四十三話 作法
イツキとうさぎの館、その寝室は、ひどい有様だった。
脱ぎ散らかされた着物が床のあちこちに落ちている。帯はほどけたまま椅子の脚に引っかかり、襦袢は半ば裏返っていた。さっきまで無理やり着せられていた名残が、そのまま部屋中に残っているみたいだった。
私はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
下着姿のまま、動く気力もない。
胸の奥がずっと重い。
思い出すだけで、顔が熱くなって、でも恥ずかしいを通り越して、今はただ落ち込みだけが残っていた。
「うさぎ……そんなに気にしなくてもいいって」
華菜が、ベッドの端に腰掛けて、私の頭を優しく撫でてくれる。
その手は柔らかくて、少しだけ泣きそうになった。
「だって、皆の前であんなの……。絶対、ちゃんとしてると思った……」
賽筒を持った時の視線。
客達のざわめき。
そして、自分だけが何も知らなかったあの瞬間。
思い出すたびに、布団を頭から被って消えてしまいたくなる。
「まあ、そりゃ恥ずかしかったとは思うけどさ」
華菜は苦笑しながらも、撫でる手を止めなかった。
「でも、誰だって最初は失敗するでしょ? うさぎ、あんた今まで変なところで無茶苦茶だったくせに、こういう時だけ妙に落ち込むのよね」
「だって、壺振り、ちょっと格好いいと思ってたし……」
「そこなの?」
華菜が呆れたように笑う。
でも、その笑い方は優しかった。
部屋の隅では、イツキが椅子に腰掛け、静かにこちらを見ていた。
いつものように脚を組み、肘掛けに頬杖をついている。
「その様な事で諦めるのか?」
イツキが口を開いた。
低く、けれどよく通る声だった。
「うさぎ様らしくない」
その言葉に、私はゆっくりと視線だけを向ける。
イツキは、私を哀れむでもなく、馬鹿にするでもなく、ただ真っ直ぐ見ていた。
「そなたは、失敗したからといって止まる者ではあるまい。知らぬなら覚えればよい。出来ぬなら出来るまでやればよい。それだけの話じゃ」
「そんな簡単に言うけど……」
「簡単な事じゃ。少なくとも、ここで寝転がっておるよりはな」
ぐうの音も出ない。
華菜が小さく吹き出した。
「ほら、イツキにも言われてるじゃない」
そう言って、また頭を撫でられる。
悔しい。
でも、少しだけ落ち着く。
その時、不意に扉の向こうから声がした。
「次郎でございやす。うさぎお嬢、イツキ様、少しよろしいで?」
私は飛び起きかけて、今の自分の格好を思い出した。
「あ」
「あ、じゃない!」
華菜が慌てて立ち上がる。
「早くこれ着なさい!」
華菜は床に落ちていた寝巻きを拾い上げると、半ば強引に私へ着せ始めた。
腕を通され、前を合わせられ、帯を軽く結ばれる。
「自分で着るから!」
ばたばたと支度を整えられ、どうにか人前に出られるくらいの格好になったところで、イツキが静かに言う。
「入るとよい」
扉が開き、次郎さんが入ってきた。
次郎さんは、部屋へ足を踏み入れるなり、私の顔を見る。
その表情には、申し訳なさがはっきり浮かんでいた。
「お休みのところ、失礼しやした」
「い、いえ……」
さっきまで落ち込んでいたせいで、うまく表情が作れない。
次郎さんはそんな私の様子を見て、さらに頭を下げた。
「今、大朝が代わりに壺を振っておりやす」
「大朝さんが?」
「へい。場はどうにか回っておりやす」
そこで次郎さんは、一度言葉を切ると、深く頭を下げた。
「……うさぎお嬢、申し訳ありやせんでした」
部屋の空気が少しだけ張る。
「作法を教えなかったのは、こちらの責任でございやす。お嬢に恥をかかせちまいやした」
「そ、そんな……」
私が慌てて声を上げるより早く、次郎さんは続けた。
「本来なら、場に立つ前にきっちりお伝えすべきことでござんした。そこを怠ったのは、完全にこちらの落ち度。言い訳はできやせん」
真っ直ぐな謝罪だった。
誤魔化しも、取り繕いもない。
だからこそ、胸の中に溜まっていた悔しさが少しだけ形を変えた気がした。
次郎さんは顔を上げる。
「もし、お嬢がまだ壺振りを諦めておられねえなら……」
その目は真剣だった。
「これより、作法をお教えしたいと思っておりやす」
私は、思わず次郎さんの顔を見返した。
「作法……」
私は、寝巻きの袖を握ったまま、次郎さんを見た。
作法。
その言葉だけで、また胸が少し痛くなる。
さっきの視線を思い出す。
皆の前で、何も知らないまま壺を振ろうとした自分を思い出す。
恥ずかしい。
悔しい。
でも、次郎さんは頭を下げてくれている。
私だけが悪いわけじゃないって言ってくれている。
「……お願いします」
小さく言うと、次郎さんは静かに頷いた。
「へい」
次郎さんは部屋の中央に膝をついた。
床に落ちていた着物や帯を、華菜が慌てて端へ寄せる。
イツキは椅子に座ったまま、じっとこちらを見ていた。
「まず、壺振りってぇのは、ただ賽を壺に入れて振るだけじゃありやせん」
次郎さんは懐から賽を取り出し、手のひらに乗せた。
「場にいる客は、賽を見ているんじゃねえ。壺振りの指先、呼吸、目線、間。その全部を見ておりやす」
「全部……」
「へい。だから、慌てちゃいけねえ。急いでもいけねえ。場を急がせるんじゃねえ。壺振りが、場の時間を決めるんでさ」
次郎さんは、賽筒を手に取った。
「最初に、筒の中を見せやす。細工がないと見せる。次に賽を手のひらへ乗せる。これも同じでさ。賽に細工はねえ。そう客へ見せる」
次郎さんの動きは綺麗だった。
派手じゃない。
速くもない。
でも、目が離せない。
賽筒を少し傾ける。
中を見せる。
賽を手のひらに乗せる。
指先を揃え、少しだけ間を置く。
ただそれだけなのに、部屋の空気が変わった気がした。
「お嬢。やってみなせえ」
「は、はい」
私はベッドから降りて、次郎さんの向かいに座った。
寝巻き姿でやるのは少し変な感じだったけど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
賽筒を持つ。
中を見せる。
賽を手のひらに乗せる。
「手が震えておりやす」
「だ、だって……」
「震えても構いやせん。ただ、震えを隠そうとしちゃいけねえ。隠すと、客はそこを見る」
「見る……」
「へい。なら、震えている手ごと、見せてしまえばいい。怖がってねえと、堂々と」
私は息を吸った。
もう一度、賽筒を持つ。
ゆっくりと傾け、中を見せる。
賽を手のひらに乗せる。
今度は急がない。
皆に見られていると思うと、心臓がうるさい。
でも、次郎さんの言った通り、隠そうとしない。
手のひらの上の賽を、ただ見せる。
「そうでさ」
次郎さんの声が、少し柔らかくなった。
「次に壺でございやす」
壺を手にする。
賽を壺の中へ入れる。
軽く伏せる。
「振る時も、力はいりやせん。強く振ればいいってもんじゃねえ。賽が壺の中で跳ねる音。そこにも品が出やす」
「品……」
「へい。壺振りは、場の顔でさ」
私は壺を持った。
小さく振る。
からん、と音が鳴った。
「もう少しゆっくりでさ。音を追うんじゃねえ。音に場を寄せる」
よく分からない。
でも、何となく分かる気がした。
私は目を閉じた。
壺の中の賽を感じる。
手首を少し動かす。
からん。
からん。
音が、部屋の中に落ちる。
さっきまで散らかっていた寝室が、少しずつ静かになっていく。
華菜の息遣いも、イツキの気配も、次郎さんの視線も、全部そこにある。
でも、不思議と怖くなかった。
壺を伏せる。
私は、ゆっくりと手を離した。
「……」
誰もすぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのは、華菜だった。
「うさぎ……」
「な、何?」
「かっこいい」
思わず顔が熱くなる。
「恥ずかしいんだけど」
「今の、すごくかっこよかった」
華菜は本気で言っている顔だった。
イツキも、椅子に座ったまま私を見ている。
その目が、いつもより少しだけ熱い気がした。
「良い」
イツキが小さく呟いた。
「……え?」
「良いと言ったのじゃ」
イツキはそれ以上言わなかった。
けれど、その視線だけで、何だか胸の奥が落ち着かなくなる。
次郎さんは、私の所作を見て、深く頷いた。
「お嬢」
「はい」
「お嬢の作法は、とても静かで、ゆっくりしておりやす」
「それ、遅いってことですか?」
「違いやす」
次郎さんは首を横に振った。
「見る者を惹きつける静けさでさ。急がねえ。焦らねえ。けれど、目が離せねえ。お嬢の壺は、場を引き寄せやす」
場を引き寄せる。
その言葉に、胸が少しだけ震えた。
次郎さんは立ち上がると、扉の方へ向いた。
「岩間」
声をかけると、廊下から返事があった。
「はいよ、オヤジ」
扉が開き、岩間さんが入ってきた。
次郎さんとは違って、岩間さんの喋り方は普通だった。
年はそれなりに見えるけど、目が鋭い。
人を見ることに慣れている人の目だった。
「呼びましたか?」
「仕上げを頼みてえ」
次郎さんが言うと、岩間さんは私を見た。
上から下までじっと見られて、私は思わず寝巻きの前を押さえる。
「あー……なるほど」
「な、何ですか?」
「いや、素材が良すぎるなと思って」
「素材?」
岩間さんは苦笑した。
「俺、こっちに来る前は芸能事務所でマネージャーやってたんだよ。ついでに、現場でメイクもやってた。人をどう見せるかは、少し分かる」
「芸能……」
岩間さんは、次郎さんを見る。
「オヤジ、本気でやるのか?」
「やる」
「博打の世界で、この子をアイドルにする気か?」
「そうでさ」
次郎さんは迷わず答えた。
「壺振りで場を支配できるお嬢なんざ、そうはいねえ」
「分かった」
岩間さんは袖をまくった。
「じゃあ、仕上げますか」
「仕上げるって……」
私が聞き返す前に、華菜が目を輝かせた。
「メイク!? 私も見たい!」
「華菜、楽しんでない?」
「うん。楽しくなってきた」
岩間さんは道具を取り出した。
小さな刷毛、粉、紅、髪を整える櫛。
見たことがあるような、ないような物が並ぶ。
「派手にはしない。うさぎちゃんは、作りすぎると良さが死ぬからね」
「ちゃん付け……」
「ははは。 うさぎちゃんはうさぎちゃんだよ」
岩間さんの手つきは本当に慣れていた。
頬に薄く色を乗せる。
目元を少しだけ整える。
唇にも、ほんの少しだけ紅を差す。
それだけで、鏡の中の自分が少し違って見えた。
別人じゃない。
でも、さっきまで落ち込んでベッドに転がっていた私じゃない。
次に、岩間さんは私の髪に触れた。
「うさ耳が隠れるのはもったいないな」
「え」
「ここを少し上げる。耳が目立つようにする。髪は流して、顔周りはすっきり。壺を振る時、首筋と指先が綺麗に見える」
「く、首筋……」
「大事。人は動きの線を見るから」
岩間さんは淡々と言いながら、髪を整えていく。
うさ耳が自然に見えるように、髪をまとめる。
わざとらしくない。
でも、ちゃんと目立つ。
最後に着物を着せられた。
さっきとは違う。
着せられているだけじゃない。
壺を振るための姿になっていく。
帯を締められ、襟を整えられ、袖を落とされる。
「はい。完成」
岩間さんが一歩下がった。
華菜が両手を口元に当てた。
「可愛い……」
「本当に?」
「本当に。可愛いし、綺麗だし、ちょっと悔しいくらいかっこいい」
イツキは、椅子から立ち上がることなく、私を見ていた。
その表情は静かだったけど、目だけが違った。
「良い」
また、同じ言葉。
でも、さっきよりも低く、深かった。
「とても良い」
私は、また顔が熱くなる。
「そ、そんな見ないでよ……」
「見るに決まっておろう」
イツキは当然のように言った。
「今のうさぎ様を見ずして、何を見るというのじゃ」
変なことを言っている。
でも、少しだけ嬉しかった。
次郎さんが、静かに私の前へ立った。
「うさぎお嬢」
「はい」
「もう一度、賽を振りやすか?」
部屋の空気が止まった。
華菜も、イツキも、岩間さんも、何も言わない。
誰も急かさない。
私は俯いた。
怖い。
また失敗したらどうしよう。
また笑われたらどうしよう。
また、何も知らない自分を見られたらどうしよう。
指先が少し震えた。
でも、さっき次郎さんが言っていた。
震えを隠そうとしちゃいけない。
隠すと、客はそこを見る。
なら、怖いまま行けばいい。
怖い私ごと、見せればいい。
私は顔を上げた。
その瞬間、自分でも分かった。
胸の奥に、何かが灯った。
「振ります」
声は小さかった。
でも、迷いはなかった。
次郎さんが、満足そうに頷いた。
「へい」
華菜がそっと私の背中を押した。
「行ってきなさい、うさぎ」
「うん」
イツキが言った。
「見せてくるがよい」
私は頷いた。
次郎さんが先に扉を開ける。
岩間さんがその後ろにつく。
華菜とイツキも続いた。
廊下を歩く。
さっき逃げるように戻ってきた道を、今度は自分の足で進む。
館を出ると、テントまでの間に『さんピン」という、博打を教えて貰う。
そして、今宵の場は大きく負ける様にと次郎さんが、真面目な顔で言った。
華菜が「負ける? なんで?」と次郎さんに食いついたが、次郎さんか言うには、何事も宣伝には金が必要と笑った。
遠くから、賭場のざわめきが聞こえてきた。
人の声。
笑い声。
賽の音。
大朝さんの張った声。
胸が鳴る。
怖い。
でも、戻りたいとは思わなかった。
テントの入り口が見えた。
その遠くにリングがあり、そのリングでは、リンクとキルアさん、そして直哉が語り合っている様だった。
リンクがこちらに気がつくと手を挙げた。
華菜が手を振ると、キルアさんと直哉も手を挙げる。
テントから灯りが漏れている。
次郎さんが暖簾を上げた。
ざわめきが、一瞬だけ小さくなる。
私は、その中へ足を踏み入れた。
テントの賭場に、もう一度、姿を見せた。
すると、客の中から声が上がる。
大朝さんが、盆前に座り、こちらを見ていた。
その顔は、笑顔であった。
「次郎! またそいつに賽を振らせる気じゃないだろうな! ふざけるな!」
その一言を聞くと、指の震えが止まらなくなった。
しかし、私の決心は揺らぐ事はなかった。
その場で三つ指をついた。
「先程の不作法、お許しください。何卒、今一度」




