三十二話 イナと契約
「きも〜」
「慣れれば大丈夫だよー」
私とイナは、上流に移動してきた。ここまで来るのには大変ではなかった。川沿いに草原が広がっている丁度良い場所を見つけ、ここで釣りをする事となった。川幅はとても広く底が見えない。イナは、とても楽しそうだ。
「そぉれー」
「ひぃぃぃぃ」
イナがミミズを掴むと投げてきた。
あまりの気持ち悪さに体が硬直する。
「あははは! うさぎおもしろー!」
「やめろ!」
竿は、細長い木の棒に、糸がついているだけの簡単なものだった。
けれど、糸の先にはちゃんと浮きと重りと針がついている。
魔族の皆は、魚釣りも想定していたのだろうか?
「イナ、ミミズつけて」
「自分でやりなー」
「ヤダ、気持ち悪い」
「ダーメ!」
「ちっ」
鳥肌が……。
ミミズの感触が……。
横を見ると、イナは餌をつけて投入している。
そして、草むらの上に寝転がった。
気持ち悪いのを、なんとか我慢して投入すると、ウキが二つぷかぷかと浮かんでいる。
それを見て、イナの横に座った。
「ねぇ、あんた、あの白い場所にいなくていいの?」
ふと思ったことが、口から出ていた。
白くて何もない場所。
私は勝手に、あそこがイナの家みたいなものだと思っていた。
「あんな所、いたくない……」
返ってきた声は、いつものイナの声じゃなかった。
川の音だけが聞こえる。
草が風に揺れて、ウキが水面で小さく揺れた。
「……何で?」
イナは、すぐには答えなかった。
草の上に寝転がったまま、空を見ている。
雲ひとつない空。
イナの横顔は少しだけ寂しそうに見えた。
「あの場所にね、地球の時間で言うと、二千年くらいかな? 一人でいたんだよー」
「はっ? ……にせん……ねん?」
意味が分からなかった。
二千年。
言葉としては分かる。
けれど、想像が追いつかない。
一日でも、一人で真っ白な場所にいたら気が狂いそうなのに。
一年でも無理だ。
十年なんて考えたくもない。
それが、二千年。
「……本当、なの?」
「あはは。どっちだと思う?」
イナは笑った。
でも、その笑い方は、いつもの「あはは」じゃなかった。
嘘をついている笑いじゃない。
本当のことを、冗談みたいにして誤魔化している笑いだった。
私は、何も言えなくなる。
「最初はね、何もなかったんだよー」
イナは空を見たまま言った。
「白いだけ。音もない。そして、ミミズもいない」
「ミミズはいなくていい」
「あはは。うさぎはそう言うと思った」
少しだけ、いつものイナに戻った気がした。
「寂しかったんだよね。ずっと。ずっとずっと、寂しかった」
その言葉は、軽かった。
川を見ると、ウキが二つ、ぷかぷか浮いている。
隣に誰かがいる。
それだけのことが、イナにはきっと、すごいことなんだと思った。
「だから、世界を作ったの?」
「うん」
イナは、あっさり頷いた。
「長い時間が掛かったけどねー。人がいて、魔族がいて、動物がいて、私も楽しめる世界」
「……それで、人間を誘拐したの?」
自分でも、声が少し硬くなったのが分かった。
私も、その一人だ。
笑って釣りをしているけど、忘れたわけじゃない。
元の世界から、勝手に連れて来られた。
「うん。したよ」
イナは否定しない。
悪びれた様子もなかった。
「人間には悪いことしたと思ってる。でも、あの時の私は、そうするしか思いつかなかったんだよねー」
「……最低じゃん」
「うん。最低だよー」
あっさり認められて、逆に言葉に詰まった。
「怒っていいよ。うさぎも、巻き込まれた側だし」
「でも……」
私は、草を握った。
分かる。
分かりたくないけど、少しだけ分かってしまう。
二千年、一人でいた。
そのあとに、誰かがいる世界を作れたなら。
そこに入りたくなる気持ちは、たぶん分かる。
「何?」
気がつくと、私はイナの手を握っていた。
「うん……そか……今、楽しい?」
「当然! すごく楽しー」
その時、ウキがぴくりと揺れた。
「ん?」
私が見ると、ウキは一度沈みかけて、また浮かんだ。
「イナ、これって」
「まだ待ってー」
イナは横になったまま言う。
こんな話をしているのに、釣りはちゃんと見ているらしい。
「それでねー」
イナは、何でもない話みたいに続けた。
「今、この世界は大変な問題を抱えてるんだよー」
「大変な問題?」
「バグ」
「……バグ?」
私は眉をひそめる。
この世界では、その言葉が冗談で済まないことを、私はもう知っている。
「うん。どうしても消せないバグがあるの。私にも消せない。放っておくと、この世界は壊れる」
「壊れるって……どのくらい?」
「全部」
イナは、私を見る。
「全てがね」
胸が、嫌な音を立てた気がした。
「全部、消えるよ。うさぎも魔王もこの世界にいる全ての人や物がね」
「……冗談?」
「冗談だったら良かったんだけどねー」
イナは笑った。
また、いつもの笑い方じゃなかった。
私は、竿を握る手に力を込める。
「まだ時間はたくさんあるんだけどね。でも、確実にこの世界は消滅するんだ、このままだとね。何とか時間を延ばす為にやっているけど……うさぎに手伝って欲しい事があるんだよー」
「私に、何が出来るの?」
聞きたくなかった。
けれど、聞かなきゃいけない気がした。
「うさぎにしか出来ないこと」
「私にしか?」
「うん」
イナは起き上がった。
その目が、まっすぐ私を見る。
「盗むを育てて欲しい」
「盗むを?」
「そう。今はまだ無理。でも、いつか出来るようになる」
「何を盗むの?」
イナは、少しだけ黙った。
風が吹いた。
草が揺れる。
川の匂いがする。
ウキがまた、ぴくりと動く。
そして、イナは言った。
「この世界のバグ」
「……そんなもの、盗めるの?」
「盗めるよ」
イナは笑った。
今度は、いつものイナに少しだけ戻っていた。
「うさぎなら、きっと出来る」
「何その根拠のない信頼」
「根拠はあるよー」
「何?」
「うさぎは、八十億人の中で、たった一人だったから」
その言葉の意味は、よく分からなかった。
「私と契約して欲しいんだ」
「契約? 何の?」
「必ず世界を盗むって契約」
「え? 怖いんだけど?」
「大丈夫。契約すると、私の神性をいくらかうさぎに付与出来るからさー。そうすればスキルの成長速くなるしね?」
「本当に大丈夫なの?」
「うん。うさぎも神様の仲間入りだよー」
「神になんかなりたくないよ」
「でも、お願い。この世界を壊したくないんだ」
たしかに、このまま放置しているとこの世界が消えてなくなるなら……。
それを私が阻止する事に協力出来るなら……。
断る理由は無かった。
「分かった。この世界を本当に私が守る力があるなら」
「本当! やったー!」
イナが手を挙げて喜んだ瞬間に、ウキが勢いよく沈んだ。
バキッ!
一瞬で竿が折れる。
「はっ?」
「あはははははは!」
それを見たイナは、いつもの能天気な笑いをした。
バッシャーン!!
川の中から、三メートルはありそうな……魚が飛び跳ねる。
魚かあれ?
デカすぎじゃ?
「こんな竿で釣れるか! あんなの!」
折れた竿の一部を草に叩きつけた。
「あははは!」
イナは、お腹を押さえて笑っていた。
ちょうどこの時、少し離れた山の中腹にある石造りの館では、別の話し合いが行われていた。
大手クラン『ヴァルハラ』。
この一帯で、その名を知らぬ冒険者はいない。
所属人数は八百を超え、周辺の狩場、街道、資源地の管理にも深く関わっている。冒険者の集まりでありながら、もはや一つの町のような規模を持つクランだった。
その最上階。
長い円卓を囲むように、幹部達が座っていた。
南の草原は、ヴァルハラが長年管理してきた縄張りである。
そこに突然、魔族を連れた集団が町を作り始めた。
問題になるのは、必然だった。
「それで?」
円卓の奥に座る青年が、静かに口を開いた。
金色の髪を後ろで束ね、背筋を伸ばして座るその男こそ、ヴァルハラのクランマスター、
キルア。
「報告を続けろ」
「はっ。南の草原に、無許可で建築を始めた集団があります。人数は不明。ただ、目撃者の話では、人間だけではありません」
「人間だけではない?」
「はい。魔族と思われる者が多数」
円卓が、わずかにざわついた。
「魔族だと?」
「魔王軍か?」
「馬鹿な。魔王軍がこんな場所に町を作る理由がない」
幹部達の声が重なる中、キルアだけは表情を変えなかった。
「その集団の名は?」
報告役の男が、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「クラン名は……『かなり。』です」
その名が出た瞬間、数人の幹部が顔をしかめた。
「例の、王城爆破の?」
「百億ペニーの魔王討伐報酬を得たという噂の?」
「借金を踏み倒したのではなかったか?」
「全部同じ連中です」
報告役は、淡々と言った。
「中心人物は、リンク、華菜、直哉、詩韻兎です。始まりの街の噂によりますと、魔王も行動を共にしていると」
円卓の空気が、重くなった。
その沈黙を破ったのは、巨漢の幹部だった。
「潰しましょう。こちらの縄張りに無断で町を作るなど、見過ごせません」
「待て」
別の幹部が首を振る。
「相手は魔族を連れている。下手に手を出せばこちらの被害も甚大になる」
「ならば放置するのか?」
「そうは言っていない。まず調べるべきだと言っている」
幹部達の視線が、キルアに集まる。
キルアは、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「面白い」
「マスター?」
「潰すかどうかは、会ってから決める」
キルアは立ち上がった。
「俺が行く」
その一言で、円卓の空気が変わった。
「相手が話の通じる者なら、話す。通じないなら、決闘で決める。それが一番早い」
キルアは窓の外を見た。
「クラン『かなり。』か」
キルアは、楽しそうに笑った。
「まずは、筋を通させてもらう」




