第51幕 重ね合わせた傷跡
屋上テラスを吹き荒れる暴風は、もはや気象現象の域を超えていた。
ゴオォォォォォォォ……!
頭蓋骨を万力で締め上げるような重低音が、鼓膜を物理的に圧迫し続ける。それは風の音ではない。
頭上に迫る巨大な「月」の質量と、足元の「地球」の質量が、互いの重力圏を奪い合うことで発生した、空間そのものの軋みだ。大気が悲鳴を上げている。
川添千秋は、這いつくばるようにして冷たい石畳にしがみついていた。
寒い。
気温は氷点下ではないはずだが、異常な気圧変動によって体感温度が急激に低下している。汗ばんだシャツが冷え切り、皮膚に張り付いて体温を奪っていく。
指が、死んでいる。
彼は、暴風の中で凍りついた自身の右手を見下ろした。人差し指は既に壊死して炭のように黒く変色し、感覚を失っている。
だが問題はそこではない。まだ神経が繋がっているはずの中指までもが、氷点下の鉄塊に触れたように硬直して、シャッターボタンの上で痙攣していたのだ。
脳髄は「押せ」と電気信号を送り続けている。撮れば終わる。このレンズの「亀裂」で、世界が融合している境界線を物理的に切断すれば、重力は正常化する。
だが、指先が石化していた。動かない。錆びついたシャッターのように、関節がロックされている。
突如、暴風の中だというのに、鼻の奥にあの「臭い」が蘇った。
現像室の、ツンとする酢酸の臭い。
カビ臭い畳の上で膝を抱え、ただ他人の不幸な記録を現像液に浸して浮かび上がらせるだけの、彩度のない時間。彼女たちがいなくなれば、世界はまた、あの酢酸の臭いしかしない「正しい退屈」に戻ってしまう。
その嗅覚的な記憶が、川添の運動神経を物理的に遮断していた。
『被写体を失うな。この歪んだ世界こそが、お前の求めた現像液だ』
そのどす黒い渇望が、生存本能よりも強くブレーキをかけ、指先を凍結させていた。
「――ッ、ぁ!」
口を開けて叫ぼうとしたが、風圧で肺の空気が抜けた。
「――ヒュ、ルルルルル……」
手の中のカメラ「映鏡」が、笛のように鳴いた。重力干渉による強風が、レンズに入った微細な「亀裂」を通り抜ける際、空気を切り裂いて不快な風切り音を上げているのだ。
亀裂。その音が、川添の意識をファインダーの中へと引き戻した。
彼は、震える瞼をこじ開け、乾燥して張り付く角膜の痛みに耐えながら、ファインダーを覗き込んだ。
レンズの中央を走る、不規則なひび割れ。かつて製作者フレフィ・テスタロッサが「見てはいけないもの」を見た代償として刻まれた、呪いの傷跡。
ドクン。
その傷が、脈打った。赤く充血した亀裂が、ファインダーの向こうにある「月」と「地球」の境界線と重なる。
その光景を見た瞬間、川添の喉の奥から、熱い唾液が湧き上がった。
滑らかだ。目の前で融合しつつある二つの世界は、あまりに滑らかで、継ぎ目がなく、完成された絵画のように美しい。アンドリュー・ウォルフガングが作ったこの破滅の風景には、一点の曇りもない。
だからこそ、破壊したい。
この完璧な美貌の表面に、ナイフで切り込みを入れるように、俺という「ノイズ」を刻み込みたい。
世界を救う?違う。そんな綺麗な動機じゃない。完成されたフィルムを現像液の中で焼き捨てる時のような、あるいは美しい彫像をハンマーで叩き割る時のような、暗く、湿った加虐的な興奮。
そのどす黒い衝動だけが、恐怖で凍りついた血管を無理やり拡張させた。
やるぞ。俺が、この世界に傷をつける。
だが、指はまだ動かない。脳が興奮しても、一度シャットダウンした神経伝達物質はすぐには戻らない。
ならば、どうする。簡単なことだ。内部からの命令が届かないなら、外部から物理的に入力すればいい。
川添は、カメラのグリップを握った右手を、自分の口元へ持っていった。躊躇いはなかった。
彼は野獣のように口を大きく開くと、動かない人差し指の第二関節を、奥歯で強く噛んだ。
ガリッ。
「――ッ、ギ、ィ!!」
硬い異物を噛み砕く感触。乾いた音が頭蓋骨に響き、口の中に、鉄錆の味と、砕けた骨の砂利が広がる。
激痛。
脳髄が白く弾けるほどのスパークが走った。涙腺が崩壊し、熱い涙が頬を伝う。だが、その強烈な電気信号こそが、遮断されていた神経回路を強引に焼き切って開通させるトリガーとなった。
痛い。だから、動く。
彼は、血まみれになってぶら下がった指を、再びシャッターボタンへと宛がった。
ファインダーを覗く。視界が赤い。涙と充血で、世界が血の色に染まっている。その中で、レンズの亀裂が、世界を縦に分断しようと待ち構えている。
月が、血を流しているように見える。ああ、いい画だ。最高に汚くて、最高に酷い、取り返しのつかない傷跡だ。
川添の口元が、痛みと快感で痙攣し、歪に吊り上がった。もはや彼自身の顔の筋肉の制御すら効いていない。ただ、破壊衝動という本能だけが、彼の肉体を操り人形のように駆動させていた。
「……ぁ、ガァァァァァァァッ!!」
彼は獣のような声を上げた。言葉ではない。意味を持たない絶叫と共に、砕けて皮膚一枚で繋がった指の骨を、全体重を乗せてシャッターボタンに突き刺した。
メリッ、バキッ。
さらに指の骨が砕ける音がした直後、錆びついた断頭台の刃が落下するような、重く決定的な機械音が世界に響いた。




