第2回 掃き溜めの賢者への投資――一クローナで世界最強の右腕を買い叩く
王宮の裏口から外へ踏み出した瞬間、夜風が私の素肌を刺しました。
下着同然のシュミーズ。剥き出しの足。公爵令嬢として、あるいは人間として、これ以上の屈辱はないはずの状況。けれど私の胸を支配していたのは、重い宝石をすべて清算した後のような、爽快な「身軽さ」でした。
「アイリス様、馬車の用意ができております。……あと、そこの物陰に三人、王子の放った刺客が。始末しますか?」
影から現れたセレーネが、淡々と問いかけます。
彼女の手に握られた、月の光を吸い込むような漆黒の短剣。私はそれを扇で――今は持っていないので、指先で――制しました。
「いえ、放っておきなさい。彼らの命にはまだ値段がついていないわ。……それより、予定通りの場所へ」
「……スラムの、北区ですね」
セレーネの瞳にわずかな困惑が走ります。
当然でしょう。追放された令嬢が最初に向かうべきは、実家の庇護か、あるいは隣国へ亡命するための国境。それなのに私が指定したのは、この国で最も「価値がない」とされる、掃き溜めのようなゴミ捨て場だったのですから。
馬車に揺られること三十分。
清潔な王都の通りは、次第に鼻を突く悪臭と、絶望が泥のように沈殿する路地へと変わりました。
停車した場所は、崩れかけの時計塔がそびえる広場。そこに、かつての「栄光」が酒瓶と一緒に転がっていました。
「……何の用だ。施しなら、隣の教会の炊き出しへ行け」
壁に寄りかかり、安い酒を煽っている老人が一人。
ボロを纏い、顔の半分は伸び放題の髭に覆われている。けれど、その瞳だけは濁っていませんでした。
グリス・モーガン。
かつて王宮で「王国の金庫番」と呼ばれ、その一筆で大陸の経済を動かした天才。……そして、王家の不正を暴こうとして、すべてを失った男。
「施しなどしませんわ。私は『投資』に来たのです」
私は馬車を降り、泥にまみれた地面を裸足で踏みしめました。
グリスは私の姿を見て、鼻で笑いました。
「投資? 下着姿で裸足の小娘がか? 悪いが俺の今の価値は、この空の酒瓶以下だぜ」
「ええ、その通り。今のあなたは、減価償却も終わった『不良資産』。ですが――」
私は彼の目の前に立ち、指先に挟んだ「一クローナ硬貨」を差し出しました。
「――あなたの脳内にある『王家の裏帳簿』には、まだ莫大な利息が眠っているはずよ」
その瞬間、グリスの酒臭い吐息が止まりました。
彼はゆっくりと腰を浮かし、私を凝視しました。その視線は、私の肌ではなく、私の指先にある錆びた硬貨……そして、私の「眼」に突き刺さります。
「……嬢ちゃん。その硬貨、どこで手に入れた」
「母の形見ですわ。それ以上の情報は、あなたの労働力との交換条件にしましょう。……グリス、あなたがかつて暴けなかった王家の使途不明金、一億二千万クローナ。その行き先を私と一緒に追いかけませんか?」
「ふん……。一億二千万? 端数が足りねえな。一億二千五百万と、銀貨六枚だ。……だが、それを知ってどうする。今の王室には、一クローナだって残ってねえぞ」
「ええ。だから私が『差し押さえ』たのです。……王家は、私の私有物になりました」
グリスの瞳に、初めて火が灯りました。
それは狂気ではなく、極めて理性的な「野心」の輝き。
「……面白い。国を買い叩いた小娘が、スラムで会社を立てるってか。だが、元手はどうする。その錆びた硬貨一枚で、俺を買い取れるとでも?」
「いいえ。元手なら、今ここで作りますわ」
私がそう言った瞬間、広場の暗がりにいた男たちが、ギラついたナイフを手に湧き出してきました。スラムのゴロツキ。下着姿の令嬢など、彼らにとっては最高の獲物でしょう。
「おい、嬢ちゃん。その肌、いくらで売る気だ?」
「売るつもりはありません。……ですが、あなたたちの借金なら、今ここで『買い取って』あげてもよろしくてよ?」
男たちが呆気にとられた瞬間、私はセレーネに視線を送りました。
彼女は一歩も動かず、ただ手元の帳簿――私が馬車の中で書きなぐったリスト――を読み上げました。
「ボビー、隣街の闇金に銀貨五十枚。ジャック、酒場『黒猫亭』のツケが金貨三枚。……合計、あなたたちのグループで金貨十枚。……先ほど、全債権の譲渡手続きを済ませました」
男たちの顔が引き攣りました。
「な、なんだって……?」
「あなたたちの借主は、今この瞬間から私です。……利息は、今日から倍にさせていただきますわ。返せないのであれば、王都の街道拡張工事の『強制労働枠』として、一人銀貨二枚でギルドに売り飛ばします。……わかりますこと? あなたたちの命の値段は、すでに私が決定したのです」
暴力ではありません。
逃げ場のない「契約」と「借金」という名の鎖。
男たちはナイフを落とし、震える膝をつきました。
「ひっ、ひぃ……! た、助けてくれ……!」
「助けません。私は、投資効率の悪い慈悲は持ち合わせておりませんので。……ですが、私の仕事を手伝うなら、返済期限の延長くらいは考えて差し上げますわ」
それを見ていたグリスが、腹を抱えて笑い始めました。
「カカカッ! 違いない! 暴力より、魔術より、こいつは最悪な地獄だ! 嬢ちゃん、あんた、本当に公爵令嬢か? 魂の芯まで、強欲な金貸しじゃねえか!」
グリスは持っていた酒瓶を叩き割り、私の前に跪きました。
「気に入ったぜ。……一クローナで、俺の余生をあんたに売ってやる。その代わり、世界中の帳簿を真っ赤に染め上げてやろうぜ」
私は満足げに頷き、錆びた硬貨を彼の手に落としました。
「契約成立ですわ。……さて、グリス。最初のお仕事です。王都中の『ゴミ』を買い集めてくださいませ。……明日の朝までに、それが金貨に変わる魔法を見せてあげますから」
夜明け前のスラムに、朝凪商会の最初の高笑いが響きました。
かつての居城を見上げながら、私は確信しました。
この国すべてを買い取るための「最初の資本」は、もう揃ったのだと。
第2回、お読みいただきありがとうございました。
アイリス様、追放されたその足でスラムの賢者を「買い叩く」とは……。
暴力に訴える相手を「借金」で支配する姿に、私も少し背筋が寒くなりましたわ。ふふ、これこそが彼女の真骨頂です。
さて、アイリスが命じた「ゴミの買い取り」。
何の価値もないはずの廃棄物が、彼女の「現代知識」という投資によって、一体どんな宝石へと変わるのか……。
次回、「ゴミを金に変える錬金術」。
アイリス様による、最初の市場独占をお見せしましょう。
「私の投資を無駄にしないでくださいね? 評価とブックマーク、お待ちしておりますわ」




