第10話 生き残りの数
峠は、夜明けとともに、越えた。
隔離区画の、いちばん奥、いちばん重かった兵が、朝の光の中で、はっきりと、目を開けた。乾いた唇が、水を、求めた。エルナが、布を絞って、含ませると、兵は、かすれた声で、「うまい」と、言った。
その一言に、エルナは、床に、へたり込みそうに、なった。
何日、眠っていないだろう。数える気にも、なれなかった。けれど、涙は、出なかった。かわりに、帳面を開き、震える手で、一行を、書いた。
――峠を越えた者、この朝、二十二名。
うつる病が、退きはじめていた。斑の、新しい患者が、日ごとに、減っていく。隔離が、動線が、白の札が、目に見えない病の道を、一本ずつ、少しずつ、断ち切っていた。派手なことは、何ひとつ、していない。ただ、分けて、数えて、配り続けた。それだけだった。
「……信じられん」
しわがれた声が、した。テオドール院長が、杖をつき、隔離区画の入口に、立っていた。老いた目が、ずらりと並んだ寝台の、その多くに、生きた寝息が、あるのを、見ていた。
「これだけの病が、来て。これだけの数が、生きて、朝を、迎えた。……わしの、長い医者暮らしでも、見たことが、ない。ここは、いつも、朝には、いくつも、亡骸が並ぶ場所だった」
院長は、エルナの帳面を、受け取った。ゆっくりと、皺だらけの指で、数字を、追う。生きた者の数。亡くなった者の数。運ばれた場所ごとの、その、差。
そして、老院長の指が、ある一点で、止まった。
*
帳面には、二つの数字が、並んでいた。
一つは、隔離区画。分けて、動線を決めて、順番を、組み替えた場所。運ばれた者のうち、生きて、帰った割合。
もう一つは、西棟。ケラーの指示で、隔離をせず、「魔法をかければ済む」と、これまで通りに、扱われた場所。
二つの数字は、残酷なほど、違っていた。
同じ病。同じ時期。運ばれた者の、傷の重さも、変わらない。魔法士の腕も、同じだ。違ったのは、たった一つ――分けたか、分けなかったか。数えたか、数えなかったか。それだけで、生きて帰れた人の数が、こんなにも、違った。
「これは」
テオドール院長の声が、低く、震えた。
「これは……記録すべき、ことだ。魔法をかけたか、かけなかったか、では、ない。分けたか、分けなかったか。それが、これだけの命を、分けた。……エルナ。この帳面を、決して、失うな。これは、おまえ一人の手柄ではない。これから来る、幾人もの命の、道しるべだ」
「はい」
エルナは、うなずいた。
そして、心の中で、もう一つのことを、決めていた。この帳面の写しを、もう一つ、取っておこう、と。数字は、いつか、誰かにとって、都合が、悪くなる。都合が悪くなったものは、消されようとする。ケラーの、あの目を、思い出す。だから――消せないように、しておかなければ。守るべきは、命と、そして、命が語る、数字だ。
*
その朝、隔離区画を出たエルナに、黒い外套の男が、歩み寄った。
「終わったな」
「まだ、油断は、できません。でも……山は、越えました」
ラインハルトは、しばらく、エルナの顔を、見ていた。それから、ふと、目をそらして、ぶっきらぼうに、言った。
「顔が、ひどい。……三日、寝ていないだろう。それ以上か」
「あなたも、です」
「俺は、慣れている。お前は、違う」
彼は、少し、言いよどんでから、外套のポケットから、小さな包みを、取り出した。硬い、旅用の携行食だった。戦場で、兵が、齧るような。
「食え。倒れられると、困る。……この場が、止まる」
エルナは、その包みを、受け取った。素っ気ない、渡し方だった。優しい言葉は、何一つ、なかった。ぶっきらぼうで、不器用で、目も、合わせない。
それでも、その包みは、まだ、彼の、体温で、少し、温かかった。ずっと、外套の内に、しまわれていたのだろう。
エルナは、うつむいて、小さく、笑った。笑ったのは、何日ぶりだろう。
「……ありがとうございます。いただきます」
ラインハルトは、その笑みを、一瞬だけ、見た。そして、何も言わずに、目をそらした。冷徹だと、噂される男の、耳の縁が、ほんの少し、赤い気が、した。
――気のせい、かもしれないけれど。
エルナは、そう、思うことにした。
*
だが、その静けさは、長くは、続かなかった。
昼、ケラーが、施療院に、現れた。豪奢な白衣。憎々しげな目。彼のうしろには、宮廷の書記らしき男が、筆と紙を手に、控えていた。
「疫病は、退いた」
ケラーは、居並ぶ癒し手たちに向かって、声を、張った。
「もともと、大した病では、なかったのだ。時が経てば、退く。ありふれた、熱病にすぎん。……騒ぎ立て、施療院に、壁を作り、患者を、牢に押し込めた者が、いるが。あれは、無用な、混乱を招いただけだ。いまから、記録を、検め、正しい経緯を、書き残さねばならん」
エルナは、その言葉に、背筋が、冷えた。
もともと、大した病では、なかった。時が経てば、退いた。――それは、嘘だった。数字が、それを、はっきりと、否定していた。けれど、権威ある者が、そう「書き残せ」と、命じれば。事実は、いとも簡単に、書き換えられて、しまう。書記の筆が、その嘘を、正史に、変えてしまう。
ケラーの目が、エルナの手の、帳面を、とらえた。
「その、下働きの、帳面とやらを、こちらへ、寄越せ。誤った記録は、施療院の名を、汚す。……検めた上で、処分する」
エルナは、帳面を、握りしめた。
数字が、都合が悪くなった者に、消されようと、していた。ちょうど、思ったとおりに。
けれど、エルナは、静かに、口の端を、上げた。
――写しなら、もう、取ってあります。
第10話、ありがとうございます。疫病編の峠を、越えました。
「分けたか、分けなかったか」――その差が、生きて帰れた人の数として、帳面に、残りました。数字は、嘘をつきません。だからこそ、消したい者が、います。
次回から、この数字をめぐる攻防が始まります。ケラーの、そしてギルベルトの「魔法をかければ済む」が、静かに、崩れていきます。続きを、ぜひ見守ってください。




