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第53幕 死肉の温度

 世界が弾けた。

 巨大な硝子細工が内部から砕けるように、頭上の「月」と足元の「地球」が、物理的な結合を解かれて互いに弾き飛ばされたのだ。

 轟音(ごうおん)が消えた。大気が引き裂かれた真空の回廊(かいろう)で、川添千秋は無音の中を落下していた。

 上空を見る。飯野愛恵とイヴェット、そして意識のないペネロペが、糸の切れた人形のように浮き上がり、急速に遠ざかる「月」の引力圏へと吸い込まれていく。

 彼女たちの質量はあちら側に属している。物理法則が正常化すれば、異物は自動的に排除される。

 指先が凍りつく。気温は氷点下を割り、露出(ろしゅつ)した皮膚が霜で白く覆われていく。このままでは、彼女たちは永遠にロストする。

『使え』

 脳の裏側、頭蓋骨(ずがいこつ)の隙間で振動音がした。ナッシュだ。川添の中に寄生していた、英雄の燃えカス。

『私の全てを燃やせ。それを推進剤(すいしんざい)にしろ』

 川添は、同意の思考すら返さなかった。ただ、本能的に体内の「異物」を鷲掴(わしづか)みにし、ボイラーに石炭を放り込むように着火した。

 ゴオッ!

 川添の背中の皮膚が裂け、目に見えない神力(しんりき)の翼がジェット噴射のように吹き出した。強烈なGが全身の骨をきしませる。

 彼は真空を蹴り、弾丸となって上昇した。遠ざかる彼女たちの腕を、砕けた右手の指で強引に掴む。

 ガシッ。

 指が肉に食い込む感触。だが、その触覚情報(しょっかくじょうほう)が脳に届いた瞬間、川添の背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒(おかん)が走った。

 冷たい。

 人間の体温ではない。まるで冷蔵庫から出したばかりの、脂の固まった豚肉の塊を素手で掴んだようだ。

 血管の拍動がない。筋肉の張りもない。ただ、冷たくて重い、タンパク質の質量だけが手に残る。

 川添は反射的に手を離したくなったが、痙攣(けいれん)する筋肉を無理やりねじ伏せ、その「死肉(、、)」のような腕を握りしめた。

 引力が引き剥がそうとする力に逆らい、川添はナッシュの残滓(ざんし)を最後の一滴まで絞り出した。

 その時だった。

 プツン。

 耳元で、ブレーカーが落ちるような、乾いた電子音がした。

 直後、川添の内側にあった「熱源」が消失(しょうしつ)した。

 静寂。今まで脳の容量の半分を占拠していたノイズが消え、絶対的な無音が訪れた。

 寒い。

 誰かと同居していた部屋から家具が全て消え去ったような、あるいは脳味噌(のうみそ)をスプーンで半分ごっそりと(えグ)り取られたような、巨大な空洞が胸に開いた。

 心臓の音が、やけに大きく響く。自分一人しかいない。その生物的な事実が、内臓を冷たく締め上げた。

 推進力(すいしんりょく)を失った川添たちは、重力に従って地球へ墜落(ついらく)した。

 ヒュオオオオオ……。

 ドサッ、グシャァ!

 地面に叩きつけられた。受け身など取れなかった。肺の中の空気が強制的に排出され、横隔膜(おうかくまく)が痙攣して固まる。

「――、ッ、カハッ」

 息が吸えない。川添は顔面から泥に突っ込んでいた。

 口の中に、腐葉土(ふようど)と泥の味が広がる。ジャリジャリとした砂が歯の間に入り込み、舌の上で鉄の味と混ざり合う。

 全身の神経が断線したように痺れ、指一本動かせない。

 ただ、頬に触れる泥の冷たさと、口の中の不快なザラつきだけが、ここが紛れもない「現実」であることを告げていた。

 横には、飯野たちが折り重なるように倒れている。動かない。

 川添は泥まみれの顔を上げることすらできず、ただ痙攣する喉で空気を求め、泥を吐き出しながら地面をのたうち回った。


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