第1回 婚約破棄に異議はありませんが、請求書は別です。 ――まずは王国の全資産を差し押さえますわね
「愛なんて、利回りの悪い投資ですわ」
きらびやかな王城の夜会、その中心で第一王子セドリック様が私に『破滅』を宣告した瞬間。私の脳内にある帳簿は、彼の資産価値を『不良債権:回収不能』へと書き換えました。
「アイリス・フォン・アルトハイム! 貴様のような冷酷で金に汚い女は、王妃に相応しくない! 心優しきマリアこそが、真に慈愛に満ちた私の伴侶だ!」
セドリック様が、隣に寄り添う男爵令嬢……いえ、『聖女』と持て囃されているマリア様を引き寄せます。
周囲の貴族たちは、私を憐れむような、あるいは溜飲を下げるような視線で眺めていました。公爵令嬢として完璧に振る舞い、王国の財政再建を一人で担ってきた私への、これが「報酬」というわけです。
私は、手に持っていた扇をゆっくりと閉じました。
「左様でございますか。……ちなみにセドリック様、その『心優しき』判断に至るまで、私の時間をどれほど浪費したか計算されたことは?」
「何だと……?」
「婚約期間、三千六百五十日。教育投資、及び社交上の維持費。そして何より、私が王家のために立て替えてきた数々の『立替金』。……愛を語るのは結構ですが、まずは収支報告書(B/S)を整理してからにしていただきたいものですわ」
私の淡々とした言葉に、会場がしんと静まり返ります。
セドリック様は顔を真っ赤にして叫びました。
「黙れ! この期に及んで金の話か! 貴様のその傲慢な態度が不愉快なのだ! 貴様は今この瞬間をもって公爵家を勘当され、国外追放とする! 身につけている宝石も、そのドレスも、すべては王家が与えたもの。すべてここに置いて、即刻立ち去れ!」
マリア様が、勝ち誇ったような笑みを浮かべて私を見ます。
ああ、滑稽。
この状況における彼女の市場価値は、せいぜい「一時の娯楽」程度なのに。
「……承知いたしました。元より、価値のないものに執着する趣味はございません」
私はその場で、首筋に輝く大粒のダイヤモンドを外しました。カラン、と高い音を立てて床に転がります。時価、金貨五十枚相当。
続いて、絹のベールを剥ぎ、耳飾りの真珠を投げ捨てました。
「アイリス様、何を……!」
側近たちの動揺を無視し、私はドレスの背中の紐を、セレーネ――物陰に控えていた私の隠密秘書に合図して解かせました。
衆人環視の中、私は豪華なドレスを脱ぎ捨て、その下に隠していたシンプルな麻のシュミーズ姿になります。
「アイリス、貴様、狂ったか!」
「いえ、至って正常です。……『王家から与えられたもの』はすべてお返ししましたわ。この下着だけは、私が自分の小遣いで買ったものですから、お返しする義務はありません。……さて」
私は、ボロボロのシュミーズのポケットから、一枚の「錆びた硬貨」を取り出しました。
一クローナ硬貨。この国で最も価値の低い、誰もが道端に落ちていても拾わないような端金。
私はそれを指先で弾き、宙でキャッチしました。
「セドリック様。追放される前に、一つだけ『清算』をお願いしてもよろしいかしら?」
「……清算だと?」
「ええ。過去五年にわたり、王家が発行した国債。そのうち、市中の商会が抱えきれなくなった『不良債権』のすべてを、私個人が買い取っております」
「な、何を言って……」
「わかりやすく申し上げますわ。今、この王宮の屋根も、皆様が召し上がっている最高級のワインも、そしてセドリック様、あなたが履いているその靴の紐一本に至るまで――」
私は、微笑みました。
父からも「氷の微笑」と恐れられた、商人の顔で。
「――すべて、私の私有財産ですわ」
一瞬の静寂の後、どよめきが爆発しました。
私は懐から、魔導インクで書かれた分厚い羊皮紙の束を取り出しました。そこには王家の紋章と、支払期限を大幅に過ぎた「督促状」のサインが並んでいます。
「本日、私はセドリック様から『国外追放』を命じられました。それは契約の破棄を意味します。ゆえに、私は債権者としての権利を行使し、王家に対して『全債務の一括返済』を要求いたします。……総額、金貨二十億枚。現在の王国の国家予算、およそ五十年分ですわ」
セドリック様の顔から血の気が引いていくのが、遠目からでも分かりました。
隣のマリア様が、震える声で口を出します。
「そ、そんなの……無効よ! だって、あなたは追放されたのよ!?」
「マリア様、経済に感情を持ち込まないでいただけます? 契約書に『婚約破棄されたら借金を帳消しにする』なんて条項、一行もございませんもの」
私は、床に転がったダイヤモンドを一瞥して言いました。
「返済できないのであれば、私はこの国を『差し押さえ』させていただきます。……まずは王宮の備品、それから王族の皆様の私有財産を順次オークションにかけましょうか。セドリック様、あなたの時給は……そうね、馬の世話係として雇って差し上げてもいいですが、一クローナが妥当かしら」
「ふざけるな! 衛兵! この女を捕らえろ!」
王子の絶叫に、衛兵たちが動こうとします。
しかし、彼らは一歩も動けませんでした。
彼らの給料を支払っているのは、王家ではなく、私の息がかかったギルド連合なのですから。
「さあ、清算の時間の始まりですわ。……愛で、お腹が膨れるとよろしいですわね?」
私は錆びた一クローナを握りしめ、背を向けました。
裸足の足裏に感じる床の冷たさは、これから始まる「世界を買い取るゲーム」の開始合図のように心地よいものでした。
アルトハイム商会、代表。
アイリス・フォン・アルトハイム。
本日をもって、私はこの国を「倒産」させ、私自身の帝国を築くことに決めました。
「……まずは、隣国の銀行を買い叩きに行きましょうか。セレーネ、準備は?」
「御意に、我が主。……馬車はすでに、王宮の裏口に。王家の資産リストも、すべて整理済みです」
夜風に吹かれながら、私は一度だけ振り返りました。
借金まみれの、かつての家。
次にここへ戻る時は、この国すべてを私の「所有物」として登記し直す時です。
数字は裏切らない。
絶望に染まった王子の顔を見ながら、私は確信しました。
愛より、一クローナの利益の方が、よほど美しく、そして確実なのだと。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ドレスを脱ぎ捨ててまで「請求書」を突きつけるアイリスの姿、楽しんでいただけたでしょうか。
愛よりも数字を信じる彼女ですが、実は手元に残した「たった1クローナ」にだけは、少しだけ特別な思いがあるようで……。
その秘密は、これから明かされる「王国の裏側」に関わってきます。
次回、裸足で王国を飛び出したアイリスが、最初に向かったのは「ゴミ捨て場」。
そこで彼女が拾い上げるのは、世界を揺るがす『最強の右腕』です。
「損はさせませんわ。次の話も、あなたの時間を投資する価値があるはずですから」
アイリスの快進撃を予感した方は、ぜひ評価やブクマで彼女の「株主」になっていただけると嬉しいです!
次話は、帳簿が書き換わる頃に更新いたします。




