十種の御宝
「それで、どうなったのです?」
八嶋士奴美神はやや前のめりになって神皇産霊神に訊ねた。
「どうって、あとはお主の父上が、お主の母上を助け、八岐大蛇を退治する話になるわけだが・・・・・・?」
その答えに八嶋士奴美神は「あ、ああ、そうか」と合点するから、神皇産霊神は可笑しそうにくすくすと笑った。
辺りはすっかり暗くなり、和多利が灯明に火を入れている。さっきまで凪いでいた潮風が、再び吹き始めている。
「気になるなら、続きを話しても良いのだが・・・・・・。」
そう言って神皇産霊神が日暮れかけの空を見ると、八嶋士奴美神は「大己貴命の事ですね?」と肩を竦めた。
「ああ、あちらの様子もそろそろ見ておかないと、あの子は何をしでかすか分からないからね。塩土老翁が悲鳴を上げてやしないか心配だし。」
八嶋士奴美神はそれを聞くと「確かに」と合点して、和多利に龍翁の龍の鱗と、雅に持たせた餌木の片割れを持ってくるように命じた。
「ああ、そうだ。和多利が戻ってくる前にもうひとつ確認したい事があるのですが・・・・・・。」
「なんだい?」
「八岐大蛇の事にございます。その化け物が本当に天変地異を引き起こしていたのですか?」
その言葉に神皇産霊神はハハッと声を立てて笑った。
「お主、八岐大蛇を《化け物》だと思っていたのかい?」
「違うのですか?」
「ああ、違う。八岐大蛇は《神威》に過ぎぬ。」
「神威・・・・・・? では、本体はどこに・・・・・・?」
その言葉に神皇産霊神は無言で足元を指差す。
「国常立尊も無謀な奴でな。龍の君が最期に龍の琴軋を手にしていたのに気がついてな、己が身を眷属の八狐を喰わせることで、龍の君の魂を無理やりこの《星》に縫い止めたのさ。」
龍の君と龍の珠姫が一対で居られるように、そして、高皇産霊神が暴走しても《大峠を引き起こすこと》が出来るように。
神皇産霊神は「前回の《大峠》は素戔嗚尊がおさめたが、此度は心の太柱が衝撃に耐えられぬだろう」と話した。
◇
前回の《大峠》の時。
素戔嗚尊は目の前に広がった景色に、大宜都比売神の邸で翡翠色の琴軋が見せた「世界の滅び」の夢を思い出していた。あの時もこうして地鳴りがし、山は火を噴き、川は暴れ、風が吹き荒れていた。
滅べばいい――。
何もかも――
あの時、願ったのは自分だったのか、それとも龍の君だったのかさえも定かでない。ただ、今、手摩乳命の背中をさすっている奇稲田姫の様子を見ていると、その姿と榛摺色の髪をした娘の姿が重なって見えて、落ち着かなくなる。
「我らには、もうその子しか残っておりませぬ。」
人の姿に戻った脚摩乳命は、先程までの覇気は消え失せ、急に年老いてしまったかのように見えた。
「他に七人いた姫は、奇稲田が申し上げたとおり、高皇産霊神の指定した山に捧げられ、それ以来、行方知れずにございます。」
効果がないことは分かっている。それでも葦原中国の民草は、藁にも縋る気持ちでこの窮地を救って欲しいと、五穀の姫神を八岐大蛇の贄に捧げよと迫ってくる。
「高皇産霊神に《託宣は間違いだったと仰ってください》とも上申しましたが、《ならば、大宜都比売神の繭玉を寄越せ》と仰せで取り合って頂けませんでした。そのような物は無いというのに・・・・・・。」
それでも「お助け下さいませ」と縋った結果、脚摩乳命の片翼は「無礼だ」と護衛の者に切り落とされてしまったらしい。
「須佐の大神よ、どうか我らをお助け下さいませ。このような事態、もう貴方様にお縋りするより、我らも手立てがございませぬ。」
脚摩乳命は「非礼を働いた事、我が命にて贖いますゆえ、どうか奇稲田をお助け下さいませ」と震えながら奏上する。
素戔嗚尊はむっすりとした表情のまま、脚摩乳命を助け起こすと「では、早速、命で贖って貰おう」と答えた。
「お主はこの山道に通じている様子。大山祇神の邸まで案内せよ。このままでは四人とも灰に埋もれてしまう。」
脚摩乳命はそれを聞くと目をぱちぱちとさせ、近くで話を聞いていた奇稲田姫は「須佐の兄様は相変わらずお優しい」とくすくす笑う。
「何を笑うか。大山祇神の元まで逃がれられねば、我もそなたらも一蓮托生だぞ? 命で贖うというのだ、これで帳消しだろう?」
そして「足が痛むだろう、背に乗れ」と奇稲田姫を背負い直し、手摩乳命を助け起こすと「泣くのは後にせよ」と尾根に向かって歩みはじめる。
脚摩乳命に一番最短で大山祇神の元まで抜ける道程を案内させる。そこまでの道のりも決して楽ではなかったが、降り積もる火山灰に足をとられながらようやく峠に出られたのは日暮れ時だった。
峠に差し掛かり、逃げてきた平野部が見渡されるようになる。
「ああ・・・・・・。」
脚摩乳命と手摩槌命が絶句したのも無理はない。
「佐比売山が・・・・・・。」
かつて、向かいにあったはずの山の稜線は、大きく抉れ、外輪山はそのままに、内側にあったはずの山が半分ほどが崩れている。
赤い瞳はまるで熟れた鬼灯のよう――。
その腹は赤く爛れ、血に染まる――。
素戔嗚尊は、和邇の一族に伝わっていた「八岐大蛇」の逸話を思い出した。
遠つ海、今は沈んだ弥盛の島に現れたそれは、頭と尾が八つずつあり、その背には苔、杉、桧が生えるという大蛇で、老若男女、貴賎を問わず全てを喰らい、世界一つ飲み込む程の嵐と大洪水を引き起こしたという。
和邇の一族の内、今の高志の国にあった神皇産霊神の社近くで、神皇産霊神に助けてもらった者が、その時の恐ろしさを脈々と口伝で伝えてきた話だ。
そして、今まさに目の前に見える山は、刻々として形を変え、黒煙はまるで鎌首を擡げた大蛇のようにして濛々と立ち上る。尾が暴れるようにして火砕流や土石流が川を流れ降り、苔むした土や大木の杉、檜の生えた山肌が蠢くようにして地滑りしていく。
ズズズズッと鈍い地響きがして、次の瞬間、ドドンと、地の底から目に見えぬ何かが這い上がってくるような揺れが起こると、脚摩乳命と手摩槌命は近場の岩や木にしがみつき、素戔嗚尊は奇稲田姫を背負ったまま四つん這いになった。
一際、大きな噴火に素戔嗚尊は、干上がり、張り付いた喉で「早う、逃げよ」と声を絞り出したが、脚摩乳からの返事はない。隣に座り込む手摩乳も立ち上がれないでいた。
「兄様・・・・・・?」
ごくりと生唾を呑み込む。
大山祇神の邸まで逃げられれば何とかなるのではと安易に思っていたが、和邇の一族の言い伝えの規模で災厄が起こるなら、大山祇神らも逃げ惑っているかもしれない。
神皇産霊神ほどの力の持ち主であっても、助けられたのは二柱の神と僅かな民草だけだったと聞いた。
背中に負った奇稲田姫が、心配そうに身動ぐ。そして、静かに祝詞を上げ始めた。
幽世に坐まします 龍の君は
大宇宙根源の 御祖の御使いにして
一切を産み 一切を育て給う
自分も怖いだろうに震えたか細い声で、それでも心を込めて歌う様子にざわめいていた心が落ち着く。ふと手元を見ると龍の琴軋が淡く光り始めているのに気がついて、素戔嗚尊は身を起こすと、ぐいと奇稲田姫の肩に掛けられた腕を引いた。
「その祝詞は――?」
「神皇産霊神にその琴軋をお預かりした時に習ったものです。」
苦しい時、辛い時、どうにもならなくなった時、その琴軋に祝詞せよと言われたのだと言う。
「続きもあるか?」
「は、はい・・・・・・。」
奇稲田姫がおずおずと続きを口にする。
汐干珠 汐満珠 龍吟の琴
沖津鏡 辺津鏡 大蛇の肩巾 波濤の盾
龍鱗の鎧 竜爪の篭手 天叢雲の剣
ひふみ よいなむや ことの
十種の御宝を 己が姿へ変じ給いて
祓い給え 清え給え
自在自由に 天 地 人を 治め給え
その祝詞に合わせて、不思議と龍の琴軋は輝きを増す。素戔嗚尊が「解けよ」と言うと琴軋からは一艘の和琴とそれと共に肩巾が現れた。
「武具の類ではなかったか・・・・・・。」
失望の色を露わにした素戔嗚尊は、ふと己が身と奇稲田姫の身が淡く光り輝いている事に気がついた。それには端で見ていた脚摩乳命も手摩乳命も「何が起きたのです?」と驚きの声を上げる。
「分からぬ。だが、龍の君の力をお借りする十種の御宝の封印が解けたと見ゆる。」
「龍の君の力?」
先程までの恐ろしい地鳴りと揺れは治まり、辺りを見れば半球状のドームのように風が膜を張り、この辺りだけ噴石や降灰の被害が抑えられている。
「これは・・・・・・。」
脚摩乳命が目を見張る横で薄青い膜が幾重にも覆い、シェルターのようにして辺りを覆った。祝詞通りなら、波濤の盾の力だろう。
「大蛇の肩巾、龍吟の琴。武具はないが、これらで上手く八岐大蛇を宥められれば、あるいは――。」
そう言って奇稲田姫と目が合うと、素戔嗚尊は不意に神皇産霊神の言葉を思い出して言葉を呑み込んだ。
《お主は、先程の五穀の姫神を嫁に貰うことになるからよろしくな。》
八姫の内、どうやら自分と縁を結んだのはこの奇稲田姫らしい。だとすれば、この心根の美しき姫神は自分にとって大恩人だ。そしてその姫神が窮地にある今、「何を迷う事があるのか」と素戔嗚尊は不意に心が定まったのを感じた。
「乙子の狭姫よ。そなたは八岐大蛇の贄になどならずともよい。」
不安げに自分を見てくる奇稲田姫に、素戔嗚尊はいつになく柔らかく笑った。片膝を付くとこくりと頷く奇稲田姫の手を取り「何も心配することはない」と話す。
「八岐大蛇を抑える役目はこちらで引き受ける。」
「兄様、何をなさるおつもりなの?」
「あれを退治して参る。」
「退治・・・・・・?」
「ああ、元凶がなくなれば、そなたは贄になどならずとも良いだろう? それに、それでもそなたらが元の里に戻れぬというなら、我が宮に来ればいい。」
「兄様の宮に?」
「ああ、神皇産霊神の手のひらの上で転がされてる心地もするが、そなたを一の妃として娶ろう。」
素戔嗚尊が「不満もあるだろうが」と言えば、奇稲田姫は困惑した様子を残しながらも「いいえ」と嬉しそうな眼差しになった。
「須佐の兄様の元へならば、喜んで参りましょう?」
「よし、では、決まりだな。早速だが、許せよ。」
と、素戔嗚尊は「え?」と驚いている奇稲田姫を湯津爪櫛の中に封じる。それには脚摩乳命と手摩乳命が声を荒らげた。
「何をなさるのです?!」
「姫の力を借りるのだ。何、案ずることはない。この湯津爪櫛は神皇産霊神より譲り受けしもの。この内にあれば安全だ。」
そして、腰に佩いていた頭椎の十拳剣に肩巾を巻き付けるようにして結ぶ。
「しばらくすれば神皇産霊神か大山祇神がここに来よう。あとは頼んだ。」
龍吟の琴を抱えて、素戔嗚尊は走り出すと、呆然としている脚摩乳命達を残して、真の名の通り、疾風と化して掻き消えた。




