第9回 闇の晩餐会――敵の懐(ふところ)で、毒を喰らう
「……敵の陣地に丸腰で行くなんて、嬢ちゃんも焼きが回ったんじゃねえか?」
馬車の車輪が、王都を離れ、帝国へと続く国境沿いの私道へと踏み込みました。
窓の外、朝凪の紋章を掲げた私の物流部隊が、テリトリーを守る猟犬のように等間隔で配置されています。……ですが、この先に待つ『帝国銀行総帥』の私邸へは、セレーネ一人を伴うことしか許されていません。
「丸腰? ふふ、心外ですわね。……私の脳内にある『帝国の全負債リスト』。これ以上に強力な兵器が、この世にあるとお思い?」
私は、膝の上に置いた小さな革の鞄を指先で叩きました。
グリスには王都の守りを任せてあります。……彼がかつて王家から受けた仕打ちを清算するためにも、今は一クローナの流出も許さない「門番」が必要ですから。
やがて、馬車が停止しました。
現れたのは、国境の崖を切り拓いて建てられた、黒真珠のような輝きを放つ邸宅。
そこに、彼は立っていました。
「ようこそ、朝凪の主人。……君の歩く道には、金貨が降るという噂は本当だったようだね」
レナード・クリストフ。
月の光を吸い込んだような銀髪に、底の見えない氷の瞳。
彼は、かつて私を捨てた王子の十倍はするであろう、最高級の「夜の礼装」を纏い、優雅に頭を下げました。……その所作一つ一つに、資本という名の暴力的なまでの洗練が宿っています。
「噂を真に受けるほど、帝国銀行は甘い投資をしているのかしら? ……初めまして、レナード氏。……いえ、私の『空売り』に失敗した、愛すべき債務者さんかしら?」
「はは、手厳しい。……さあ、中へ。……君の毒舌に見合う、最高の晩餐を用意させた」
案内された食堂は、床一面に敷き詰められた深紅の絨毯から、天井のシャンデリアに至るまで、文字通りの「贅の極み」でした。
私は椅子に座るなり、目の前の銀食器を指先で弾きました。
「……純度九八パーセントの銀。……デザインの減価償却を考えても、このスプーン一本でスラムの家族が一年暮らせますわね。……さすがは、他人の貯金で食う飯は美味しいようですわ」
「君ならそう言うと思った。……だが、今夜は『数字』の話をする前に、君という資産の『手触り』を確かめたくてね」
運ばれてきたのは、王国の市場では決して手に入らない、南方の稀少な果実を添えたジビエ料理。
レナードは、優雅にナイフを動かしながら、独り言のように呟きました。
「……君が王宮で行った通貨革命。……あれは、単なる復讐劇の範疇を超えている。……君は、この世界の『魔法』の正体に気づいているね?」
私のナイフが、わずかに止まりました。
……伏線。
第2話でグリスが叫んだ「消えた金」。第5話で暴かれたマリアの「奇跡」の対価。
それらが、レナードの言葉によって一本の線に繋がろうとしていました。
「……魔法は、未来の価値の先食い。……そうではありませんこと?」
「正解だ。……そして、その『リボ払い』の元帳を管理しているのが、君が持っているその『錆びた硬貨』だ」
レナードの瞳が、鋭く細まりました。
彼は、私の胸元に潜んでいる一クローナの正体を、確信を持って指摘したのです。
「……世界は巨大な銀行であり、神とはその支配人だ。……魔法という借金を使いすぎた人類は、今、破産の危機に瀕している。……君は、その債権を、あの無能な王家から奪い取った。……違うかい?」
「……詳しいですわね。……まるで、あなたも同じ元帳を覗き見ているかのような物言いだわ」
「まさか。……私はただの『両替商』だよ。……ただし、世界を滅ぼすほどの巨大な借金を、どうにかして『徳政令』でチャラにしたいと考えている、ね」
レナードが、グラスを掲げました。
その中身は、血のように赤いヴィンテージ・ワイン。
「アイリス。……私と組まないか。……朝凪の『信用』と、帝国の『資本』。……二つが揃えば、私たちは神の銀行を買い叩き、世界の所有権を書き換えられる」
……求婚、ではなく。
それは、世界を分かち合うための『合併契約(M&A)』の提案でした。
私は、ゆっくりとワインを口に含みました。
芳醇な香りの裏に、かすかな「鉄」の味。
「……面白い提案ですわ。……ですが、レナード。……私は、他人の帳簿を共有するのが大嫌いですの。……特に、私を出し抜こうとしている相手とは」
「……おや、バレたかな」
レナードが微笑んだ瞬間、邸宅の周囲から、重厚な鎧の擦れる音が響きました。
帝国銀行直属の私兵部隊。……物理的な包囲。
「君の『一クローナ』を、ここで私に譲渡してくれないか。……代価は、君の命と、君が救った王国の安全。……悪くない投資だと思うが?」
「……セレーネ」
私が名を呼ぶより先に、影の中からセレーネが跳躍しました。
彼女の短剣が、レナードの首筋に届く……その直前。
ガキン、と。
レナードの背後に立つヴィクター――泡を吹いて倒れたはずのあの男が、見たこともない速度で短剣を弾き飛ばしました。
「……残念だよ、アイリス。……君を買い叩くのは、もう少し先にしたかったのだが」
レナードの瞳から、優雅さが消え、捕食者の本能が溢れ出しました。
「……甘いですわね、レナード。……私が、この邸宅に『自分の足』で来たとお思い?」
私は、手元の銀のスプーンをテーブルに突き立てました。
……その瞬間。
邸宅が、激しい地響きとともに揺れました。
「……な、なんだ!? 地震か!?」
「いいえ。……この邸宅の地下を通る『金鉱脈』の権利。……今朝、私が地元の豪族からすべて買い取りましたわ。……そして今、私の部下たちが、坑道を爆破してこの邸宅の『地盤』を文字通り買い崩しているところです」
窓の外。
漆黒の邸宅が、ゆっくりと崖の下へと傾き始めました。
「……私を閉じ込めるなら、この建物ごと、奈落の底へ落ちる覚悟をしていただく必要がありますわ。……レナード、あなたの命……。……現在の市場価値は、いくらになりますかしら?」
崩れゆく晩餐会。
悲鳴を上げるヴィクターを他所に、私とレナードは、倒れゆく世界の中で互いを射抜くように見つめ合いました。
これが、真の商談。
命という名の、最高額のチップを賭けた、狂宴の始まりです。
第9回、最後までお読みいただきありがとうございます。
ライバル、レナード・クリストフとの初対面にして、即座に命懸けの「地盤買収」で応戦するアイリス様……。
愛の告白ならぬ「合併提案」を、物理的な爆破で断るその姿、まさに資本主義の女神です。
そして語られた、世界の魔法に隠された「借金」の謎。
物語のスケールは、もはや一国の存亡を超え、世界のシステムそのものへの反逆へと向かいます。
果たして、崩落する邸宅からアイリス様は生還できるのか。
そして、レナードはこの「損害」をどう挽回してくるのか……。
次回、「奈落の底の配当――生きて戻るまでが商売ですわ」。
瓦礫の中で、二人の天才が交わす「本当の契約」とは。
「私の命の値段、高く見積もっていただけるかしら? あなたの『評価』と『ブクマ』が、私の生存戦略の支えとなりますの。投資、お待ちしておりますわ」




