八岐大蛇
山体崩壊をしているような火山に立ち向かうなど、愚かにも程がある。
疾風で何とか身を守っているが、正直、どこから手を付けたら良いのか分からない。それでも、湯津爪櫛の中で喚いている奇稲田姫の様子に素戔嗚尊は苦笑すると、比較的安全そうな山の上に降りて、封印を解いて奇稲田姫を自由にした。
「兄様ッ!! 一体、何をなさるのですッ?!」
「あ、痛たたた・・・・・・。そなた、存外、じゃじゃ馬だな・・・・・・?」
「なッ!?」
顔を真っ赤にして怒る奇稲田姫に、素戔嗚尊は「そう怒るな」と宥めると、もうもうと黒煙の噴き上がる山を指差した。
「これ以上、被害が拡がらぬよう、これからあそこに行ってくる。」
「あのような所に?」
「ああ、幸い、八岐大蛇は心の太柱を登るには至っておらぬしな。今ならまだ止められよう。」
上空から今一度確認してみたところ、龍の琴軋の見せた過去の出来事に比べれば、今回の被害はいくらかマシなのを感じた。
「先にこの辺りをぐるりと囲い、これ以上被害が広がらぬようにしようと思う。」
素戔嗚尊がそう説明すると、奇稲田姫は「私は何をすれば良いのですか?」と訊ねた。
「この山で龍吟の琴を鳴らしてほしい。」
「琴を?」
「ああ、その琴は一掻きすれば邪を祓い、二掻きすれば魔を祓う。三掻きすればこの辺りは雲で覆われ、四掻きすれば《氷》の力を使えるはずだ。一か八かだが、それで地上が冷やされれば、八岐大蛇の威力を抑えられよう。」
そして「その間に八芒の星を結んで参る」と飛び去っていく。
残された奇稲田姫は呆気に取られつつ、「兄様ったら」と呟く。遠く離れてやがて黒煙の中に飛び込んでいく素戔嗚尊を見送ると、奇稲田姫は龍の琴軋で一掻きしてみた。
びいんとなる龍吟の琴は僅かに霊力を乗せた試し弾きに過ぎないのに、波状に空気を震わし辺り一帯を清々しいものに変えた。
二掻きすればその範囲は更に広がり、三掻きすると繭玉の力が引き出されて、わたあめが出来るかのようにして、空に雲が生じていく。
そして、四掻き目――。
しかし、素戔嗚尊の言ったような《氷》の力らしきものは起こらず、奇稲田姫は当たりを見回した。
広がるのは雲ばかり。素戔嗚尊の向かった山は未だ変わらず、黒煙が上がり、その裾野は赤々と燃え上がっている様子が見える。
(何も起こらない・・・・・・?)
自分の弾き方が悪かったのか、不安になってもう一度鳴らしてみても、何か変わることはない。と、不意に目の前に広がった厚い雲の中に人影が揺れてふわりと降りてきた。
「ああ、良かった・・・・・・。兄様、ご無事だったのですね?」
咄嗟に呼びかけたが、姿を現したのは素戔嗚尊ではなく、もっとずっと小柄で、齢五つ、六つの歳のころの男の子だった。
みずらに結った白銀の髪は風に揺れ、緋色の瞳は燃えるようで、見据えられると奇稲田姫は思わず息を飲む。
「貴方は・・・・・・?」
「上の者には先に己が名を名乗るのが礼儀ではないか?」
奇稲田姫は少年の首に天津神の首飾りがされているのに気がつくと、ハッとして「申し訳ございません」と謝る。そして、丁重に拝礼すると「私めは大宜都比売神が乙子、名は狭姫にございます」と名乗りした。
「我を呼んだは汝か?」
奇稲田姫が上手く答えられずにいると「おや、そこにいるのは淤加美神ではないか?」と聞き覚えのある声がして、二人して振り仰ぐ。
そこには薄青い衣を身にまとった神皇産霊神が雲間から降りてくる。淤加美神はその赤い眼を細くして、神皇産霊神の姿を見つけると「神皇産霊神?」と声を掛けた。
「我を呼んだのは貴女か?」
「いや、私もその琴に呼ばれてやって来たのさ。五掻きすれば、産霊の神を招くのがその琴の力だからな。それにしても、てっきり素戔嗚尊が呼んだのだと思ったが、意外な子に呼び出されたものだねえ。」
そして、神皇産霊神が「久しいね」と話す。奇稲田姫が目を白黒させていると「慌てずとも良い、いったん深呼吸してから、何が起こっているのか教えておくれ」と促した。
奇稲田姫は神皇産霊神に頷くと、噴火から逃げ出した所を素戔嗚尊に助けられてここまで来た話を順をおって説明した。
「須佐の兄様は八岐大蛇を抑えるため、地を冷やして欲しいと言われたのです。」
「なるほど、それで淤加美神が呼び出されたわけか。」
「それでなぜ我が呼び出されるのか、話が読めぬ。」
淤加美神が不満そうに返事をすれば、神皇産霊神は「何、少しばかり、噴火の威力を弱めて欲しいと言っているのさ」と淤加美神に説明してくれる。
「上手く加減をして雨を降らしておくれでないかい?」
「葦原中国の事に手を出せば、かか様が黙っていないだろう?」
神皇産霊神が「ああ、それは大丈夫だよ」と言い切る。
「私の命だといえば良い。」
その言葉に淤加美神は幼い見た目に見合わない険しい表情のまま「分かった、では、その時は口裏を合わせてくれ」というと、小さく呪を唱える。途端にぽつぽつと雨が降り始めた。
「これでよいだろうか?」
「ああ、ちょうど良かろう。」
降り始めた雨は、段々と激しさを増し、あちこちで火の手が上がっていた葦原中国を鎮火していく。
「あちらも何とかなるか?」
「ああ、出来るとは思うが・・・・・・。」
そう言うと、暴れ川と化している神門川の流れを神威を使って変える。奇稲田姫は幼い姿の淤加美神の力に目を見張った。
「それで、この後はどうする?」
神皇産霊神が誰もいない厚い雲に向かって声をかける。そして、一瞬の後、雲が風で吹き飛ばされる。そこには水を滴らせた素戔嗚尊の姿があった。
「淤加美神と神皇産霊神? なぜ、お主らがここにいる?」
「呼ばれたからに決まっておろう?」
殺気立っている素戔嗚尊に、神皇産霊神は軽口を叩く。
「龍吟の琴を使ったというのに、随分と手こずっておるようだな。」
「ああ、一帯は封印したが、肝心の本体が見つからぬ。」
そう言いながらも奇稲田姫は素戔嗚尊に神威で引き寄せられ、急に強い風に巻き上げられると、すっぽりと素戔嗚尊の腕の中に収まっていた。
「姉上が岩戸籠もりしたせいか、気配が薄れている。」
「本体?」
淤加美神が尋ねれば「ああ、剣か、篭手辺りだとは思うのだが」と答える。それを聞いていた神皇産霊神は「剣だ」と断言した。
「二つの宝珠は和邇の一族に、そして、竜の爪は幽世にあるからね。」
「剣か・・・・・・。」
そう言いながらも素戔嗚尊は奇稲田姫を下ろす気配がないから、奇稲田姫はそっと素戔嗚尊の衣の胸元の辺りを引っ張った。
「あの・・・・・・?」
「どうかしたか?」
「私、いつまでこの状態なのです?」
「嫌か? 嫌なら櫛に戻っておれ。」
「ちょ・・・・・・ッ!?」
そう言って再び奇稲田姫を櫛に封じてしまうと、その様子に神皇産霊神はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「護るようにとは言ったが、また随分と過保護だねえ。」
「ああ、この子が最後の一人だからな。」
「最後の一人・・・・・・?」
「ああ、だが、高天原に捕らえられている合間に、高皇産霊神は姫神らを《八岐大蛇の贄として山に捧げよ》と託宣し、葦原中国の民草を焚き付けたらしい。」
大山祇神は里の事には口を出せない。神皇産霊神を呼び出すには素戔嗚尊の許しがいる。そして、その素戔嗚尊は高天原にいた。
素戔嗚尊は奇稲田姫を封じた櫛に触れ、「今から話すことは奇稲田姫には聞かせたくない」と断った上で、見聞きしてきたことを話し始める。
「小豆原は火砕流に埋もれ、稗原は神門川の増水に流されていた。」
それらの地はどこも高皇産霊神に従い、五穀の姫神を山に捧げた土地だった。そして、そこから逃げ出てきた男衆は口々に「五穀の姫神の祟りだ、助けてくれ」と八芒星の呪を施していた素戔嗚尊に縋ってきたという。
そして、男衆の話で山に捧げる名目で無抵抗な姫神を代わる代わる襲ったのだと知ると、腸が煮えくり返る思いがした。しかし、淤加美神に見つめられるとそれを話すのは憚られて、素戔嗚尊は詳しくは説明せず、「咎のあるもの達ゆえ、比婆山に捨て置いてきた。返すかどうかは、お袋殿が判断するだろうよ」とだけ話した。
「かか様に咎人の判断を委ねられたのか? それでは多くの者は戻れまい。」
神皇産霊神は素戔嗚尊の表情に何かあったのだろうと察し「素戔嗚尊がそう判断せざるを得なかった理由があるのだろう」と淤加美神を諭す。それから素戔嗚尊に「それより八岐大蛇を封じるのに何か手助けはいるか?」と訊ねた。
「脚摩乳命と手摩乳命があちらの山の上にいる。可能なら大山祇神の元まで届けてやって欲しい。」
「脚摩乳命と手摩乳命を?」
「ああ、脚摩乳命は片翼を失っている。赤雁も居ないようだし、手摩乳命だけでは運べまい。」
それを聞くと、淤加美神は眉根を寄せて「片翼を失うなど、脚摩乳命に何があった?」と訊ねた。
「脚摩乳命は黄泉に住まう我にも、他と隔てなくしてくれた心優しき者ぞ。素戔嗚尊よ、そなた、葦原中国の民草は救うて、脚摩乳命は怪我の手当もせずに放置してきたというのか?」
その問いに素戔嗚尊は首を横に振ると「脚摩乳命の傷はもう二年以上前のものだそうだ。片翼を失って久しい」と話す。それから、「高天原に五穀の姫神の助命の嘆願をした時に受けた傷だそうだ」と話せば、淤加美神は燃えるような赤い瞳を細めた。
「淤加美神、落ち着け。お主が高天原に牙を剥いたところで相手が悪い。」
「神皇産霊神、お主は誰が糸を引いているのか知っているのか?」
「ああ、知っている。そして、それは大山祇神も素戔嗚尊も知っていることだ。」
神皇産霊神が「恐らく伊邪那美命も承知していよう」というと、淤加美神は「では、なぜ、かか様や兄弟達は戦わぬ?」と問う。素戔嗚尊は深く長く息を吐いた。
「我らは戦わぬのではなく、戦えぬのだ。反論すれば、反論しただけ大事なものに火の粉が降りかかる。」
愛すべきものがあればこそ、沈黙を選ばねばならぬ時もある。
「我らに出来るのは、この大いなる厄災を受け入れ、受け流すことだけだ。真なる敵と戦うには、我らは牙を抜かれていて、家畜同様、飼い慣らされ過ぎている。」
そういう割に素戔嗚尊は何もかもかなぐり捨て、妙に晴れやかな表情をしている。
「だが、お主のその顔、飼い慣らされているそれとは、だいぶ違うように思うのだが?」
神皇産霊神が呆れ顔でそう言えば、素戔嗚尊は「今の俺は持たざる者だからな、護るべき地位も名誉も何も無い」と歯を見せて笑い晴れやかに答えた。
そして「命さえ脅かされて飼い主の手を噛みちぎるなら、今しかないだろう?」と不敵に笑う。神皇産霊神はそんな素戔嗚尊の様子を見ると、いつかの国常立尊を見ているようで不意に不安になった。
「先程、大山祇神から火産霊神が高天原に呼ばれたと一報を受けた。高天原の奴らが何をする気か知らぬが、火産霊神に何か危害が加えられれば、古い盟約に従い、私の掛けた呪が発動する。それゆえ、お主ばかり気負うでない。」
「神皇産霊神、お主の呪とは・・・・・・。何だかろくな事にならぬ気がするが、お主、高天原を焼き尽くす気か?」
神皇産霊神が「まあ、近しい事態になるだろうけれど、そうならない事を心から願うよ」と静かに笑う。素戔嗚尊は「容赦がないな」とカカッと笑うから、淤加美神は不安げに二人を見上げた。
「案ずるな、高天原に火が放たれたとして、黄泉の国までは至るまい。」
「全く、神皇産霊神も血の気の多い事だ。淤加美神よ、お袋殿には《葦原中国の事はお任せ下さい》と伝えてはくれぬだろうか?」
「任せても良いのか?」
「ああ、これは高天原と葦原中国の問題。お主を巻き込んだ時点で手遅れやもしれぬが、そこは今の伝言を頼まれるのに呼ばれたとでもしてくれると助かる。これ以上、黄泉の国を巻き込めば、それこそ大事になろう?」
そう言うと素戔嗚尊は龍吟の琴を琴軋の中に収め直すと「今、一度、剣を探しに行って参る」と言い、疾風と化して姿を消した。
「素戔嗚尊は高天原と刺し違える気なのだろうか?」
「ああ。随分と前からね。」
自分の出生を知ってから、特にそれは顕著だ。自分自身を呪うかのように天に唾し、その癖、誰よりも世界に許してもらいたいと足掻いている。
「私はね、あの子が糸が切れて風に流されている凧に思える。風に流され、行先を見失ってしまったような。あの子を糸虫の糸が繋ぎ留めてくれるといいんだけれどね。」
死に急ぎかねない素戔嗚尊の様子に、神皇産霊神は「長く生きていると難儀な事ばかりだよ」とぼやき、脚摩乳命の元へ急ぐ事にした。




