第9話 誰も入りたがらない部屋
病は、峠へ向かって、駆け上がっていた。
隔離区画は、赤い斑の患者で、埋まっていた。うつる、と分かってから、そこへ、進んで入る者は、いない。癒し手たちは、区画の手前で、足を止め、遠くから魔法をかけるふりをして、逃げるように、去っていく。彼らを、責める気には、なれなかった。恐怖は、罪ではない。
けれど――誰も入りたがらない、その部屋こそが、いちばん、人手を、必要としていた。
物資も、底を、突きかけていた。清潔な布。熱を冷ます、水。体力を保つための、粥。エルナは、帳面に、残りの在庫を書き出し、どこへ、どれだけ、回すかを、一つひとつ、決めていく。
足りないものを、足りるように、配る。ただ、それだけの仕事だった。けれど、その「だけ」を、これまで、誰も、していなかった。だから、いつも、どこかで、何かが、足りなかった。
「エルナ様。ご自分の分の、お食事も、召し上がってません」
ミラが、心配そうに、言った。エルナは、帳面から、目を上げずに、答えた。
「あとで、いいわ。それより、白の札の担当を、もう二人。誰か、区画に、入ってくれる人を――」
「俺が、入る」
声が、区画の入口から、した。
黒い外套の男が、袖を、まくりながら、隔離区画へ、足を、踏み入れていた。
「団長……!」
エルナは、思わず、立ち上がった。
「いけません。ここは、いちばん、うつる場所です。あなたが、倒れたら――」
「お前が、言ったんだろう。誰かが、入らなきゃ、拾えた命が、落ちる、と」
ラインハルトは、白い札を、自分の胸に、結んだ。慣れた手つきだった。
「戦場で、俺は、逃げる側に、いたことは、一度もない。……それに」
彼は、赤い斑の兵の枕元に、膝をつき、水を含ませた布を、その額に、当てた。手つきは、意外なほど、優しかった。壊れ物に、触れるような。
「この中に、俺の隊の者が、三人、いる。俺が入らずに、誰に、入れと言える」
*
夜が、更けていった。
二人は、隔離区画で、患者のあいだを、回り続けた。熱を冷まし、布を替え、水を飲ませ、粥を、少しずつ、口へ運ぶ。魔法は、一度も、使われなかった。使えるものが、そこには、いなかった。ただ、手と、段取りだけが、あった。それだけで、朝まで、一人でも多く、つなぐしかなかった。
真夜中、ふと、手が、空いた。
ラインハルトは、寝台の縁に、腰を下ろし、疲れた兵の、寝顔を、見ていた。エルナは、少し離れて、ランプの下で、帳面を、つけていた。ペンを走らせる音だけが、静かに、響いた。
「……"三人"って」
エルナは、ためらいながら、口を開いた。
「前にも、おっしゃいましたね。黒の札の人を、数えたとき。三人、と」
ラインハルトは、しばらく、黙っていた。それから、外套の内側から、古びた手帳を、少しだけ、覗かせた。表紙の、すり切れた、小さな帳面だった。長いあいだ、肌身離さず、持ち歩いてきたものだと、一目で、分かった。
「戦場で、俺は、選んできた。助かる者と、助からない者を。……時間が、ない。手が、足りない。だから、選ぶしか、なかった。選んで、切り捨ててきた」
彼の指が、手帳の縁を、なぞった。
「切り捨てた者の名を、ここに、書いている。一人残らず、全部だ。……数えることが、罰だと、思っていた。忘れないことが、せめてもの、償いだと。だから、俺は、冷徹だと、言われる。そう言われて、いい」
エルナは、その手帳を、見つめた。
冷徹だと、誰もが言う男。戦場で、数で患者を、切り捨てる、と噂された男。その男が、切り捨てた、一人ひとりの名を、忘れないために、その胸に、抱いて、生きていた。
「あなたは」
エルナは、静かに、言った。
「切り捨てた人を、数えているのでは、なくて。……救えなかった人を、覚えているんですね」
ラインハルトの手が、止まった。
「お前の、それは」
彼は、エルナの帳面を、見た。
「救うために、数えている。俺は、悔いるために、数えてきた。……同じ、数字なのにな」
二人のあいだに、しばらく、沈黙が、流れた。けれど、それは、気まずい沈黙では、なかった。むしろ、長く抱えてきた重いものを、そっと、床に下ろせるような、そんな静けさだった。
「私も」
エルナは、ぽつりと、言った。今まで、誰にも、言ったことのない、言葉だった。
「ずっと、必要とされたことが、なかったんです。名門の娘なのに、才がなくて。婚約者にも、家にも、いても、いなくても、同じで。……だから、この帳面が、初めてでした。私が、ここにいることに、意味がある、と思えたのは」
言ってしまってから、少し、恥ずかしく、なった。エルナは、ペンを、握り直した。
ラインハルトは、何も、言わなかった。ただ、少しのあいだ、こちらを、見て――それから、外套の内側の手帳を、そっと、しまった。
「意味なら、ある」
短く、彼は、言った。
「お前が、いなければ、この部屋は、とっくに、ただの、死ぬ場所に、なっている。……俺は、そういう場所を、いくつも、見てきた。だから、分かる。お前が、この場を、生かしている」
夜明けが、近づいていた。
区画の、いちばん奥で、いちばん重かった兵の、呼吸が、細く、けれど、確かに、続いていた。峠を、越えられるかもしれない。最後の、一人が。
エルナは、その寝台のそばへ、静かに、歩いていった。
隣を、黒い外套が、当たり前のように、ついてきた。
第9話、ありがとうございます。今回は、二人の距離が、ぐっと縮まる回でした。
救うために数えるエルナと、悔いるために数えてきたラインハルト。同じ「数字」を抱えた二人が、いちばん危険な部屋で、夜を越えます。
彼の手帳の"全部"が明かされるのは、まだ先です。次はいよいよ、疫病の峠。続きを見守っていただけると嬉しいです。




