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第52幕 世界を引き裂く

 ジジジジジ……!

 砕けた指を突き立てたシャッターの反動で、カメラの底にある排出口から、一枚の写真が荒々しく吐き出された。

 プシュウウウッ。

 写真は外気に触れた瞬間、高熱の蒸気を上げた。川添千秋は、痙攣(けいれん)する左手でそれをひったくった。

「――ッ、あ、つ!」

 熱い。焼きたての鉄板を素手で握ったようだ。指紋が焼ける獣臭い煙が鼻をつき、手のひらの皮膚が瞬時に炭化する音がした。

 だが、川添の神経回路は、その熱量を無視した。

 写真を見る。写っているのは、赤黒い亀裂(きれつ)によって物理的に分断された、二つの天体の境界線だ。

 現像プロセスを待つ必要はなかった。排出された時点で、その写真は既に中央から裂け始めていたからだ。

 物理的な切れ込みが、印画紙の繊維を断ち切って走っている。写真の中の風景が、現実の質量に耐えきれず、悲鳴を上げて引き()っているのだ。

「……切れろ」

 川添は、写真の端を歯で噛んで固定し、生きている左手の親指と人差し指でその裂け目を摘んだ。

 右手は動かない。黒い木片のようにぶら下がっているだけだ。

 首を振る勢いで、引き裂いた。

 ビリッ。

 乾いた紙が破れる、些細な音がした。日常であれば、ゴミ箱へ捨てる失敗作が出す、取るに足らない音だ。

 だが、その直後だった。

 パァァァァァァァァァン!!

 世界の上空に、白い亀裂が走った。

 比喩ではない。巨大なガラス細工に鉄球を叩きつけたかのように、空間そのものが物理的な断層を描いて砕け散ったのだ。

 音速を超えた破壊。だが、川添を襲ったのは、鼓膜(こまく)を叩く衝撃波ではなかった。もっと嫌な、生理的に耐え難い振動だ。

 キィィィィィィィィン……!

 黒板を鉄の爪で強く引っ掻く音を、数万倍に増幅し、それを骨伝導(こつでんどう)脳髄(のうずい)に直接流し込まれたような高周波。

「ぐ、ぎ……ッ、が!?」

 川添は反射的に口を押さえ、その場に膝をついた。

 奥歯が浮く。数年前に治療したはずの銀歯の詰め物が、空間のきしみと共振して微細に振動し、歯根膜(しこんまく)を内側から削り取っていく。

 歯茎の神経に、アルミホイルを噛んだ時のような不快な電流が走り続ける。頭蓋骨(ずがいこつ)が内側から膨張(ぼうちょう)する感覚。三半規管(さんはんきかん)が破壊され、胃の内容物が食道を駆け上がってくる。

 空の裂け目が、メリメリと音を立てて広がる。その断面から覗くのは、真空の宇宙空間や、美しい星空などではなかった。

 ドロリ。

 腐った泥のような、粘着質(ねんちゃくしつ)の液体が溢れ出してきた。

 世界の継ぎ目に溜まっていた、高濃度に圧縮された神力(しんりき)――汚染物質だ。切開された傷口から、行き場を失った膿が排泄されている。

 泥は重力に従ってボタボタと降り注ぎ、川添の頬に張り付いた。ぬるりとした、生温かい感触。

 臭い。

 煮詰めたアスファルトと、古漬けの沢庵を混ぜ合わせて腐らせたような、強烈な発酵臭が鼻腔(びく)を塞ぐ。

「お、ぇ……」

 川添はたまらずえず(、、)いた。胃酸が喉を焼く。

 だが、彼の意識は、空の崩壊や嘔吐感よりも、手元の奇妙な一点に釘付けになっていた。

 左手の親指。写真を勢いよく破った拍子に、鋭利になった印画紙の縁で、薄く皮膚を切ってしまったのだ。

 プクリ。

 赤い血が、線のように(にじ)んでいる。

 空が割れ、汚泥(おでい)が降り注ぎ、歯の根が合わないほどの振動が続くこの異常事態の中で、その「紙で切っただけのペーパーカット」のヒリヒリする痛みだけが、鋭利な針となって脳の痛覚野を独占した。

 世界が壊れる轟音(ごうおん)よりも、指先のささくれが痛い。

 遠近感(えんきんかん)が狂う。目の前の巨大な崩壊が、指先の小さな血の滲みよりも遠く、薄っぺらく感じる。脳の処理落ち。

 グラリ、と川添の視界が傾いた。

 地面が消失(しょうしつ)する。いや、違う。月と地球の引力が切断されたことで、互いの重力圏(じゅうりょくけん)が物理的に弾き飛ばされたのだ。

 足場だった石畳(いしだたみ)が、エレベーターのケーブルが切れたように、急速に遠ざかっていく。

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