邂逅
花橘の爽やかな香りのする風が頬をなでる。
国常立尊が目を覚ますせば、南面の庭の池の水面はきらきらと輝き、穏やかで暖かい陽の光が射し込んでいた。
「こちらにいらしたのですね。」
神皇産霊神が取り戻してくれた歯車と、龍の君の力、そして、自らの力を合わせて作った機械で一命を取り留めた龍の珠姫が、ほんのりと黄色味を帯びた白い生絹の衣を纏って現れる。
国常立尊は身を起こすと「だらしない姿を見せてしまいましたね」と着崩れた衣を正した。
「もう起き上がってよろしいのですか?」
場を整えて上座へと案内したが、彼女は近くまでは来ず、少し離れた下座に腰を下ろす。
「ええ、お蔭様でこの身は長らえております。昨日も兄様とあの美しい空を見ることもできました。ありがとうございます。」
慣例に則るなら、彼女の礼を国常立尊が受けて、彼女はその場を立ち去るのが習わしだ。国常立尊は「勿体なきお言葉に存じます」と答えた。
これでいい――。
彼女の願いは叶い、あとは残りの時間をゆっくりと過ごしてもらえれば。幸い、神皇産霊神がこちらに味方してくれている。そう思うのに国常立尊は龍の珠姫である彼女の琥珀色の瞳に見つめられると胸が締付ける思いがした。
「今日は龍の君はいらっしゃらないのですか?」
「ええ、何やら宇宙が騒がしい故、見て参ると仰せで。貴方のそば近くにいるように仰せつかったのです。」
「左様でしたか。それであれば尚更こちらをお使いくださいませ。」
しかし、彼女は首を横に振り「それには及びませぬ」と答えた。
「今日は貴方に折り入ってお伺いしたいことがあって参ったのです。」
どうぞお座りになって、と、促されれば、否とも言えず、国常立尊は再び先程まで寝転んでいたところへと腰を下ろし直す。一方、彼女はふわりと舞い込んできた風に僅かに目を細めた。
「折り入って聞きたいこととは――?」
「私に何をなさったの?」
龍の珠姫は「兄様は機械によって延命されたと信じておりましたが、本当は違いますでしょう?」という。国常立尊は「何を仰る」と笑って見せたが、彼女は首を横に振った。
「いいえ、貴方は私に何かをなさったのです。あの時、私は確かに貴方に看取られて息を引き取ったのですから。」
国常立尊は息を飲み、唇を真一文字に引き結ぶ。そして、固く口を閉ざした。
◇
肩に傷を負い、何とか彼女の横になっている帳の内に辿り着いた国常立尊の前には、瑠璃の光を放って、今にも消えかけている彼女の姿があった。
「主様、いかがなさいましたか?」
帳の内に入れずにいる国常立尊の様子に、天狐が声を掛ける。国常立尊はごくりと生唾を飲み込むと「天狐よ」と振り返った。
「中庭にある時じくの香くの木の実と、採ってはならぬ実を持ってまいれ。」
空狐なら「なぜ」と問うただろう。風狐なら「なりませぬ」と諌めただろう。しかし、国常立尊の鬼気迫る気配を察して、天狐はただ「御意」とだけ答えると部屋を出ていった。
「あと少し、もう少しだけ耐えてくださいませ。」
やっと、取り返してきたと言うのに。
祈るようにして神皇産霊神から受け取った袋を握り締める。淡く蛍火のようにして消えていく彼女の様子に、神威を戻す時間が足りないのは明らかだった。
「そこに・・・・・・いらっしゃるのは・・・・・・誰・・・・・・?」
国常立尊の気配に気が付いたのか、彼女の微かな声がする。国常立尊は堪らなくなって、帳の内に入ると、そっと彼女の枕元近くへと寄った。
「泣いて・・・・・・らっしゃるの・・・・・・?」
僅かに動いた手を取り、頬に寄せれば、その手は酷く冷たく、余計に悲しさが増す。
彼女が「泣かないで」と僅かに唇を震わせると、国常立尊は龍の珠姫を抱えるように起こして「なりませぬ」と声を震わせて抱き締めた。
弾みで袋は懐から落ち、空いた口からカラカラと歯車が落ちる。
「奪われた神威を戻せれば、間に合いましょう?」
しかし、彼女からは返事はなく、抱き締めた感触は淡い光と共に徐々に薄くなっていき、すぐ傍でふっと小さく息を吐いたのを最後に、彼女が息を引き取ったのを感じると、国常立尊は胸が潰れる思いになった。
「主様、ご所望の実を持って参りました。」
空っぽな頭の中に天狐の声が無為に響き渡る。
今更、彼女に神威を戻して何になる。彼女は永遠に失われ、この姿も今しばらくしたら、消えた灯火から燻る煙と同じように風に消えてしまうだろう。
国常立尊はそれでも、そっと龍の珠姫の亡骸を横たえると、帳の内に持ってきた実だけを差し入れるように指示した。
「これよりこの方に神威を戻す。私が出てくるまではこの局に何人たりとも入れてはならぬ。」
「承知しました。」
そして、込み上げてくる嗚咽を堪え、息を引き取ったばかりの彼女を抱き直すと、黒い無花果のような犬枇杷の実を手にする。犬枇杷の実はよく熟れて、甘い蜜が滴っていた。
「この罪は、我が罪。また、これより出る幾許くの罪もまた、我が罪。」
そう呪を掛けて右眼の瞼にその実から溢れる蜜を塗る。
「この身は主上に捧げましょう。あらゆる善し悪しを識る知智の実を食し、この方に時じくの香くの木の実を与える代わりに。」
そして、覚悟を決めてそれを食せば、甘みが口いっぱいに広がり、同時に呪を掛けた右眼の方が突き刺されるように痛む。
産霊をしなくては――。
それでも痛みを堪えて手を伸ばすと、今度は時じくの香くの木の実を口にすると、そちらは半透明に消え掛けている龍の珠姫に口移しで与えた。
その唇はまだ柔らかく、僅かに温もりを宿してる。
消させてなどなるものか――。
国常立尊は右眼の痛みを堪えながら、散らばった歯車を拾い上げると龍の珠姫の神威を喰らう。それから、静かに呪を唱え始めた。
機械の歯車に 糸繰りの玉
解けし 運命の糸を 繰り直し
産霊直して 蜘蛛が繭が如く 神魂とせんと欲す
そして、「一、二、三」と反魂の呪を唱えれば、彼女の亡骸と持ち帰った歯車は毛糸のようにして解け、時を戻すかのようにして、ひとつの繭と化し、新たに彼女の姿を産み出していく。
これは禁忌――。
天の理に背くことだとは国常立尊自身も分かっている。ましてや、結局は高皇産霊神の言う通り、龍の珠姫の神威を喰らい、自らの力で「新たな神」として彼女を生み出した。
しかし、それでも、つい先程、息を引き取ったはずの彼女が、再び息をしている姿を見れば心の底から嬉しくなってくる。
このままこの星で一緒に過ごせたら――。
そう思った途端、右眼の痛みは国常立尊の願いを咎めるように悪化する。
「ぐ、ぅ・・・・・・、あぁ・・・・・・ッ!!」
堪らず身体をくの字に折る。国常立尊は頭の中に押し寄せる膨大な知識と智慧を前に狂そうになる。
未来なのか、過去なのか――。
平安は一瞬のうちに去り、争いが起こる。
たった今、助けた姫の胸は賢木に穿たれ、龍の君は弑され、自らは更なる罪を重ねる。
世界には龍吟の琴が鳴り響き、鬼界にある山が噴火して、方舟に逃れた僅かな生き物たちを残して全てが洪水に飲み込まれ、築き上げた箱庭の星は終焉を迎える。
もうやめてくれ。
もう見せないでくれ。
哀しい。
辛い。
苦しい。
壊れる――。
帳の外で控えていたのであろう天狐の「主様ッ!」という呼び声に我に返り、ふらふらと帳の外に出る。
天狐は真っ青で唇を震わせている国常立尊を抱き止めると「いかがなさいました?」と訊ねた。
「何でもない。少しばかり疲れただけだ。」
「何でもないようには見えかねますが、では、あちらでお休みになってくださいませ。お客人の姫様は私めが責任を持って看病致しますゆえ。」
嫌だと言われても連れていかねばと、天狐は呆れ声でそう諭したが、国常立尊はいつもとは違い「分かった」と即答した。
「肩の傷も疼くゆえ、しばらく一人にしておくれ。」
そうして、彼女に会うのを避けて来たと言うのに。琥珀色の瞳でこうして真っ直ぐ見つめられると、罪の告白をして全てを懺悔したくなった。
◇
黙して語らない国常立尊の様子に、痺れを切らしたのか、龍の珠姫はすっと目を細める。
「質問を変えるわ。その金色に揺らぐ右眼は何が見えているの――?」
龍の珠姫が心配そうに手を伸ばしてくる。国常立尊は龍の珠姫の手が届く前に身を引いた。
「これは、貴女には関わりのないこと。」
これ以上、踏み込ませてはならない。
これ以上、踏み込ませれば、彼女はこの右眼に映る悲劇に巻き込まれてしまう。
それこそ自分は耐えられぬ。
「貴女をお助けしたのは、龍の君に頼まれたからに過ぎませぬ。彼が霊に逆らえば、この星を消す事など容易にございましょう?」
国常立尊はそう説明し、波立った心を抑えるように自分を言い聞かせた。
運命は変えられぬ――。
ただ、出来るのは、天之御中主神と同じように、心を静めて、必要な時以外は何も見ぬように目を塞いでおく事だけだ。
一方、龍の珠姫は国常立尊の言葉に傷付いた表情をし、「では、こちらに私がいるのもご迷惑なようですね」と手を下ろす。そして、「近日中にはこの星からもお暇致しましょう」と一礼をした。
これでいい、これで――。
彼女の生絹の衣の、さらさらという衣擦れの音が小さくなる。
これで、彼女は救われる。
また美しい瑠璃の宮に住まい、龍の君と共に天之御中主神の元で永久を過ごせる。
この罪は自分だけが負えば、それで全てが丸く収まる。
そう思うのに国常立尊は胸がいっぱいになり、鼻の奥がツンと痛んだ。
自分が彼女を求めれば、彼女は傷つき、失われる運命にある。
彼女を求めてはならない、のに――。
顔をあげれば、彼女はまだ立ち去っておらず、美しい庭の景色を背にして、こちらを見ていた。
「国常立尊、私を助けてくださった御礼に、貴方に名を与えましょう。どこまでも吹き渡る科戸の風の愛しき方。」
その言葉に国常立尊は駆け出していて、彼女の袖を引くと、力いっぱい抱き締める。
愛しくて。
失いたくなくて。
この腕の中に留めておきたくて。
でも、それは適わないと分かっていて。
「名など与えてくださるな。名を与えられたら、それこそ、私は貴女と離れられなくなる。」
「なれば、こそ。これは私からの呪縛。」
言ってくれるな。
言の葉は言霊となって互いを縛る。
「呪縛などと、貴女は龍の・・・・・・。」
国常立尊が言いかけた唇を覆うようにして、彼女は首を横に振った。
「今の私はただの佐須良。貴方が産霊直した誰のものでもない私。貴方が理由を話し、私に元の龍の珠姫として生きろと望むなら、兄様にお話してそのように致しましょう。」
「私が話さなければ・・・・・・?」
「それなら、このまま、私から名を受けて。」
「できません。いずれも貴女を苦しい運命に巻き込んでしまう。」
国常立尊が嘆くようにした答えに、佐須良は「それがいいの」と答えた。
「私は貴方の願い、貴方の祈り。そして、一人苦しむ事を決めた貴方の希望。」
国常立尊の左眼から零れ落ちた涙を、佐須良が袖で拭い「貴方が千度泣くのなら、私は千五百拭って差し上げましょう」と笑うから、国常立尊は涙を止めることが出来ずに泣き崩れた。
「貴方の罪は私も受けましょう。貴方の祈りが私であるように、私の祈りもまた貴方。」
罪という罪はあらじ――。
その罪を持ち、流離い、無くしてしまえ、と祈り続ける。
「だから、この名を受けてくださいませ。」
苦しい冬が続いても、春が来て種が芽吹くように、草が繁るように。そして、やがて花が咲き乱れ、実を結ぶように。
祈りを込めた「伊吹」という名を。
あたりは花橘の爽やかな香りのする風が吹くばかり。国常立尊はこくりとひとつ頷いた。
(了)




