第24回 保険制度の発明――死すらも商品にするアイリスの非情な発明
「助けてくれ! 岩が、岩が崩れた! ジャンが、ジャンが下敷きだ!」
凍てつくバルカ炭鉱に、悲鳴が突き刺さりました。
私が管理権を奪い取ってから三日目。古い支柱が限界を迎えたのか、第一坑道の奥で小規模な落盤が発生したのです。
「ひっ、ひぃっ! た、大変だマリア、人が死ぬぞ! どうにかしろ!」
「そ、そんなことを言われましても! 今の私には、傷を癒やす魔力なんて一クローナ分も残っていませんわ……!」
泥だらけのセドリック様とマリア様が、情けなく右往左往しています。
周囲の労働者たちも、真っ青な顔で立ち尽くしていました。魔法が消えた今の世界では、大怪我はすなわち「死」を意味し、その背後には飢える家族の絶望が控えているからです。
「静かになさい。……計算が狂いますわ」
私は、セレーネに支えられて落盤現場の最前線へと立ちました。
そこには、脚を巨大な岩に挟まれ、苦悶の表情を浮かべる男が一人。仲間の労働者たちが彼を救おうと取り囲んでいますが、絶望の気配が場を支配していました。
「アイリス様! こいつはもう、助かっても歩けねえ! 働けねえ男は、この土地じゃ死ぬのを待つだけだ! ……あんた、こいつを殺してやるのが、せめてもの情けだぜ……!」
古参の坑夫が、血走った目で私に食ってかかりました。
私は、彼の汚れきった手を扇で軽く打ち払い、冷徹な査定眼で下敷きになった男を見つめました。
「殺す? ……冗談を。……彼一人が死ぬことで失われる『将来の労働生産性』を、いくらだと思っていらして? ……セレーネ、救助班を投入。岩の破砕を最優先。……ただし、医療コストは本人の『負債』として計上しておきなさい」
「……御意に」
影の中から現れたセレーネの部下たちが、鉄のバールを使い、正確な物理計算に基づいて岩を動かし始めました。
阿鼻叫喚の現場で、私だけが帳簿を開き、ペンを走らせます。
「アイリス! 貴様、足が潰れた男を助けてどうする! 治療費も出せまい、家族も養えまい! ただの『不良資産』ではないか!」
馬車から降りてきたフェリシアが、片眼鏡を光らせて私を糾弾しました。彼女のエリート会計士としての脳は、働けない人間を「即座に切り捨てるべき損失」と判断したのでしょう。
「フェリシアさん。……あなたは優秀ですが、『確率』という名の魔術を知らないようね。……さて、皆様。よくお聞きなさい」
岩の間から男が引きずり出されたその時、私は労働者全員に向かって、一枚の『証券』を高く掲げました。
「今日、この炭鉱で働く者全員に、『朝凪生命相互保障』への加入を義務付けますわ」
「ほ、ほしょう……? なんだそれは」
「簡単な契約です。……あなたたちは毎月、自分の給与から『銀貨三枚』を私に預けなさい。……その代わり、万が一今日のような事故で怪我をしたり、あるいは命を落としたりした場合……。……私の銀行が、あなた、あるいはあなたの家族に『金貨五十枚』を即座に支払うことを約束いたしますわ」
現場に、水を打ったような静寂が訪れました。
銀貨三枚。それは、酒を一晩我慢すれば払える程度の端金。
対して、金貨五十枚。それは、貧しい労働者が一生かけても手にできない、家が建つほどの巨額。
「ば、バカな! そんなうまい話があるか! あんた、損をするだけだろうが!」
「ふふ、損? ……いいえ。……あなたたち一千人が毎月銀貨三枚を払えば、私の元には毎月金貨三十枚が確実に貯まる。……そして、全員が同時に事故に遭う確率は、統計上、極めて低い。……私は、あなたたちの『将来への不安』を買い取り、それを巨大な資本として運用するのですわ」
私は、脚を潰され絶望していたジャンという男の前に跪きました。
彼は痛みと恐怖で震えていましたが、私は彼の手に、すでに金貨五枚の『見舞金(内払い)』を握らせました。
「ジャン。……あなたは今日、脚を失ったかもしれない。……けれど、この金貨があれば、あなたの子供は学校へ行け、あなたの妻は内職をせずに済む。……あなたは『動けない不良資産』ではなく、私のシステムの『最初の受益者』になったのですわ。……わかりますこと?」
ジャンが、金貨を握りしめたまま、嗚咽を漏らしました。
周囲の労働者たちの目が、変わりました。
これまでの彼らにとって、事故は「運命という名の天災」でしたが、今は「アイリスという名の管理」の一部になったのです。
「……ありえない。……死や不幸に値段をつけ、それを金融商品にするなんて。……アイリス、あなたは……人間の魂を『再保険』にかけているのね」
フェリシアが、戦慄を覚えたように後ずさりました。
「ええ。……これからは、神に死後の安寧を祈る必要はありませんわ。……私の契約書にサインするだけで、現世の家族の安全は確定する。……信仰よりも確実な『救済』を、私が提供してあげますわよ」
その日のうちに、バルカ炭鉱の労働者全員が、血判状のごとき熱意で保険契約にサインしました。
彼らはもはや、私を「厳しい女主人」とは見ていません。
自分たちの生活を、死後まで含めて保証してくれる「全能の元帳」として崇め始めたのです。
けれど、この「死神の商売」の噂は、瞬く間に帝国の中心部へと届きました。
「……アイリス・フォン・アルトハイム。……ついに人の命を賭博の対象にしたか」
帝国の貴族院から届いた、一通の召喚状。
そこには、伝統的な倫理観を汚されたと激怒する帝国貴族たちの名前が連なっていました。
そして、そのリストの最後には。
沈黙を守っていたレナード・クリストフの、奇妙に歪んだサイン。
「……お呼びかしら、レナード。……私の『生命保険』。……あなたのその冷徹な命にも、ふさわしい価格をつけてあげますわよ」
鉄が冷え、雪が舞う。
私の商会は、肉体だけでなく「魂の不安」までをも資本に変え、大陸の深淵へと潜り込んでいきました。
第24回、最後までお読みいただき光栄ですわ。
事故を「コスト」として扱い、不幸を「商品」に変えるアイリス様の非情なまでの合理性……。
死すらも彼女の帳簿の上では「確率」に過ぎません。
しかし、その冷酷な計算が、結果として絶望した労働者家族を物理的に救う。
これこそが、彼女流の救済ですわね。
さて、ついに帝国の「倫理」という名の牙がアイリス様に向けられました。
「死を弄ぶ悪女」として、帝国貴族たちが彼女を法廷へ、あるいは処刑台へと誘い出そうとしています。
そして、その背後でレナードは何を企んでいるのか……。
次回、「第1回・大陸経済サミット――私のサイン一つで、帝国の夜は明けますわ」。
アイリス様、ついに「世界の王」たちを相手に、究極の商談を仕掛けます。
「私の命の保険金(評価・ブクマ)、高く設定しておいてくださるかしら? あなたの『投資』が、私の生存戦略の鍵となりますの。……次なる配当まで、しばしお待ちを」




