潮騒(しおさい)
潮騒の聞こえる八嶋士奴美神の邸で、龍翁が雅との通信を切る。端で話を聞いていた八嶋士奴美神は頭の痛そうな顔をし、神皇産霊神はくつくつと喉を鳴らして笑っていた。
「輪廻の輪を止めろとか、大己貴命は何を言い出すんだ・・・・・・。」
「何か考えがあるのだろう。」
「どうだろう、あの子はいつも予想の斜め上の事をやってくれるよ? 悪ノリしたのはこちらだが、八十神の時の例もあるだろう?」
八十神に殺されかけて重傷だったのを治療したら「綺麗に治してくださって、八十神もきっと驚くでしょうね」と大己貴命がとても愉しそうに笑うから、「では、磨き倒して着飾らせてやったらどうなるか」と思って、娘たちに頼んで磨き倒した挙句、めいっぱい着飾らせてやったのだという。
「それでどうなったのだ?」
「そしたら、八嶋士奴美神の餌木まで使って、あれやこれやと立ち回ってくれてな・・・・・・。」
龍翁の問いに、神皇産霊神はその動きはまるでアラジンの魔法のランプの精のようだったと笑う。それを実際に目にしていた八嶋士奴美神は「本当、八上比売も八十神も厄介な相手を敵に回したものだ」と不憫がるから、龍翁は顔を引き攣らせた。
「だが、輪廻の輪を止めたとして、どうするつもりなんだか・・・・・・。」
「そんなの、輪廻の輪を止めろと言うくらいだ。幽世に渡るつもりなんだろうよ。」
神皇産霊神がなんでもない事のように答えると、八嶋士奴美神「なッ?! 幽世へ渡るッ?!」と仰天し、龍翁も「まさかそのような無謀な事を?」と狼狽する。
「どうした? 声が裏返っているぞ?」
「いや、まさか、そのような大博打を打つだろうか?」
「ああ、あいつなら、やりかねん・・・・・・。」
唸る八嶋士奴美神の隣で、神皇産霊神は龍翁の為に状況を整理する。
「須勢理は呪について学び直したと少彦名命より聞いている。だが、それでもあの程度の鬼灯から出られぬというのだから、須勢理は天照大神に封じられていると見た方が良い。」
それに対し、八嶋士奴美神は「では、大己貴命はこちらで鬼灯を探すのではなく、須勢理ごと数多の鬼灯を幽世に送って、向こうで鬼灯の器が壊れてから、須勢理を助け出そうって魂胆か」と合点する。
龍翁は二人の話を聞くと大きく溜め息を吐いた。
「これは一刻も早く輪廻の輪を止めさせねばならぬようだな・・・・・・。」
「ああ、その方がいいだろう。あの子にとって幽世はホームと言っても過言じゃない。止められなければ輪廻の輪ごと、壊しかねないよ。」
そう言って急き立てる神皇産霊神に、龍翁は一礼するとその場を後にした。八嶋士奴美神は龍翁の慌ただしく去る様子を眺めながら、「龍翁も振り回されて不憫な事だ」とぼやく。
「《古い盟約に従って手足になろう》と大己貴命に話していらっしゃったが、よもやこのような目に遭うとは龍翁も思っていなかったろうに。大己貴命の人遣いの荒さは相変わらずと見える。」
「私はあの子のそういう突拍子のなさが好きだけどね。しかし、須勢理の元に火産霊神の格好で天照大神が現れるなど、高天原も切羽詰まっているようだ。」
「それほどまでに心の太柱は危ういのですか?」
「どうだろう? 先程聞いた大己貴命の計画が上手く行けば、心の太柱の延命は出来るかもしれないけれど、高皇産霊神は須勢理の事を諦めぬだろうし・・・・・・。」
そして「それこそ古くからの因縁だからね」と神皇産霊神は悲しげに呟く。
「その事ですが、須勢理は私にとっても大事な妹にございます。差し支えなければ、もう少しそのお話を詳しく教えて頂けませんか? 父は高天原の話や八岐大蛇の話になると、途端に口重たくなるのです。」
八嶋士奴美神が知っているのは、父が天照大神と仲違いした話と、大宜都比売神を殺した話、八岐大蛇から母の奇稲田姫を救った話で、それこそ記紀に残っている、今となっては眉唾な話ばかりだ。
神皇産霊神は八嶋士奴美神の訴えを聞くと「一体、どこから話したものやら」と肩を竦めて、「お主、母の事はどのように聞いているのだ?」と訊ねた。
◇
「かか様! かか様! 見てください! 蟋蟀を捕まえましたよ!」
それは八嶋士奴美神がまだ「三名狭漏彦」と呼ばれていた頃のこと。まだ六つかそこらだった三名狭漏彦は、草を結んで作った虫籠に、蟋蟀を入れて持ち帰ってきた。
改めて「母がどんな人だったか」と問われると、遠い昔のことで答えに困ってしまう。
ただ、八嶋士奴美神の記憶の母は「愛情深い人」という印象で、三名狭漏彦を膝に抱っこすると優しく頭を撫でてくれた記憶が残っている。
あれはまだ須勢理が産まれる前で、母は自分だけの母であった頃の話だ。撫でられる度、衣に焚き染められたいい香りがした。
「てて様は今日も遅いですね。」
今では「素戔嗚尊が愛妻と籠るために作った」と言われている、八雲立つ出雲に作られた須賀の宮は、祖父の脚摩乳命からは「高天原の魔の手から護るために建てられたのだよ」と聞いたように思うが、その理由までは覚えていない。
ただ見上げた時に、穏やかな微笑みを返してくれる母が好きで堪らなかった事だけは覚えていた。
やがて蟋蟀が羽根をすり合わせて鳴き始め、庭の他の虫たちも鳴き始める。
そして、ひとしきり虫の歌を楽しむと、母は決まって「少し声を楽しんだら放しておやりなさい」と話す。けれど、その日は苦労して捕まえたこともあって、すぐには納得できなかった。
「せっかく、かか様のために捕まえましたのに。かか様も虫の声を楽しんでいらっしゃるのでしょう?」
「ええ。だけど、あれは相手を求めて、恋し、恋し、と鳴く声なの。長い間閉じ込めておくのは良くないわ。」
「だけど、今日のは取るのに本当に苦労したのですよ?」
少し拗ねて口を尖らせると、奇稲田姫は「それでは代わりにてて様の活躍した話をお話してあげる」と話す。
「てて様の活躍した話?」
「ええ、てて様が八岐大蛇から私を救ってくださった時の話。聞きたくない?」
「聞きたい! ちょっと待ってて、すぐに放すから。」
そうして、虫籠の結び目を解き、蟋蟀を庭に放すと、三名狭漏彦は母の傍にちょこんと座り「これでいい?」と訊ねた。
「ええ、三名狭漏彦は優しい子ね。」
そして、奇稲田姫の「いらっしゃい」と言う声に、三名狭漏彦は母について部屋の奥へと戻り茵に潜り込む。
そうして、奇稲田姫から語られたのは、遠い昔、神皇産霊神が起こした奇跡と、葦原中国を襲った八岐大蛇から父が母を守る大立ち回りの話だった。
◇
「ですが、神皇産霊神、貴女が何をなさったのか、なぜ母が八岐大蛇の贄になろうとしていたのか、ちっとも覚えていないのです。」
話のいい所で話を打ち切り「幼過ぎたせいか、どうもうろ覚えでして」という八嶋士奴美神はため息を吐く。
数年経ってから須勢理に似たような話を聞いた覚えがないか確認したが、須勢理はそんな話を聞いたことが無いと言うし、父に同じように訊ねても濁されるばかりで教えてくれなかった。
神皇産霊神はころころと「それでは何も知らぬ、と同義だな」と笑う。八嶋士奴美神は「ええ、そうなのです」と苦笑した。
「まあ、素戔嗚尊がその話をしたくない気持ちも分かる。ましてや、お主や須勢理毘売には一番したくない話だろうよ。」
そう言うと「私はその伝承の主人公の一人そのものだ」と言い、「いいぞ、お主の知りたい事で分かる事なら答えてやろう」と微笑む。
「それで、何が知りたい?」
「では、なぜ母は八岐大蛇の贄になりかけていたのですか?」
「奇稲田姫は天照大神の形代として、その身を食われようとしていたのさ。」
「天照大神の形代として?」
「ああ、高皇産霊神に唆された葦原中国の民草に人身御供としてな。当時の葦原中国の民草は愚かにもそれで事が収まると信じていた。」
形代などで八岐大蛇が収まることなどないのに、かつて龍の君を眠らせた速佐須良比売の伝承に重ねて、人身御供で八岐大蛇を眠らせようとしたのだという。
「高皇産霊神が助言した? 葦原中国の民草にですか?」
「ああ、彼奴は最高傑作の《天照大神》を護りたい一心だったからな。当時は天照大神が天岩戸に籠って、高天原の力が弱まり、禁忌の子である天照大神を喰らわんとして八岐大蛇が心の太柱を登ろうとしたのさ。」
八嶋士奴美神が「八岐大蛇が天照大神を?」と益々困惑の表情になると、神皇産霊神は「八岐大蛇は《悪》ではない」と言い、「それどころか、国常立尊の古き呪を壊されぬようにしている護り神のようなもの」と話す。
一方、天照大神についてはその古き呪を破るような禁忌を冒して生まれた神だと告げた。
「天照大神は伊邪那岐命に火産霊神の魂の欠片を移植して高皇産霊神に造られた子。高皇産霊神は伊邪那岐命を唆し、加具土命を殺させ、伊邪那美命の魂の在処を探させた。」
そして、加具土命の血で穢れた伊邪那岐命は、黄泉の国で伊邪那美命を見つけたのだという。八嶋士奴美神はその話を聞くと、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
「しかし、それも失敗に終わり、高皇産霊神は伊邪那美命の代わりに、伊邪那岐命の魂を犠牲にする事にしたんだ。」
「伊邪那岐命の魂を?」
「ああ、伊邪那岐命も元はと言えば私が助けられなかった天常立尊の魂から造られた神。そして、その魂に加具土命の魂の欠片を埋め込んだ天照大神は、高皇産霊神の最高傑作になったのさ。」
神皇産霊神は遠い過去に思いを馳せる。
龍の珠姫の最期と、龍の君の咆哮と、国常立尊の慟哭。
高皇産霊神は再び世界を壊そうとしているのに、今の自分はかつてと変わらず無力だ。
神皇産霊神はかつて国常立尊の邸から見えたのと同じ海を、八嶋士奴美神の邸から眺めみると、「どこで何を間違えたのだろうな」と沈痛な面持ちで呟く。
二人して黙り込むと、潮騒がやけにくっきりと聞こえてきた。




