第5話:あの日の私へ
西日がお店の中に差し込む。
彼がガラス戸を閉めたあと、私はすぐに自分の部屋に駆け上がる。
階段の途中で、外の蝉の声が強くなったり、遠ざかったりしていた。
部屋のベッドに体を投げ出すと、布の匂いが少しだけ懐かしかった。
——あれで、良かったんだ。
枕に顔を埋めたまま、自分に言い聞かせる。
言い聞かせないと絶対にまた失敗する。
前の結婚だって、納得して選んだはずだった。
だけど心の中ではいつも、祐樹と旦那を比べてしまっていた。
それがきっと相手の心が離れていった理由。
次はもう失敗できない。
お店を守るためにも、私は前に進まなきゃいけない。
だから、忘れなきゃいけなかった。
ベッドの上で転がり、天井を見上げる。
カーテンの隙間から、光の線がゆっくり壁を移動していった。
——なんで、今になって彼に会ってしまったんだろう
昨日、駅の改札の向こうで見たあの後ろ姿。
ほんの一瞬で、何年も閉じ込めていた時間が溶けた。
声をかけなければ良かった。
でも、かけてしまった。
たぶん、もう一度だけ話したかったんだと思う。
彼は変わっていなかった。
真っ直ぐな目をして、少し笑うと昔のままだった。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
過去の記憶が蘇ってしまった。
一緒に歩いた道。
言葉よりも、沈黙の方が懐かしかった。
その中で気づいてしまった。
——私は、今でも彼が好きなんだ
どうして、今さら。
どうして、あんなふうに笑ったの。
だから、写真を渡した。
あれは『捨てる』ためじゃない、『残す』ため。
捨てることなんてできなかった。
あの頃の自分まで、一緒に消えてしまいそうで。
渡すとき、指先が少し触れた。
それだけで、また心が揺れた。
でも引き返す訳にはいかなかった。
気づけば、夕陽はすっかり沈んでいた。
私はカーテンを閉めようと起き上がる。
その時にふと机の上を見た。
窓の外に浮かぶ月がそこを照らしている。
整頓された机の上に、乱雑に開けた封筒の袋が残っている。
祐樹に渡した封筒の跡。
片付けようとそれを掴むと、冷たさが胸まで伝わった。
——さよなら、なんて言えなかった。
言ってしまったら、本当に終わってしまう気がして。
けれど、終わらせなきゃいけない。
彼ならきっと前に進めるはず。
私も前に進まなきゃ。
「……さよなら」
その声は小さすぎて、自分にも届かなかった。
夜風がそっとカーテンを揺らす。
遠くで、蝉がまだ鳴いていた。
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