第12話 初めて見るもの
クラウディアから次の仕事の話を聞いたのは、朔がこの家に来て数日後のことだった。
山間の小さな集落で、井戸の水が濁ることがあるらしい。
いつもではない。
朝には澄んでいる。それが昼頃になると濁り始めることがある。しばらく使わずに置けば、また澄む。
井戸の掃除もした。目に見える範囲で壊れているところもない。
ただ、その井戸には古い魔術が使われていた。
水の乏しい土地で、二つの水源から井戸へ水を集めるため、昔の魔女が術式を組んだのだという。
原因を調べてほしい。その依頼を、ネレアに頼むのだという。
「俺も行っていいの?」
朔が聞く。
「来たいんでしょ?」
ネレアの瞳が、見定めるようにこちらを向いた。
もちろん、行きたいに決まってる。
反射的にそう思いながら、ネレアの青灰の瞳から目を逸らせない自分には、気づかないふりをした。
井戸は集落の中央にあった。
石を円形に積み上げ、その上に木の枠が組まれている。
朔はしばらくそれを眺めた。
穴がある、かなり深い。その底に水がある。
「これが井戸?」
「そう」
ネレアが隣に立つ。
「地下の水をくみ上げて使うの」
「下を水が流れてる?」
「この辺りならそう考えていいよ。この井戸は少し特殊だけど」
ネレアは井戸の縁に手を置いた。
「山から来る二つの水を、術式でここに集めてる」
朔はもう一度、穴の中を覗いた。
水そのものを作っているわけではない。あるものを集めている。
「濁るのは、ここに入ってくる水が変わったから?」
ネレアが朔を見る。
「それもある」
「使う量が変わった可能性もある。あとは、この井戸自体に何かあるか」
一つ分かると、次が出てくる。
どこから入るのか。どれくらい入るのか。どれくらい使うのか。濁る日は何が違うのか。
「山の水、見に行ける?」
朔が聞くと、ネレアは少し笑った。
「その前に聞き取りする」
「先に?」
「濁る条件が分からないまま全部見るより、絞ってから行ったほうが早いでしょ」
朔は井戸から顔を上げた。
なるほど。
そうして、集落の人たちへの聞き取りをするネレアを、朔は見ていた。
いつから濁るようになったのか、濁り始める時間は?
雨の前後で違いはあるか。
水を多く使った日はどうか。
話を横で聞いているうちに、条件が少しずつ見えてきた。
濁るようになったのは、このひと月ほど。
雨の後というより、晴れた日が続いた時に多い。
朝は澄んでいるが、濁る時には大抵、昼頃から。
人の多い日には早いこともある。
最後の話で顔を上げた時、ネレアと目が合った。
「使った量かな?」
「可能性は高いね」
ネレアは考えるように視線を落とした。
井戸の術式を確認したあと、二人で山へ向かった。
道は緩やかに登っている。
しばらく歩くと、小さな流れを二本、見つけた。
一本は絶えず水が流れているが、片方はかなり細い。
石の間を濡らす程度の水しかなかった。
「これ?」
「たぶん」
ネレアがしゃがみ込む。
水際の石に触れ、指を滑らせた。指先に、小さい光が灯る。
だが、朔にはネレアが何を探っているのか分からない。少なくとも、昼の今は。
見えるのは、水際の丸くなった石に生えた苔と水の跡。
「前は、もっと水が多かったんじゃない?」
ネレアが振り返った。
朔は石を指した。
「今の水はここまで。でも、この辺りまで水が流れてた跡があるよね」
ネレアの目が細くなる。それから立ち上がり、少し上流へ歩いた。
朔も付いていく。
少し上流で、表面に何かが刻まれている平たい石を見つけた。
「術式?」
「そう」
ネレアの声が変わった。さっきまでより少し高い。
朔は石ではなく、ネレアを見た。
ネレアは再びしゃがみ込み、石に刻まれた線を指でなぞっていく。
眉を寄せていたかと思えば、ふっと目を見開いた。
何か見つけたらしい。
「こっちにもある」
ネレアが立ち上がった。足取りがさっきより速い。
もう一方の流れへ向かうと、同じような石を探し始める。
朔も探した。
ほどなくして、似た形の石が見つかった。
ネレアはさっきと同じようにしゃがみこみ、線を指でなぞる。
「壊れてる?」
朔が聞いた。
「待って」
短い返事だった。
探っているネレアを見て、朔も待つ。やがて寄っていた眉がほどけた。
「壊れてない」
ネレアが言った。
「動いてる」
「じゃあ、なんで濁る?」
「それを今考えてる」
少しだけ困ったような顔をする。その顔は初めて見た。
朔はもう一度、二つの流れを見た。
術式は動いているなら。
「前提が変わった?」
ネレアが顔を上げた。
「前提?」
「これを作ったときは、こっちにももっと水があった」
朔は水の少ない流れを指す。
「術式は今も、そのときと同じように水を集めようとしてる?」
ネレアは答えなかった。
もう一度、石を見る。
「……そうか」
ネレアも、水の少ない流れを見た。
「朔、すごい」
まっすぐ言われて、朔は一瞬黙った。
「俺の世界にも、水はあるから」
「井戸は知らないのに?」
「水が流れるのは知ってる」
ネレアが笑う。
「それはそうだね」
朔も笑った。
ネレアは再び術式へ向き直った。
「水が減ってるのに、昔と同じ量を引こうとしてるなら」
「足りない分まで引く?」
「たぶん」
「水だけじゃなくて、周りの細かい土も」
ネレアが頷く。
「井戸を使えば水位が下がる。朝は溜まってるから問題ない。でも、使う量が増えて水位が下がると、術式が補おうとする」
「それで昼頃に濁る」
「晴れが続いたときに多いのも説明できる」
そこまで言って、ネレアは止まった。
「確認しよう」
答えが出たから終わり、ではないらしい。朔はそれも気に入った。
二人は集落へ戻り、井戸の水位と濁り方を確認した。
聞いていた通り、水を汲むにつれて水位が下がり、しばらくすると水に細かな濁りが混じった。
ネレアは瓶に取った水を光に透かした。
嬉しそうだった。
朔には水より、そちらのほうが目についた。
クラウディアに確認を取り、ネレアは術式を調整することになった。
朔はネレアの手元が見えるところに座った。クラウディアは、少し離れたところから見ている。
この世界へ来てから、魔術は何度か見た。
けれど、ネレアが術式そのものを扱うところを見るのは初めてだった。
ネレアの指が石の上を動くと、刻まれた線の一部が淡く光っていく。
何をしているのか、朔にはまだ分からない。だが、目はネレアを捉えて離さない。
ネレアは、光る線をじっと見ている。
途中で一度、ネレアが眉をしかめた。
少し戻し、もう一度触れる。
今度は違う線へ。
光がゆっくりと馴染んでいく。
その瞬間、ネレアの口元が緩んだ。
朔もつられて笑った。
一つずつ確かめて、必要なところだけ変えていく。
ネレアの指先から伸びる光が、綺麗だと思った。
ネレアの瞳も、綺麗だと思った。
やがてネレアが息を吐いて、朔を見た。
「面白かった?」
「すごく」
朔は立ち上がって、石のそばまで行った。
「ネレア、すごい」
「急だね」
「だって、すごかったから」
ネレアは目を丸くし、それからまた笑った。
今日だけでも、いくつも違う顔を見た。
まだ知らない顔もあるのだろう。
そう思うと、少し気になった。
翌日の昼まで井戸の様子を見た。
水は澄んでいて、何度か水を汲んでも前日のような濁りは出なかった。
「大丈夫そうだね」
ネレアが井戸を覗き込む。
「うん」
朔も隣から覗いた。
最初に見たときは、ただ地面に深い穴を掘って水を取る奇妙な仕組みにしか見えなかったが、今は少し違って見える。
地下の水と、山の流れと、古い術式。
それを作った昔の誰か。
変わった土地。
その変化に合わせて術式を直したネレア。
水を汲みにくる村の人たち。
一つの井戸の周りに、思っていたよりずっと多くのものがあった。
「面白かった」
朔が言うと、ネレアが振り返った。
「井戸が?」
「それも」
「それも?」
朔は少し考えた。
森でもそうだった。
ネレアと一緒に考えるのは速い。
自分が出した可能性を、ネレアはすぐに理解する。
必要なものを選んで確かめるし、違えば捨てる。
そして朔には分からない魔術を、ネレアが使う。
「ネレアと仕事するの、面白い」
ネレアが瞬きをした。
今まで見たどの顔とも少し違った。朔はその顔を見た。
「また来てもいい?」
ネレアは少しだけ考えてから、笑った。
「仕事の邪魔をしないなら」
「してないでしょ」
「今日はね」
「じゃあ次も大丈夫」
「そうだね」
そう言いながら、ネレアは楽しそうだった。
次の仕事が何なのかは、まだ知らない。
朔はそれが嬉しかった。




