第七夜 朱羅神一族について
予定されている続編、朱羅神一族編用に書かれた補強資料です。
ただいま現在これらの設定を用いた続編が書かれるかどうかは未定です。
肩肘張らずに胡散臭い三流オカルト系記事のつもりで楽しんで頂ければ、と思います。
九十九令和奇譚 真説・耳嚢シリーズ
第七夜
月刊アトランティス編集部
日本各地に残る伝承伝説に見る、朱羅神一族の痕跡。
文責:フリールポライター 荒吐 九十九著
本稿はフリールポライターである筆者が、長年追い研究を続けている、とある一族とその歴史にまつわる雑多な覚書のようなものである。
とある特異な歴史をたどってきた一族、御子神一族と出会った私は、その成り立ちに興味を持ち、ただの好奇心からインタビューや取材などを行ってきた。
その一族の壮絶な歴史や多種多様な古伝古文書を見せていただくうちに、その魅力に取りつかれ現在も取材を続けている。
これはその研究と推察の一環である。
本稿にて主に取り上げるのは、御子神家への取材を通じて浮かび上がってきた、もう一つの戦巫女の系譜の存在である。
これは御子神家現当主、御子神 巴氏との対談においてわずかに語られる、かつて御子神一族と戦巫女の系譜から分派したと思われる朱羅神一族と、その一族が伝える朱羅神真眼流なる武術に関する考察である。
実のところ巴氏からはあまり情報は得られなかった、話して頂けたのは以下の情報でほぼ全部である。
「ある時期、戦巫女の中から
『こんな小さな神社を守るのではなく、霞の眼の力を一族の発展栄華と安泰のために使うべきである』
との主張をする者達が現れた。
あくまで戦巫女としての本分を忘れるべきではないとする主流派の意見とは対立し、やがてその一派は意見に同調する者たちを率いて御子神から離れていった。」
その者達の中には、霞の眼を使える者もいたという。
彼らは権力者に自分達の圧倒的な武力を手土産に接近したが、権力者にとっては使い捨ての利く便利な戦力でしかなく、やがてわずかな栄華と安泰と引き換えに、彼らはただの暗殺者集団に成り下がっていったらしい。
以上が筆者が最初につかんだ朱羅神一族に関する情報であった。
興味を持った筆者は巴氏に詳しい話をお聞かせ願いたいと頼み込んだのだが、巴氏は
「一族の恥みたいなもんじゃ、あまり話しとうはない、それに荒吐さんもあまり朱羅神には関わらんほうがええ。
霞の眼でその深淵を覗き込みすぎたあれらは、もはや人ではない...」
と言葉少なげに口を固く閉ざすのみであった。
筆者としても無作法なこの取材に快く応じてくださった巴氏に、それ以上の無理強いをする事もできず、その取材で得られた情報はこれにとどまっていた。
しかし著者の悪癖である好奇心は黙っておらず、以後も御子神に関する研究を続ける傍ら集めた、様々な地方の伝承や信仰に関する資料を整理しているうち、ふと気づいたあるアイデアを試してみることにした。
あの女傑として鳴らした巴氏をしてすら、禁忌といわしめた朱羅神ならば、それは当時の人々にとっても禁忌であり、忌まわしい事象であったはず。
ならば古伝古書にそれらのそのままの情報が残っておらず、朱羅神一族に関する資料がほぼ現存していない理由も説明がつく。
しかし人間というものは筆者に代表されるように好奇心には勝てないものだ。
朱羅神の禁忌を別の形にカムフラージュ、もしくは誤認により記録してあるのではないか?
記録が残っていないのではなく、記録はあるがそれが明確に朱羅神に関する記録としての体裁を取っておらず、別の記録として埋もれているだけなのではないか?
という仮説である。
以下にとりとめもないままにそれらの資料を記す。
『「……近来、此の辺りの武道場へ向けて、腕試しと称する奇異なる者どもの出没する事、其の聞え甚だし。
聞けば、立合の砌には髪逆立ち、身の丈は異様に膨れ上がり、その体躯は赤銅色を帯びるという。
世間の者どもは、武芸自慢の古き天狗の類いが人の姿を借りて業を試すものと怪しみ、恐れおののいている。
我が道場にも、遂に其の噂の男が乗り込んできた。
初めに立合った高弟の一人は、ただ一撃を受けたるのみにて、即座に壁へ叩きつけられ落命せり。
然れども、我が師は少しも動じず、次に立合う者へ厳しく下知を下された。
『決して組んではならぬ。身を引いて壁を背にし、敵の拳足を、壁や室内の武具などの堅牢な物へ当たるようにうまく導け』と。
二人目の立合人が其の教えの通りに身を処したところ、男は自ら放った拳を道場の漆喰壁に打ち付け、手向かう隙もなく拳の骨を派手に砕いた。
されど其の男、痛覚を失うたかのように微塵も怯まず、凄まじい三白眼を剥いてなおも狂乱の如く襲い掛かってくる。
男は板張りの床や堅き壁を次々に打ち砕いたが、其の激しい衝撃の度ごとに、男自身の拳や足の骨もまた自らの過度な力に耐えかねて、次々と砕けていった。
命からがら逃げ惑う高弟の恐怖、実に筆舌に尽くしがたし。
後日、其の有様を
『まさしく悪鬼羅刹の所業なり』と、血相を変えて語っていたほどである。
果たして其の男は、自らの全身の骨をことごとく砕き尽くし、ついにその場で絶命に及んだ。
あまりに哀れな最期であったゆえ、厚意を以て手厚く墓所に葬ってやったが、その亡骸に触れたる時、すでに骨格を失った躯はまるで軟らかな海月の如くぐにゃぐにゃに崩れていたといふ。
なお、辛うじて生き延びた二人目の高弟もまた、男に掴まれた左手の骨が完全に握りつぶされ、剣の道を諦めることとなり、試合が終わった時には道場は半壊していたという。
——伝うる所によれば、此の正体不明の男が葬られた史跡こそ、のちに里人らが恐れて『鬼天狗の首塚』と呼び習わすようになった場所であるという。」』
小泉八雲著・巷間耳嚢
『陣中に大きな戦のありし後、此の山間の寒村にも落ち武者狩りが行われたという。
村の奥深き山中へ逃れ入った者どもが数名あり、これを追うて追手がかかった。
其の一行の中には、なんと一人の女武者が混じっていたと伝えられる。
落ち武者狩りの容赦なき詮議により、仲間達は次々と討ち取られ、ついに女武者一人が取り残された。
追い詰められた女武者は、天に向かって何やら呪文(真言)の如きものを唱え、加護を祈り奉った。
すると不思議なるかな、たちまち女の髪は逆立ち、恐ろしい白目を剥いて獣の如き唸り声を上げ、逆に追手どもへ向かって猛然と襲い掛かったという。
女は人の常軌を逸したすさまじい膂力をもって次々と追手を引き裂き、そのまま深山幽谷へと姿を消した。
然れども、これを座視せぬ勝利側の領主は事態を重く見て、次々と矢継ぎ早に新たな追手を送り込んだ。
追手の多くは血祭りに上げられ、生きて帰る者はほとんどなかったらしい。
だが、五度目に差し向けられた追手によって、ついに女武者は討ち取られた。
討ち果たされた女武者の躯は、あちこちの骨が折れ砕け、傷だらけであったという。
されど奇異なることに、その傷のほとんどはすでに新しい肉を盛り、塞がりつつある最中であった。
かような凄まじい鬼神の如き武力を目の当たりにした武士達は、たとえ首尾よく討ち果たしたとはいえ戦慄を禁じ得ず、のちに
「あれはただの人間ではない、おおかた山中で子供の生き胆でも喰ろうて妖術を身につけた『鬼女』であったのだろう」
と恐れを込めて噂し合ったという。
――伝うる所によれば、のちに土地の古老達は
「あれこそは、伝説の紅葉姫の生まれ変わりである」
と語り伝え、その禍々しくも悲壮な名残は、いつしか里の名物である鬼の顔を焼き込んだ「鬼姫もみじ饅頭」という甘味の意匠にまで姿を変えて、今に伝えられているという。』
磐梯山麓雑記 著者不詳(おそらく磐梯山中の修験道者の一人が書き記した私的に書き留めた手控え帳のようなものと推測される)
なおこの伝承には続きがあり、著者がかつて会津の観光地でアルバイトをしていた時、名物である「鬼姫もみじ饅頭」のパッケージに描かれた可愛らしい鬼娘の意匠に興味を持った。
土産物屋の老主人は笑いながら
「昔の落ち武者狩りで討たれた哀れな女武者の伝説さね。」
と語るが、郷土資料を漁るうちに、その伝説が明治期に改変されたものであることが分かった。
本当の歴史は、かつてその山で、追手との死闘の果てに、女武者が全身の骨を砕いて自壊したという凄惨な事件だった。
その様があまりにも凄惨だったため、後に少し柔らかい表現へと改変されたようだ。
さらに、土地の古老によれば、この女武者と同じ血を引く者達が明治の初期辺りまでこの付近に住み生活していたという。
彼らには体躯に恵まれたものが多く、村の神事や土木工事の際には大いに頼りにされたらしい。
その際には一族に伝わる真言を唱えたり、祝詞のような言葉を唱えることで全身が一回り大きくなり剛力を発揮したり、傷を負っても短時間ですぐに塞がったりする不思議な力があったという。
誰ともなく紅葉姫の子孫ではないかともいわれていたが、太平洋戦争の際、男衆が徴兵されて以降はどこかへ移住してしまったらしく、その行方はよく分からなくなっているそうだ。
封印された歌舞伎演目
血染桜東恋鏡
「出羽三山に流れ着いてきた若い美しい巫女のもとに、ある修験者が訪れる。
巫女は何かの罪を犯しており追われる身、修験者はそのために依頼を受けて差し向けられた追っ手であった。
しかし美しい巫女にどうしても刃を向けることができなかった修験者と巫女はやがて恋に落ち、裏切り者となった修験者にも刺客が差し向けられる。
二人は追手から逃れ出羽山中を逃げ続けるが、やがて湯殿山の玉滝の付近に追い詰められる。
巫女だけでも逃がそうと修験者は滝を背に背水の陣で追っ手を迎え撃たんとするが、逃げよ、と言う修験者の傍から巫女は離れようとしない。
巫女は天に向かって神仏の加護を祈った。
巫女の姿はたちまち巨大な鬼の姿へと変じ、追手を一人残らず引き裂いた。
しかし元の美しい姿に戻った時、巫女の全身の骨は砕けており、息も絶え絶えとなった巫女は
「貴方が無事ならよかった、私はいままで数々の業を背負ってきた身、これも神仏の慈悲なのでしょう。
最後の願いです、どうか私の亡骸は桜の下に埋めてください。」
と告げ、絶命した。
修験者は嘆き悲しみ、巫女の亡骸を大きな桜の下に葬った後は山を下り、仏門に入り生涯独身のまま妻の菩提を弔ったという。」
これが、異端の歌舞伎演目として禁目とされた「血染桜東恋鏡」のストーリーである。
江戸時代に上演され、たいそうな人気を博したらしいのだが、なぜかこの演目は幕府によって禁止され現代では廃曲となって久しい。
一説にはシテ(主役)の巫女役演者が身にまとうのは、血塗られた甲冑や赤銅色の面であり、物語のクライマックスでは
「荒ぶる神の血に狂い、自らの手足を激しく打ち鳴らしてついには全身の骨を砕いて舞台の端に崩れ落ちる」
という狂乱の見せ場(マイムや足拍子)が組み込まれている。
しかし、その舞の足拍子があまりにも生々しく、観客席からは
「まるで、本当に人間の骨が砕けるような乾いた音が響いた」
とまことしやかに囁かれていた、との記録が残されている。
またこの演目の練習の際には
「舞台の上では、足や手の指の骨をポキポキと鳴らしてはいけない」
や、歌舞伎の象徴でもある隈取を主役の巫女には使わない。
などの特有の不思議なしきたりがあったともいわれており、これらがなんらかの呪術的な意味で幕府の逆鱗に触れたのではないか、との異説もある。
――この能(または歌舞伎)の古い台本や床本の書き込みを紐解くとき、我々は能く気づく。
なぜこの演目が『足の骨を鳴らすな』『舞台の柱を激しく打つな』という奇妙な古習(禁忌)と共に伝承されてきたのか。
それは、この演目のモデルとなった『実在の人物』が迎えた惨たらしい自壊の様を、かつての一族が後世への戒めとして、あえて様式美のなかに封じ込めたからではないだろうか?
1943年(昭和18年)初頭 ~ 1944年(昭和19年)夏頃
ソロモン諸島における日本軍との戦闘記録より。
「According to unofficial accounts and leaked testimonies filtering out from official military records, a series of bizarre nocturnal raids suddenly targeted the night positions of the U.S. Army 32nd Infantry Division (or the 1st Marine Division). What made these incursions peculiar was that the attackers showed no signs of pain even when riddled with bullets, seemingly dissolving into the darkness in an instant, or appearing out of nowhere entirely alone before vanishing abruptly from the soldiers' field of vision.
A record left behind by a platoon on night patrol describes the following encounter: Beneath the moonlight, a figure resembling a mud-covered Japanese soldier was standing there. As they drew closer, however, they saw that its face was not covered in skin, but rather fused with a bizarre, dark-red, glistening 'mask (or a surface of raw, exposed flesh).' It refused to fall despite being subjected to a barrage of gunfire, instead closing in with an eerie, creeping gait. Driven by terror, the soldiers panicked, opened erratic fire, and abandoned the position in a complete rout.
Eventually, prompted by the local command's growing exasperation with these persistent, elusive intruders, the U.S. forces carried out a calculated ambush with a full infantry company. Unleashing a torrential crossfire of massive hand grenade bombardments and four heavy machine guns, they finally succeeded in neutralizing the intruder. This commotion forced the offensive operations against the Japanese positions to be delayed by approximately four days.」
「日本語訳
非公式の記録や、公式の軍事記録から漏れ伝わる裏の証言によると、米陸軍第32歩兵師団(または第1海兵師団)の夜間陣地に対し、突如として奇妙な夜襲が相次いだ。
特異なのは、その襲撃者が銃弾を受けてもまるで痛がる様子がなく、一瞬で闇に溶けるように消える。
あるいはどこからともなく単身で現れ、兵士たちの視界からふっと姿をくらますという点だった。
ある夜間哨戒中の小隊が残した記録には、次のような遭遇譚が記されている。
月明かりの下、泥まみれの日本兵の姿をした何者かが立っていた。
だが、近づいてよく見ると、その顔面には皮膚ではなく、赤黒く艶めく異様な『仮面(あるいは剥き出しの肉の面)』のようなものが張り付いていたという。
激しい銃撃を浴びせても倒れず、むしろ不気味な足取りでこちらにジリジリとにじり寄ってきたため、恐怖に駆られた兵士たちはパニックを起こして銃を乱射し、総崩れとなって陣地を放棄した。
やがて、幾度も続くこの得体の知れない侵入者に業を煮やした現地司令部の指示により、米軍は一個中隊による周到な待ち伏せ総攻撃を決行。
大量の手榴弾と4挺の重機関銃によるすさまじい十字砲火を浴びせかけ、ようやくこの不気味な侵入者を仕留めるに至ったという。
この騒ぎにより日本軍陣地に攻勢をかける作戦が、4日ほど遅滞せざるを得なかった 。」
同戦闘に関すると思われる日本軍側の記録。
「昭和18年(または19年?)某月某日(所々かすれており読めず)
我が陣地に対する敵米軍の総攻撃は、目前に迫りつつあった。
然るに、折からの物資窮乏により防御陣地の構築は到底十分とは言い難く、将兵一同、全員玉砕の覚悟を固め、静まり返る極限の緊張下にあってその時を待っていた。
斯様な絶望的状況のなか、一兵卒が挺身して直訴に及んだ。
「我が守りはまだ固まっていない。
自分が単身で敵陣へ赴き、奴らを足止めしてくる。
その間に少しでも陣地の構築を進めてほしい。」、と。
もとより生還を期さぬ決死の志願であり、苦渋の末にこれを許可したところ、その兵士はたった一人で闇夜へと、言霊の如く消え去っていった。
驚くべきことに、その一兵士は単身で敵の包囲網を攪乱し、連夜にわたる奇襲と神出鬼没の夜襲によって、実に四日もの間、米軍の大部隊を足止めし続けたのである。
彼の命懸けの奮戦により、我が部隊は奇跡的に十分な防備を固めるための時間的猶予を得ることができた。
そして第五日目の激しい戦闘の末、圧倒的な物量を誇る米軍の猛攻を辛うじて撃退し、陣地を死守することに成功したのである。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
あれほど獅子奮迅の働きを見せた彼は生還せず、壮烈な戦死を遂げていたことが確認された。
我々は、彼が文字通り一身を以て部隊と陣地を救ってくれた恩義に涙し、銃砲弾飛び交う戦火の中、全員で丁重にその遺体を葬った。
彼の遺体は損壊がひどく、おそらく米軍は重機関銃を使用したものか、銃創だらけであった。
彼の身体は内出血なのか遺体全体が赤黒く変色していたが、少し不思議だったのが彼の体の表層に大量の鉄片が刺さっていた事だ。
鉄片自体は手榴弾の物なのは一目で分かったが、通常はもっと体内に深く突き刺さっているものなのだ。
彼の体に刺さった鉄片はいずれも全て彼の厚い胸板や腹筋の表層で止まっていた。
我々は勇士の遺体からそれらの鉄片をすべて取り除いたが、両手の平に収まりきらない程の量であった。
そして彼の遺体は、やはり不思議なことに身体中の骨が砕けていた。
これは無数の重機関銃の銃弾によって骨格が粉砕されたのだろうか?
我々の命を救ってくれた勇者の亡骸を埋葬し終えた時、誰もが彼に感謝の黙祷を捧げた。
彼なくして、今日の勝利は断じてあり得なかった。
ここに、その勇敢なる犠牲と忠烈の精神を深く後世に伝え、衷心より哀悼の誠を捧げるものとする。」
これらは国会図書館に残された太平洋戦争当時の記録である。
米軍側の記録は当時は兵の士気に関わるとして箝口令が敷かれていたようで、戦後かなりたってから機密解除により公開された記録の中に紛れ込んでいたものを、著者が発掘したものである。
著者はこの資料を手掛かりに調査してみたところ、この地獄の島より生還した旧日本軍の兵士がいまだ御存命であることを突き止め、急遽連絡を取ってみた。
彼はすでに100歳を超える御高齢であり、すでに病院のベッドから動けなくなっていたため、ご家族には一度断られてしまった。
しかし、どうしても生きているうちに当時の話しを後世に伝え残しておきたい、とのご本人の強い希望があり、病院の一室でのインタビューが実現した。
この御老人を仮にA氏としよう、A氏はすでにあちこちにチューブが付けられており、言葉も不明瞭だったが、ご家族の通訳協力で何とか話を伺うことができた。
以下がその要約である。
「我々は彼の亡骸を葬った後、なんとか生きて終戦を迎え帰国することができた。
帰国したら彼のご家族に彼がいかに勇敢だったか、いかに立派な最後だったかを是非にとも伝えねばと思い、彼の遺髪を戦地より持ち帰ったのだが、どうしても彼の家族に関する情報が見つからない。
終戦直後の混乱期だったこともあり、やむなく、せめて海の見える岬にソロモン島の方角に向けて、彼のための小さな鎮魂碑を建て、遺髪はそこに収めた。」
とのことであった。
著者は彼とそのご家族に丁重に礼を述べ、病室を後にした。
翌日著者は地図でA氏に聞かされた場所を確認し、夜まで待ってから夜行バスに揺られて現地を訪れた。(飛行機なんか使えるほどの軍事費はない!!)
朝まで野宿で夜を明かし、それと思わしき岬を探してみたのだが...見つからない。
たまたま近くを通りかかった、犬の散歩をしていた地元の老人に聞き込みをしたところ、「おそらくアレのことではないか」
との有力情報を得、そのあたりを探索してみた。
おり悪く真夏、しかもその年は猛暑だったため、ようやくそれらしい碑を見つけた時は汗だくになっており、思わずその場にへたり込んでしまった。
A氏に聞いていたイメージより小さかったのと、猛暑により伸び放題の雑草に隠れていたのだ、そりゃあ見つからんわな。
しかしようやく見つけたと思いきやまた一難、戦後80年もたったその小さな碑の表面はすでにコケがびっしりと覆いかけており、ほとんど読めない。
著者は一休みした後、ゾンビのように目についたコンビニへとふらふらと向かった。
すでにここまでの探索の合間に、近くの自販機でポカリスエット三本が犠牲となっている、ここで諦めるわけにはいかないのだ。
命からがら太陽から逃れ、コンビニに転がり込んだ筆者は、雑誌コーナーでたっぷり30分火照った体を冷却したのち、タワシとバケツを購入。
店員に頼み込んで、バケツ一杯分の水を調達してから再び碑のある場所へと戻った。
そこから何度も休憩をはさみながらコケに水をかけ、湿らせてからタワシで碑の表面を欠損させないように慎重にゴシゴシとこすり、コケをこすり落とす作業だ。
2時間近くかけ、ようやく碑に刻まれた文字の全文が読めるようになった頃には、ヒグラシが鳴き始めていたのを鮮明に覚えている。
途中何度も休憩とコンビニとの往復を繰り返し、すでにビール三本とガリガリ君二本の追加予算を投じている。
当時の著者の財政状況からすれば、国が傾かんばかりの巨額の投資である、著者の努力と取材にかける熱意を評価して欲しい。
また、お歳暮や暑中見舞いはアサヒスーパードライを所望するが、ただの独り言であり何かを期待しているわけでは決してない。
ただ読者がどうしてもというのなら、月刊アトランティス編集部・荒吐九十九宛てにて年がら年中受け付けているので、読者諸兄の記憶の片隅にでも留めておいて頂ければ幸いである。
ハムなども付けて頂けるなら、著者の慎ましやかな生活が少しだけ潤う。
冗談はさておき、碑に刻まれていた内容のほとんどはA氏から聞いた話のとおりであった。
しかし一つだけ、著者が知りたかった新情報が刻まれてあった。
例の勇敢な兵士の氏名である。
取材時にA氏にも聞いてみたのだが、御高齢のA氏の弱々しい声ではご家族の通訳を通しても
「...らが...ける上等兵だった」
としか聞き取れなかったのだ。
そこに刻まれていた文字は
「忠勇無双の勇士 由良上 武流上等兵」
であった。
読みは由良上 武流であろうか?
満足した著者は碑に黙とうを捧げ、追加で購入した缶ビールと小さなお饅頭を勇士の鎮魂碑にお供えし、その夜の夜行バスにて帰宅した次第である。
この取材はずいぶん前に行った取材記録であり、正直著者も忘れていたのだが、改めて読み返してみると、いろいろと符合する。
米軍側記録によれば件の謎の日本兵には
「赤黒く艶めく異様な『仮面(あるいは剥き出しの肉の面)』
のようなものが張り付いていたという。
激しい銃撃を浴びせても倒れず、むしろ不気味な足取りでこちらにジリジリとにじり寄ってきた 、という記述。
たった一人で4日も米軍を遅滞させるほどの身体能力と不死身ぶり、彼の遺体の赤黒い変色、手榴弾の破片を筋肉表層で食い止める異常な筋密度。
全身の骨が砕けていたというのも重機関銃で蜂の巣にされただけでそうなるものだろうか?
そして何より由良上という変わった響きの苗字、彼の家族に関して全く分からなかったという証言...
ここまで読んだ読者の皆さんも、著者と同じ推測にたどり着いているのではないだろうか?
これらの古伝口伝などの古い忘れ去られた記録は、著者が長らく行ってきた日本全国から蒐集した地方の土着伝説の類である。
著者の自慢のコレクションでもあったが、著者はこれらの伝承は全てバラバラの情報であり特に繋がりなどは無いものと考えていた。
しかし後述する御子神家の記録を通じて、ある仮説にたどり着いたのだ。
著者が御子神 巴氏のご厚意によりお貸し頂いた御子神家の伝書資料の中の片隅に、異様な記述を発見した。
「霞の眼を行ふ時は、息は胸に至るまでにて留むべし。
決して腹の奥深くまで息を入れてはならぬ。
それは霞の眼の誘う暗がりの深淵へ、自ら戻れぬほどに足を踏み入れぬ為の戒めなり。
此の禁破らば、二度と還れぬ深き深淵に呑み込まれ、人の理も外見も忘れて、ただ外法の獣と成り果てん。
獣と成りし者は、己が金剛の力を以て我が身を微塵に砕き、死に果つるまで殺生を重ねる悪鬼と化さん。
二度と人界へは戻ること能はず。
努々(ゆめゆめ)忘るることなかれ。」
(霞の眼を用いるときは呼吸は胸式呼吸で浅く行え、決して腹式呼吸で深く行ってはいけない、自己暗示をかけるためのトランス状態が深くなり、暗示が強くかかりすぎるからである。
強くなりすぎた暗示により理性が崩壊し、限界を超えて解放される筋力は自分自身の骨格まで破壊してしまう。
理性を失い獣のようになった者は、二度と人間の理性を取り戻すことはなく、目の前の動くもの全てを殺戮し尽くし、自身の肉体の全ての骨格が砕け尽くすまで狂乱の殺戮を続ける、この禁は決して破ってはならない。)
…現代語訳するとすれば、こんなところだろうか?
この異様な文章で注目すべきは
「自身の異常に増大した筋力で自身の肉体を破壊する。」
という点であろう。
またその状態になれば、もはや理性や生物としての自己保続本能のブレーキすら消え失せ、破壊衝動のままに自身の肉体を自壊させながら、狂乱状態を動けなくなるまで継続する、という点である。
前述の著者が日本各地から集めた伝承記録を、この御子神の記録を読んだ後、息抜きがてら整理しようと改めて読み返している時に著者はあるインスピレーションを得た。
どうだろうか?
この雑文を読んでいる読者にも、これに気づいた時の著者の衝撃の意味がそろそろお分かり頂けたのではないだろうか?
この可能性に思い至った時、著者は背中に氷を突っ込まれたような感覚に陥った。
真夏だというのに、全身の汗が一瞬で引いていくような感覚を覚えた。
これらの日本各地へと残る伝承の…もちろん全てではないのだろうが----
いくつかは御子神から別れ、霞の眼の深遠という禁忌に溺れて行った、朱羅神一族の末路が伝説化したものではないだろうか?
もちろん、これが論理の飛躍が過ぎることは著者も重々承知である。
だが歴史の闇や空白に、空想の翼を羽ばたかせてみる権利は誰にでもあるはずだ。
著者は自身の仮説の正しさを証明するためにも、今後ともにこの特異な一族とそれにまつわる歴史の残滓を追い求めていくつもりだ。
これらの資料は新しい何かが分かり次第随時追加、更新していくつもりである。
なお、本稿に興味を持っていただけたとあるメディアがGeminiNotebook上にて、番組の裏話制作という体裁で、居酒屋 童において雑談形式のフリートークではあったが、ポッドキャスト音声ファイルを作って頂けたとの連絡が編集部にあり、喜んで拝聴させて頂いた。
本稿の内容を大変良く要約した内容となっており、荒吐の取材の苦労も評価して下さる好意的な内容となっていた。
著者の執念の結晶とも言える本稿の内容を取り上げて頂いたことに対し、荒吐と編集部一同より厚く御礼を申し上げるものである。




