第54幕 泥と油の味
「へい、チャーシュー麺お待ち!」
親父の怒鳴り声が、白濁した湯気の中に響いた。ラーメン屋「柴田屋」の店内は、換気扇の唸る音と、テレビから垂れ流されるバラエティ番組の缶詰めの笑い声で埋め尽くされている。
カウンターの隅で、川添千秋は割り箸を割った。目の前には、かつて好物だった豚骨ラーメンが置かれている。表面には透明な油膜が張り、灰色のチャーシューが沈んでいる。
手が動かない。
臭い。
丼から立ち上る湿った熱気が、鼻の粘膜にへばりつく。それは食欲をそそる獣の香りではなく、古戦場の泥の中で、内臓と脂を長時間煮詰めたような、生々しい有機物の分解臭だった。
胃の腑が、冷たく収縮する。
川添は箸を置き、コップの水を飲んだ。結露したコップの冷たさと、味のしない液体だけが、今の彼が摂取できる唯一の清潔な物質だった。
「千秋さん、お水のおかわりは?」
飯野愛恵が近づいてきた。彼女の右腕は、首から下げた三角巾で吊られ、分厚いギプスで固定されている。
いや、ギプスではない。
皮膚の上から工業用ダクトテープでグルグル巻きに補強され、内部から金属の支柱が肉を貫通して骨を固定しているのが透けて見える。
彼女は左手一本で器用にステンレスのポットを操り、コップに水を注いだ。動作のたびに、固定された右腕の中から、ガチッ、ガチッという硬質なクリップ音が漏れる。修理中の家電製品のような音。
彼女はエプロン姿で微笑んでいるが、その体は未だ修復されていない。
奥のテーブルでは、イヴェットとペネロペが客にビールを運んでいた。客たちは音を立てて麺を啜り、テレビの芸人が手を叩いて笑っている。誰も、彼女たちの肌の白さを疑っていない。
飯野が小首をかしげて笑った。
川添の心臓が、不規則に跳ねた。背筋に冷たいものが走る。
目の前で展開される「正しい世界」の解像度が、川添の三半規管と致命的に噛み合わない。
彼は無言で、胸ポケットからカメラを取り出した。右手の人差し指は、炭のように黒く変色し、完全に壊死して動かない。彼は不器用に中指を使ってグリップを握り、ファインダーを覗き込んだ。
ジジジ……。
ピントリングを回す。レンズの中、飯野の顔が拡大される。
そこには、笑顔の美少女などいなかった。
陶器のように白い皮膚の下で、赤黒い筋肉繊維が蠢き、血管の代わりに黒い汚染物質が循環している。彼女の輪郭の周囲だけ、空間が熱で溶けたように歪み、世界の「継ぎ目」がぱっくりと口を開けていた。
そのグロテスクな映像が網膜に結像した瞬間、川添の強張っていた肩の力が、フッと抜けた。
早鐘を打っていた心拍数が、嘘のように鎮まる。呼吸が深くなる。
肉眼で見える、彩度の低い、退屈な世界よりも、この傷ついたレンズ越しに見る「壊れた真実」の方が、今の彼の脳髄には遥かに馴染んだ。
肺の奥まで酸素が届く。まるで、有毒ガスが充満した故郷の空気を吸ったかのように、気管支が歓喜して開き、汚れた血液が巡り始めた。
「千秋さん?」
レンズの向こうで、肉の塊が唇を動かした。
川添は答えなかった。ただ、壊死した指の感触を確かめるようにカメラを握りしめ、口元の筋肉を歪めて笑った。
店内に満ちる豚骨の脂臭さと、テレビの騒音。その中心で、川添はシャッターを切った。
ガシャン。
その乾いた切断音が、彼だけの世界を閉じた。
読了、ありがとうございます。
ページを閉じても、彼らの時間は止まりませんし、私たちの生活も続きます。 それが時間であり、それが人生であると、私は考えています。
明快な答えや、わかりやすいカタルシスは提示できなかったかもしれません。 それでも、この不完全な記録の中に、確かな「生活の手触り」のようなものを感じていただけたなら。
書き手として、それ以上の愉悦はありません。
……少しだけ、この物語に関する「楽屋裏」のはなしを追加させてください。
本作の原型は、かつて筆者が高校時代に書き散らした、 古い作品の死骸を書き直したものです。
ライトノベルというジャンルが産声を上げたばかりのあの頃。 当時の有名作を無様に模倣して描かれたそれは、 今振り返れば吐き気を催すほどの、恥ずかしい「黒歴史」でした。
私はその空っぽな模造品を、暗室へと引きずり込みました。
成長した今の思考。社会の中で培い、すり減らした感情。 そして、気管支を塞ぐほどの「現実の厳しさ」というすべてを劇薬として加味し、 より今の私風の、血肉の通った作品へと書き直したのが本作です。
この『聖盾少女』は、そんな過去を清算する作品群の第一弾に過ぎません。
これからは次々と、過去の恥ずかしい痕跡を解剖しつつ、 高校時代から脳髄の奥で腐敗しかけていた、 ハイファンタジーやSFの作品群も執筆していくつもりです。
貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。
今連載中の他の作品の泥臭いインクと本作の現像液の染みが、 少しでもあなたの網膜に焼き付いて離れないことを祈って。




