2。あの頃へ。#1-3
久梨原香。自宅
景色は変わって。家の中である。
帰ってきて数時間。沈黙のリビングに居座った、喋るタイミングを見計らうために。けれどもそのタイミングとやらは一向にやってこなくただ有限な時間だけが無様にも浪費されていった。これも貴重な家族の時間と言えばそうかもしれない。ものは言いようだ、そう思うしかない。
意を決して僕は母呼ぶ。
「母さん」
「何」
トーンの低い、あまり女性的ではない元気のない擦れた声が帰ってきた。
「少し外行ってきてもいい」
「どこ行くの」
母さんは僕の顔を見ないで言う、引き攣った様子。全く動かない地蔵のような母さんの冷たそうな背中を見つめながら、僕はぶっきらぼうに答える。
「学校に」
「は?」
そう言うと母さんは初めてこちらに振り向いた。目に光がない、照明の関係か真っ黒に見える、吸い込まれそうな程に澱んで沈んだ表情に、どうしようと何かが溢れんばかりに恐怖で肥えてしまう。でもそれよりも怖いよりも、心配の方が勝ってしまう、だってあまりにもその顔は。母の顔は人間離れしている程、青白かったから。血圧が相当低い体調の悪さがはっきりと窺えるまでだった。
それを目の当たりにして僕は咄嗟に謝ってしまう。なんで謝ったのか、何に対して謝っているのか。僕自身もわかってない。
「ごめんなさい」
ごめんなさいと言った後。母さんは久しぶりに感情のある言葉をくれた。それは優しい言葉じゃないけど、母さんはテーブルに置いてあった花瓶を、床に叩きつけて僕に声をくれたのだ。
「ごめんなさいってなんだよ、お前のためにやってやってんだよ!。毎日毎日、帰ってきたら弁護士からの紙にサインしたりメールしたり、電話したりさぁ!相続の相談しに役所に通って、あんたの飯も買ってきて私は何も食べてないんだよ、それなのに何、急に外に行くって言い出してさ、しかも夜に?どんな気持ちか考えてから口にしたの?。私がこんなんになってんのに夜遊びとかどういうどう言う神経してんのさ。行くならさっさといけよ、遊んでこいよ!!」
そんな声を浴びせられた、僕は頭の中が空っぽになって立ち尽くすしか無かった、神経が切れたみたいに言うことを聞かない身体、血の巡りが引いていくのが分かった。心臓は気色の悪いぐらいに跳ねていると言うのに、心臓の音がダイレクトに耳鳴りのそれに近い大きさで鳴り響いていた。
それでもきっと、きっと今の僕よりも。母さんの方が心底大変なのはわかる、分かっているからこそ。手が震えてる、右目から涙が出てる、痩せ細った母さんを見たら言い返すなんて出来やしなかった。そんな気さらさらなかったけれど。ただ無言で僕の方が地蔵になってしまったんだ。
息の荒い母さんはそのまま、それ以上何も発せずに静かにテーブルの方へと戻っていた、割れた花瓶は放置で椅子に座ってまた冷たい背中が僕の視界にまた映った。
僕はそっと母のそばを去った。母の声が。耳から脳に、神経に、臓物にかけて全身を駆け巡る。周りの音が全て無に記すほどに心臓がうるさい。
玄関を出て外に佇む。何も思いつかない、僕がいけないのだろうか。何か気を逆撫でするような叱られるようなことしたのだろうか、いまいち理解がし難いというか、若いからと理解をしようとしていないのだ。
「ごめんなさい」以外にあの時、一体何を言えば、どんな言葉を口にしたら許されたのだろうか、それなら嘘をつけばよかったのか。それとも抱きついて寄り添ったら良かったのか?。そんな余裕はないしそこまでの勇敢さは持ち合わせていない。
とりあえずは外には出れた。行こうか。
雪さんはもう学校にいるんだろうか、もしかしたら抜け出しのがバレて僕よりも酷い目にあっていたり、もしかしたら僕は騙されて実際は学校に雪さんは来ないかもしれない。
なんて、僕なんかがそこまでのこと思って考えてしまっても仕方がないや。今もこれからも自分のことだけをジッと考えよう。そうした方がいい。
暗い道をただひたすら能無しに歩く、先が見えない辺り僕の知っている景色とは微かに違うような気がする、先が露方もなく漆黒に沈んでるからか自分がその場から動けていないんじゃないかとどうも錯覚してしまう。
いつも通る電柱の、自販機の影に何かいるのではとかお化けがじっと見ているんじゃないかとか、攫われてしまうかもとか子供じみた妄想が肌寒さと夜であることのせいで強くなってしまう。
頭ではそんなのいないと思ってしまっても、本能なのか細胞が慌てふためいているのか身が強張って周囲を不自然にキョロキョロと何度も確認してしまう。こんなにも怖がりなのかと少しガクンと気分が落ち込んでしまった。まるで不審者と変わらない。
昼よりもはるかに凍える、暑かったはずの陽が沈んで灯す熱が消えた。初夏を感じさせられる暑さも夜になれば涼しくなる。
やはり手袋でも持ってくるものだっただろうか。そこまでは寒くないか。
鈴虫なのかな、なんの虫かな。鳴き声が少々聞こえてくる。もう少しで蝉も塒を巻いて鳴き始める頃だ。それでいて蚊も出てくる。
夏は暑い、だからこそ肌を見せる機会が増える。そうすりゃ蚊に肌を食われる。痒くて掻いてもまた悪化してしまう、時によっては炎症すら起こす場合もある。とりあえず絶滅に一票入れておきたい。
僕の家の周りにも家は多くある、言わば住宅街だ。そしてそれを向けると水平線までの田圃道、嫌いじゃないがなんか怖い。理由は一つ、暗いから。ひたすらに続く黒い壁が閉塞感を生み出して息苦しさに応えてしまう。
おぼつかない足取りを止めて、顔を正面に合わせる。
「学校。」
気がついたら学校にもうついてしまった。呆然と行き着くまでの速さに驚嘆している。
誰もいない、やっぱり雪さんはいない。掛け時計を見る。時間になっても彼女は来ない。抜け出すなんで簡単なことじゃないんだ。バレたのだろうか。僕よりも大変な家庭なんだ、大変じゃない僕の家庭ですらあれだけ怒られたんだ。きっと、もっと酷い目に、酷い目どんなのなんだろう。
だけど、それってさ。家族の誰かは雪さんに目を向けてくれているってことではないか。いい事なんじゃないのか、助けてくれるって事だろ。愛してくれるって事だろ、幸せじゃないか、そりゃああんなに元気な子になるはずだ。いいじゃないか、不幸なんかなさそうで、不幸せなんて知らなさそう、それでいいじゃないか。羨ましいよ。
「まった?」




