五穀の精霊
「母が大宜都比売神の娘ですか? そんな馬鹿な・・・・・・。」
困惑の表情で八嶋士奴美神が問えば、神皇産霊神は「だが、真実だ」と笑う。
「奇稲田姫は大宜都比売神が末娘、狭姫という。私が産霊した子だ、嘘偽りではない。」
「しかし、大宜都比売神は父に殺されたのでは? 母は親の仇に嫁いだと仰るのですか?」
「確かに大宜都比売神は殺された。だが、お主の父にではないぞ?」
「そうなのですか?」
「お主の父にもヤンチャな頃はあったが、いたずらの程度といい、女のあしらいといい、分別はお主よりずうっとあったように思うぞ?」
その手の話になると八嶋士奴美神は「何を仰るのです」と声をうわずらせ、兎姫が聞いてやしないかときょろきょろと目を泳がせた。
神皇産霊神が「そういう時の反応は父子一緒だな」と面白がるから、八嶋士奴美神は「からかわないでくださいませ」とムッとした表情をする。
神皇産霊神はフフッと可笑しそうに笑みを浮かべると、「ともあれ、大宜都比売神の一件は、伝承と違って素戔嗚尊は関わってはいないよ」と答えた。
「では、一体、誰が大宜都比売神を?」
「さあ、そこまでは私も分からない。だが、高皇産霊神は一枚噛んでいるだろうね。」
「何か確証がおありなのですね――?」
「ああ、天之麻迦古弓が使われた形跡があったからね。」
途端に八嶋士奴美神は顔を強ばらせる。そして、しばらく言葉が出ないようで、口を開きかけては噤み、また開きかけては噤むを、二、三度繰り返した。
「あの日・・・・・・、大宜都比売神はその心の臓を、天若日子と同じように天羽々矢で射抜かれていた。素戔嗚尊は大宜都比売神に呼び出されて確かに邸を訪れていたが、彼女が討たれたのは素戔嗚尊の来訪前だ。お主の父はたまたま大宜都比売神が亡くなった後の邸を訪れたに過ぎぬ。」
「それは本当に《たまたま》なのですか?」
「さあね、そこも高皇産霊神が計算づくめやったのかもしれないが、それについても確証がない。」
そういうと神皇産霊神は「大宜都比売神の最期は状況証拠しかなく、その状況証拠で言えばお主の父が不利だというだけだ」と話す。
「では、なぜ父は反論しないのですか?」
「反論せぬのではない。反論出来ぬのさ。」
◇
静寂の霧が包む波多の森で、轟音と共に神皇産霊神の前に現れた黒い山のような影は、大きな青鷺の姿と変じた脚摩乳命であった。
《我が主をどうかお助けくださいませッ!》
脚摩乳命からはすでに大宜都比売神の神使としての気配はなく、妖の気配に変わっている。
神皇産霊神は僅かな篝火の明かりを頼りに「こんな夜中にいかがしたのだ?」と脚擦乳命に声をかけた。
《詳しくは私にも分かりませぬ。ただ、大山祇神にお尋ねしたところ、神皇産霊神をお連れしろと仰せでございました。》
最早、人語を操れなくなった脚摩乳命の声は、他の者にはグワァッという鳴き声にしか聞こえないだろう。
神皇産霊神はそんな憐れな大鷺の嘴に手を伸ばして触れると「すまない」と詫びた。
「お主も知っておろう? 私はこの地から許可なく外に出られぬ。助けたくとも助けられぬのだ――。」
すると、脚摩乳命はぶるぶると羽を震わせて、紐の付いた木札を地面に落とし、嘴の先で器用に摘みあげると、そっと神皇産霊神に差し出す。手に取るとそれは通行手形で大山祇神の裏書が書いてある。
《その辺りは大山祇神が何とかして下さると仰っておりました。何卒、お力をお貸し下さいませ。》
「しかし、私とて万能ではない。お主のその姿、最早、手遅れかもしれぬ。死んだ者は黄泉の国の管轄だ。」
《それも心得ております。しかし、貴女様でないと出来ぬ事があり、大山祇神が貴女様をお呼びするようにとの事でございました。》
「私にしか出来ぬ事・・・・・・?」
《はい、まだ力なき幼き五穀の精霊達の産霊をして頂きたいのです。》
稗、粟、黍、大小の豆、大小の麦、そして、稲。
それら、大宜都比売神の庇護下にある五穀の精霊は、大宜都比売神が完全に消えてしまえばこのまま消えてしまう。脚摩乳命はそれだけは防ぎたかった。
《この願いは我が主からの最期の命にございます。どうかお助けくださいませ・・・・・・。》
天変地異が続き、山と葦原中国の民草とのバランスが崩れ始めたのがきっかけで、かつては僅かに木の実を取り、貝を食べていた葦原中国のもの達が、じわじわと山を切り崩して侵食してくる。
春になると山肌は焼かれて、ほ場とされ、連作を防ぐために、またしばらくすると別のところが焼かれ、大宜都比売神はその様子にたいそう心痛めた。
肥大化した人口は、もはや山の恵みのみでは支えられず、山の獣たちも葦原中国の民草も弱者から飢えて痩せ細っていく。
大宜都比売神とて何もしなかった訳ではなく、幾度となく高天原に救援を願ったが、返答はいつも同じだったという。
異なる世の者に、干渉してはならない――。
《ですが、そう問答している合間にも獣も人も死にます。それゆえ、主様は大山祇神が妻、野椎神に、痩せた地でも育てられそうな種々を教えて欲しいと訊ねられたのです。》
そして、手に入れたのが五穀の種だったという。
《私と妻の手摩乳は、大宜都比売神に《五穀の種の精霊を守り育てるように》と、命じられました。》
しかし、種は簡単には育たない。
《あの子らは丁寧に草を引いてやらねば、他の草に負けて、すぐに枯れてしまいます。》
試行錯誤を繰り返して、先ごろようやく穂を付けたところだというのに、今、自分たちが神使としての力を失い、ただの妖に戻ってしまえば元の黙阿弥になってしまう。
《今は久延毘古に見てもらっていますが、彼も大宜都比売神に生み出された神使。やがて、その役目を忘れて朽ち果てましょう。》
脚摩乳命はそれゆえ神皇産霊神に来てもらい、五穀の精霊を神として産霊をして欲しいのだという。
神皇産霊神は脚摩乳命が「神として産霊をして頂ければ、あとは大山祇神の眷属神として下さるように手配してあります」と言うと「分かった、急ごう」と言い、脚摩乳命の背に乗って大宜都比売神の社に向かった。
あの日は、丁度、今日と同じように空は青く澄んでいたように思う。
大宜都比売神の邸に降り立った神皇産霊神を待ち受けていたのは、既に事切れた大宜都比売神の遺骸と、その心の臓から抜き取った丹塗の矢を握り締めて立ち尽くしている素戔嗚尊、そして、その足元に転がる八つの大きな繭玉だった。
「なぜ、お主がここにいる?」
神皇産霊神が驚いて声をかけると、髭をたっぷりと伸ばした素戔嗚尊から「それはこちらの台詞だ」と言われた。神皇産霊神は見た目とは反して子供のように不貞腐れる素戔嗚尊の様子に「何だって、そんな格好なのだ?」と尋ねる。
「これか? これは和邇の一族に話を聞きに行っていたからだ。あそこは願掛けしている間、髭を剃ることは控えねばならぬだろう? それよりも今はこちらだ。大宜都比売神に呼び出されて来てみれば、この有様だ。」
その問いには神皇産霊神ではなく、庭にいる大鷺が、神使らしく恭しく頭を下げたかと思うと、それからグワァッとひと鳴きして応えた。
《客人の神よ、それが我らにも分からぬのです。ただ、妖しの光がぴかりと一瞬閃き、次の瞬間に主の胸には丹塗の矢が刺さっていました。》
とはいえ、即死を免れたのは繭玉の神威で咄嗟に身を防いだからなのだろう。大宜都比売神には僅かながら意識があったのだという。
《この繭玉には五穀の精霊が封じられています。私は大山祇神の元へと急ぎました。》
「大山祇神の元へ?」
「ああ、そして、私はその大山祇神からの依頼で、ここまできたのさ。」
神皇産霊神は大山祇神の裏書のある通行手形を素戔嗚尊に見せる。
そして、微かに植物の気配のする繭玉を拾い上げると「大宜都比売神が最期の力で守ったようだねえ」と優しく撫でた。
水 火 風 土 金
天地の如く大きも
塵芥の如く小さきも
巌の如く硬きも
泡沫の如く淡きも
五行の霊気にて 発顕る
神皇産霊神の声とともに繭玉はするすると自然と解けていく。そして、同じように大宜都比売神の遺骸も、繭玉のように解けて消えてしまう。
神皇産霊神は素戔嗚尊が呆気に取られている目の前で、指先をくるりくるりと回し、空中に円を描くと淡く光る玉が八つ現れた。
我 神を産霊する者
ひふみよ いつむなや ここのたり
産霊せよ 渦と潮の名の元に
すると、光る玉はそれぞれ三寸くらいの小さな姫神の姿に変わる。素戔嗚尊はぽかんと口を開け、「そなた魂を持たぬ精霊からも、神を産めるのか?」と心底驚いた声を上げた。
「ああ、そうだよ。こんな事が出来るのは、今や、私一人くらいさ。」
「その言い方だと、昔は他にもいたような口ぶりだな。」
「昔は、ね――。」
神皇産霊神は少し感傷的な声色で答えた。
「さて、私の仕事はこれで終わりだ。高皇産霊神に見つかる前に、この場から退散しても構わないだろうか?」
素戔嗚尊は神皇産霊神のにこやかな表情を見ると「後始末は我に任せる気だな」と口を尖らせる。
「大山祇神が呼び出したとあらば、高皇産霊神は煩いぞ? お主が頼んだことにして、上手くはぐらかしてくれると助かるのだけれど。」
「大宜都比売神が忽然と姿を消したのだ、そうはいかないだろう。それに大宜都比売神の最期の様子。あれは幽宮に父上が気配の一欠片も残さず居なくなられていることにも関わりがあるのではないか?」
そう言って厳しい口調で詰問してくる素戔嗚尊の様子に、神皇産霊神はため息を吐いた。
「ああ、厭だ。今日は厄日かねえ、面倒事が次々と起こる・・・・・・。」
「何か知っているなら、洗い浚い話してもらおう。さもなくば、お主を縛り上げて高皇産霊神の元に連れていく。」
「話すよ、話す。だから、そう凄まないでおくれ。」
そういうと神皇産霊神は大鷺に「すまないけど、局をひとつ貸しておくれでないかい?」と話す。
「先に断っておくと、私は伊邪那岐命は解きもしていないし、産霊もしていないからね。」
「だが、何があったのかは知っている、というわけだな。」
神皇産霊神は「本当、長生きはするものではないねえ」と零すと、大鷺が嘴で指し示した局の中へ素戔嗚尊と共に入っていった。
◇
語られたのは天地創造以前の「始まりの前の前」からの長い長いお話。
高皇産霊神と龍の君の対立。
箱庭の星の計画。
国常立尊の別天津神としての神去り。
禍津神と化した高皇産霊神の話。
素戔嗚尊は龍の君と龍の珠姫の最期の話を聞く頃にはすっかり感情移入してしまったようでうっすらと涙して話を聞いていた。
「つまり、今の三界はその龍の君と龍の珠姫の犠牲の上に成り立っているのだな。」
「ああ、そうなるね・・・・・・。」
神皇産霊神は心を乱している素戔嗚尊の様子に「この辺りで止めておくか?」と訊ねたが、「いずれ知らねばならぬこと、続きも教えてくれ」と素戔嗚尊は先を促した。
「龍の珠姫は高皇産霊神の手に落ち、心の太柱を生むための人柱とされ、それを助けようとした龍の君も無数の天羽々矢で貫かれた。国常立尊は咄嗟にその二柱をこの星に縫いとめたのさ。」
国常立尊の魂は散り散りになり、この星の数多の精霊に喰らい尽くされた。そして、本来なら消え去るのみだった国常立尊を、ただ救いたい一心で産霊し直したからいけなかった。
「私はあの日、あの子の魂から八岐大蛇を生み出してしまったのさ。」
その力は凄まじく、黒い雲が幾重にも重なり、大津波が起こり、全てを一瞬の内に押し流した。
「八岐大蛇は《滅び》の存在。吹き飛ばし、渦巻き、全てを押し流し、喰らうモノ。」
神皇産霊神はこの星から逃げ出しても良かったのだが、逃げ惑う幼い泥の神と砂の神を見付けると咄嗟に二人を助けてしまったのだという。
「高皇産霊神にしてみれば、私の失態は嬉しい誤算だったろうさ。」
天津神の元となる二柱が残らなければ、この星は国常立尊の願った通り、何も無い荒涼たる星として一生を終えただろう。
「私が幼い二柱を助けたばっかりに、この星は高皇産霊神の箱庭として生まれ変わってしまった。」
逃げ遅れた神皇産霊神は、幼い二柱と共に捕らえられ、その二人を助けるために輪廻の輪を制御する竜頭を生み出さなくてはならなくなった。
「だが、その約束は反故にされてね、泥の神と砂の神はその魂を弄られて、最終的に伊邪那岐命と伊邪那美命として編まれ直された。」
天常立尊、龍の君、龍の珠姫、そして、祓戸大神の欠片。
高皇産霊神は「合成神」として天津神を次々と生み出して箱庭の星を管理下に置いた。
「それがこの新たなる世界。」
それは奇しくも国常立尊が作り上げ慈しんだ世界と酷似し、皮肉にも神皇産霊神も美しいと思ってしまったという。しかし、順調に進んでるかに見えた高皇産霊神の計画は、伊邪那美命が加具土命を出産したことと、それをきっかけに全身性産褥熱から敗血症となり機能不全に陥ったことで一変する。
「全身性産褥熱・・・・・・?」
「ああ、そうだよ。伊邪那美命は加具土命を産んだから死んだのではない。その後の産後の肥立ちが悪く、病を得て死んだのだ。そして、それよりもなお、高皇産霊神にとって《火》の神が産まれたことが大事であった。」
その力の利用範囲は国常立尊の《重》の力と同じく莫大で、高皇産霊神が求めてやまない大いなる力だった。
「火産霊神の兄者が産まれたことが?」
「正確にはその前、《加具土命》が産まれたことが、だな。」
火産霊神はあくまでその残滓から作り出した神に過ぎないと話せば、素戔嗚尊は目を丸くする。その反応を見て神皇産霊神は目を細めて「火産霊神も私が産霊し直したのだよ」と笑った。
助けを求めて現れた大山祇神から「高皇産霊神が伊邪那岐命を操って迦具土神を弑した」と聞き、伊邪那岐命と伊邪那美命の宮に向かったが、その先には惨憺たる光景が広がっていたという。
「今、思い出しても、身の毛がよだつ。あの光景は今日の比ではなかった。」
核の大半を失い、今にも消えてしまいそうな加具土命へ、大山祇神の魂を解いて核となる部分を補い、辺りに充ちた莫大な神威の残滓から淤加美神、罔象女神らを産霊して、彼らを国津神としたのだという。
「さあ、私が知っているのはここまでだよ。もう、逆さに振られても、何も出てきやしない。」
星の輝いていた空はもう白み始め、徐々に朝の青い光に包まれていく。
「全く、夜を徹するとは思わなんだ――。」
「それはこちらも同じだ。」
伊邪那岐命の幽宮を出たあと、素戔嗚尊は事情を知っていそうな大山祇神に聞きに行ったが「世の中、知らないほうが良い事もある」と教えて貰えず、大宜都比売神に「折りいって、相談したいことがある」と言われて駆けつけてみれば冷たくなった彼女に出迎えられたのだから堪らないとぼやく。
「しかし、こうまで腸が煮えくり返ると不思議と休む気も起こらぬものだな。」
「いいや、少し休んだ方がいい。元から酷い格好だが、今は一層酷い姿になっているぞ?」
そう言うと神皇産霊神は「どれ、少し気を鎮めてやろう」と、素戔嗚尊に蛍のような光を差し向ける。途端、どっと押し寄せてきた眠気に素戔嗚尊は、「まだ話が残っていると言うのに」と悪態を吐いた。
「続きは起きてからにしたらどうだ?」
神皇産霊神はそう言ってくすりと笑ったが、素戔嗚尊は「このまま寝入って、寝首を掻かれては堪らぬ」というと、胸元から天津神の証しとも言える勾玉のついた首飾りを取り出して、乱暴に打ち捨てる。
「神皇産霊神よ、先程の精霊たちと同じようにこの石からも神を生み出せるか?」
「生み出せるが、その勾玉はお主が天津神であることの証しではないか。」
「先程の話を聞かされて、まだ《高皇産霊神の玩具》でいろと? そのようなもの、願い下げだ。」
眠気とたたかいながら、素戔嗚尊は「たとえこの身が、高皇産霊神に造られたものだとしても、我は我であろう?」と話す。
「それに我は高皇産霊神を許せそうにない。和邇の者から、お主を解放して欲しいと相談され、先程の逸話を《言い伝え》として聞いた。もっとも彼らの洪水の話が、別天津神同士の争いのために起きたとは思わなかったが・・・・・・。」
そういうと限界が来たのか、素戔嗚尊は眉間に皺を寄せながら「ともかく、寝ている間に消されては敵わない。身を守る術がない」と今にも眠りそうなのを堪えて言う。
「だが、それにはお主を産霊し直さねばならぬ。」
「産霊し直す?」
「このまますると、お主が解けて大宜都比売神のようになるよ?」
そう言いながら「遅かれ早かれ、やらねばならぬこと。眠っている間に済ませておこう」と微笑むと神皇産霊神は「おやすみ」と告げる。
素戔嗚尊は深い眠りに落ちていった。




