞く。
「今日の分は」
「これ、味見して」
差し出すと、ネレアはそのまま受け取った。
少し食べて、考える。
「もう少し塩」
「やっぱり?」
「うん」
朔は塩を足した。
タリアが横から覗く。
「私も」
「さっき食べようとしたから駄目」
「関係なくない?」
「ないけど駄目」
「なんで?」
「なんとなく」
ネレアが笑った。
朔も笑いながら鍋を混ぜる。
クラウディアが戻ってきた頃には、夕食の準備はほとんど終わっていた。
食卓には朔の作った煮込みと、クラウディアが用意したサラダが並んだ。
「またサラダ」
タリアが言う。
「嫌なら食べなくていいわよ」
「食べるけど」
「なら問題ないわね」
クラウディアは席についた。
朔が最初にこの家へ来たときは、どこに座ればいいのか分からなかった。
今は考えない。
タリアが早速、朔の作った煮込みを食べながら言う。
「今港町にリゼットが来てるんだって。だから明日会いに行くつもり」
「魔術具の?」
珍しく、ネレアが真っ先に反応する。
「そう。彼女の相棒のミロに会うのも楽しみ」
「……朔、スコープお願いしてみる?」
「何を?」
「リゼットに。あれ、今は遠くを見るくらいしかできないんでしょ」
「うん」
「元は何ができたの?」
「距離が分かる。方角と位置も出た。暗いところの補正と、記録も」
タリアが止まった。
「待って。そんなにできたの?」
「できたよ」
「聞いてない」
「聞かれてないから」
「それ、先に言ってよ」
「なんで?」
「使ってみたい」
ネレアが言った。
タリアがすぐにそちらを見る。
「だよね?」
「作れるの?」
「同じものは無理だと思う。でもリゼットなら、似たことができるものは考えるかも」
朔は少し考えた。
「全部?」
「欲張るね」
「使えてたからね」
「それ、リゼットにも言える?」
「タリアが言うんでしょ?」
ネレアは笑っている。クラウディアも。
食事のあとは、ネレアはいつも通り仕事机へ戻った。朔も続くのがすでに日課だ。
「さっきの続き?」
「うん」
ネレアが紙を一枚取って、止まった。
「紙、もうない」
朔が棚を見る。
いつも使っている束がなくなっていた。
「昨日、最後の一枚使ってたよ」
「言ってよ」
「ネレアも見てたでしょ」
「見てなかった」
「見てたよ」
「覚えてない」
朔は笑った。
「じゃあ俺が言えばよかった」
「そうして」
ネレアは残っていた別の紙を確認した。
「インクも少ない」
「明日買いに行く?」
「そうだね」
「港のほう?」
「うん。あっちに店があるから」
「俺も行く」
朔は窓の外を見た。
もう暗い。
遠くにいくつか灯りが見える。その向こうに港があるらしい。
まだ行ったことはなかった。
「そのつもりだったけど」
朔は少し黙った。
「そっか」
「なに?」
「別に」
ネレアは首を傾げた。
朔は笑って、机の上の記録を集めた。
明日は港へ行く。
この世界には、知らないものがまだたくさんある。




