第6回 通貨の革命――王の顔より、私のサインを
「未来を担保にした先食い……? そ、そんなはずはありませんわ! 私の祈りは神聖なもので……!」
マリア様が、力なく床にへたり込みました。
私がかざした『錆びた一クローナ』は、彼女の放つ光を吸い込み、どす黒く変色させたまま沈黙しています。
広間に集まった貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように彼女から距離を置きました。……ふふ、昨日まで「聖女様」と崇めていた口で、今は「疫病神」とでも言いたげな怯え。人間という資産の流動性は、相変わらず極めて高いですわね。
「セドリック様。……聞こえていらして?」
私は、絶望に震える王子の目の前に、一束の『紙』を提示しました。
それは、王家の紋章ではなく、朝凪商会の刻印が押された簡素な羊皮紙です。
「これを、何と心得る……。ただの紙切れではないか」
「いいえ。これは『信用』ですわ。……王宮の金庫が底を突き、金貨の価値が暴落した今、この国で最も価値のあるサインが書かれた紙。……私の、サインです」
私は、グリスを呼び寄せました。彼は汚い麻袋の中から、数枚の本物の金貨を取り出し、広間の中心に置きました。
「カカッ! いいか、お貴族様方。……あんたらの持ってる『王家発行の金貨』をよく見てみな。……端が削られ、中身は鉛だらけだ。……もはや誰も、その金貨でパン一つ買おうとしねえ」
王家は、戦費と贅沢を捻出するために、金貨の純度を密かに落とし続けていました。……それは、国全体の『信用』を切り売りする、禁断の自転車操業。
私は、グリスが出した『本物の金貨』を、自分の発行した紙束の上に置きました。
「この朝凪商会発行の『預かり証』は、いつでも私が管理する『本物の金貨』と等価交換(兌換)することを保証いたしますわ。……そして、王都のギルド、商店、物流のすべてが、この紙での決済を受け入れ始めています」
「な……貴様、王を差し置いて、独自の通貨を発行するというのか! それは反逆だぞ!」
「反逆? ……いいえ、救済ですわ。……セドリック様、あなたが発行した金貨が市場から拒絶されている今、私の紙がなければ、この国の経済は今夜にも完全に停止します。……死にたくなければ、私のルールに従いなさいな」
私は紙束の一枚を、セドリックの鼻先に突きつけました。
「今日から、王都のすべての取引は『朝凪紙幣』で行います。……王家が発行した偽物の金貨は、その価値を五分の一として査定し、私の銀行で回収いたしますわ。……国民が飢えずに済むのは、王の慈悲ではなく、私の『信用』のおかげだと、その身に刻みなさい」
セドリックは、震える手でその紙を受け取りました。
王族の顔が刻まれた金貨よりも、追放された令嬢のサインが記された紙の方が価値を持つ。……それは、王権が経済という名の戦場において、完膚なきまでに敗北した瞬間でした。
「あ、アイリス……。……条件は。……お前の目的は、何だ」
「条件? ……簡単ですわ。……これより、王立中央銀行を解体し、私の『朝凪中央銀行』がその機能を代行します。……つまり、この国の『財布の鍵』を、正式に私が預かりますわ」
私は広間の中心を歩き、呆然とする貴族たちを一瞥しました。
「皆様も、資産を守りたければ、今すぐお手持ちの『ゴミ(偽造金貨)』を私の銀行へお持ちなさいな。……今なら、特別に手数料三割で、価値のある『朝凪紙幣』に換えて差し上げますわよ?」
その瞬間、広間は阿鼻叫喚の嵐に包まれました。
優雅な夜会は、一瞬にして『取り付け騒ぎ』の現場へと変貌したのです。
重厚なドレスを引きずりながら、私の元へ群がる貴族たち。
彼らが求めているのは、もはや神への祈りでも王への忠誠でもなく、私が発行した一枚の紙きれ。
「アイリス様! 私の領地の税収も、すべてあなたの銀行へ!」
「私の宝石も査定してください! その紙を、どうかその紙を……!」
マリアが、床に這いつくばったまま、その光景を虚ろな目で見つめていました。
かつて自分が「奇跡」で集めた人々の熱狂が、今、全く別の、しかしより強力な力によって塗り替えられていく。
「……セレーネ、収支は?」
「……好調です。……王都の通貨流通量の六割が、すでに我が方の支配下に入りました。……また、王宮の地下倉庫に眠っていた『備蓄物資』も、債権のカタとしてすべて回収済みです」
「完璧ですわ。……これで、この国は私の掌の上……」
私は、窓から見える王都の夜景を眺めました。
かつて私を冷遇し、嘲笑ったこの街のすべてが、今や私のサイン一つで動いている。……心地よい、支配の感触。
けれど、その時。
グリスが、私の背後で不敵な笑みを漏らしました。
「カカッ! 嬢ちゃん、浮かれるのはまだ早いぜ。……隣の『クリストフ帝国』の巨大銀行が、動いたようだ。……どうやら、俺たちのやり方に不快感を示してる大口の投資家がいるらしい」
グリスが差し出した、一通の報告書。
そこには、朝凪商会の紙幣価値を脅かすような、不自然な「大量の売り注文」の形跡が記されていました。
「……クリストフ帝国。……あそこの若き総裁、レナード・クリストフ氏かしら」
私の脳裏に、かつて社交界の隅で、獲物を定めるような冷徹な瞳で見つめてきた男の顔が浮かびました。
彼は、セドリックのような無能な操り人形ではありません。
数字を武器に、大陸全土をチェス盤のように操る真の怪物。
「……面白いですわね。……一国の王子を詰ませるだけでは、少々退屈し始めていたところです。……私の『信用』と、帝国の『資本』。……どちらがより重いか、試してみようじゃありませんか」
私は錆びた一クローナを、夜の闇に向かって高く弾きました。
王宮を飲み込んだ私の火種は、今や国境を越え、大陸全土を焼き尽くす経済戦争へと燃え広がろうとしていました。
第6回、最後までお読みいただきありがとうございます。
王の顔が刻まれた金貨を「ゴミ」と呼び、自らのサインで国を動かす。
アイリス様の通貨革命、いかがでしたでしょうか。
ついに「国」という枠組みを超え、物語のスケールが大陸全体へと広がり始めました。
しかし、絶頂に達したアイリス様の前に現れた、影の強敵レナード。
彼もまた、アイリス様と同じく「数字で世界を支配する」側の人間のようです。
果たして、アイリス様の「信用」は、帝国の圧倒的な「資本力」に打ち勝つことができるのか……。
次回、「帝国の投資家――あなたの『信用』に、値段をつけに来ましたわ」。
アイリス様とレナード、二人の天才による最初の「市場心理戦」が幕を開けます。
「私の市場価値を上げるのは、あなたの『評価』と『ブクマ』ですわ。……損はさせません、次の配当もお楽しみに」




